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 小さな地方都市のごく普通の公立小学校において、一色真宵は知性、容姿、立ち振る舞い、どれをとっても徹底的に非凡で、異質だった。

 利発そうに輝く瞳に、整った顔立ちと伸びた背筋。作り物のように白い肌に、長く美しい黒髪。

 完璧な優等生のお手本、といったような外見を裏切ることなく、彼女はとにかく賢かった。

 一度言われたこと、手本を見せられたことはなんでも器用にこなしてのけたし、一を聞きて十を知るという言葉のとおり、得た知識を応用する術にも長けていた。


 はじめは彼女を褒め称え、皆の規範として祭り上げようとした先生方も、あまりに優秀すぎる彼女を比較対象とすることは生徒全体の士気の低下に繋がると見て、次第に彼女に触れることが少なくなっていった。

 ということになっていた。

 それだけではない、と僕は思っている。


 一色真宵は顔色を読むことにおいて、天賦の才を持ち合わせている。

 家庭に問題を抱えている子供は、しばしば大人の顔色を伺うことに長けていることがあり、まさしく彼女はその典型だった。

 しかしその能力の桁が図抜けていた。

 それは顔色を伺うなんて言葉では言い表すことのできるものではない。

 「心を丸ごとのぞき見られているような」という表現のほうがよほど近いだろう。


 だから、僕たちが教師として子供に接する際に必要となるような方便、そういったものはおそらく彼女には全て見抜かれていたのだと思う。

 そういうとき、しかし彼女はそれを口にすることはない。

 ただ暗い闇色の瞳でもって退屈そうにこちらを眺めるだけだった。

 その瞳から逃げるようにして、先生たちは彼女に触れる頻度を少なくしていったのだ。




 小学生には小学生なりの社会がある。

 異物は排除するよう働くのが社会の常だが、彼女はあまりにも優秀すぎた。

 子供達は彼女に羨望や嫉妬の視線を向けることはなく、かといって彼女を異物として積極的に排除すいじめることもなかった。

 つまるところ、子供たちは彼女のことを自分たちとは違う生き物である、とみなして、完全にその存在を無視していた。

 ……今にして思えば、彼女はその才をもって、周りの子供達には己の存在を無視させていたのかもしれない。

 未成熟ゆえの嗜虐性を刺激することもなく、ただただ徹底的な不干渉を維持し続けていたのも、彼女の特殊な才能ゆえだったのかもしれない。

 そう考えてしまう。


 一年次の担任と教頭先生から「家庭に問題があるようだから一色さんには注意するように」と聞かされた時には、彼女を取り巻くそうした関係はすっかり固定化されており、僕が介入する余地はほとんどなかった。

 こと人間関係の問題を、外部の人間が乗り込んできて、快刀乱麻を断つよう解決することなどできはしない。

 それは、大人のしがらみなどと無縁の子供の社会であっても、同じことだった。

 子供達の社会において、新任の教師である僕は力なき外部の人間でしかなく、

『バランスのとれた状態をあえて突いて藪蛇になったなら、苦しむのは子供達だ』

『当人も現状に不満を持つ様子はなく、問題行動も見られない。少しおとなしいだけで、うまくクラスに馴染んでいるよ』

 先生方のそんなもっともらしい言い分に、従うしかなかった。


 けれど僕は彼女が孤立しているこの現状をどうしても諦めきれず、一色真宵によく話しかけるようになった。

 はじめはたわいもない雑談を。

 聞き上手の彼女と話すうち、その内容は子供に向ける言葉ではなくなってゆく。

 会話は次第に友人や後輩に接する時のような話題に変わってゆき、それにも彼女はあっさり適応した。

 局所最適解の怪物、学習の鬼才に大人の雑談を振るということ、その意味を僕は理解していなかった。




 あれはいつだったか。

 近くの公園に、クラス全員で絵を描きに出かけた行事の時だ。

 三人組を作ってそれぞれの組で絵を描くよう指示された子供たちは、当然のように一色真宵を除け者にした。

 それは我がクラスにおける班分けの際のいつもの光景だった。

 彼女が一人残されたことを除いて、班分けは二年生にしては揉め事一つなくきれいに分かれる。

 残された彼女も、それが当然だと言わんばかりに一人で行動する。


 他の子供たちがそれぞれ思い思いの場所に座り込んで画用紙を広げる。

 それを見守る他の先生方を尻目に、僕は一人残された一色にこっそりついていって、様子を見守ることにした。

 しばらく一心に画用紙に向かっていた彼女はいつ気づいたのか、急にくるりと振り返ると微笑と共に手を振った―――

 かと思うとすぐさま、申し訳なさそうな表情を作って僕に向けて頭を下げた。


「あ、せんせい。きまりをまもれなくて、ごめんなさい」

「決まり?」

「真宵、ひとりでおえかきしてる」

「いいんだ」


 僕はひらひらと手を振って応じた。


「班分けは、みんなが好き勝手にしないようにするための工夫だから。

 一色さんは一人にしてても課題をサボらないし、どこかに行っちゃうこともない」

「……どうしてそんなことを真宵にいっちゃうの?」


 それは管理される側の子供に管理する側の視点を教える必要はない、という批判だった。

 確かにそのとおりなのだが、一人きりで池のほとりに座る彼女に、気づけば僕は更に本音を漏らしている。


「……僕は君の先生だけど、君を教え導くには力が足りないかもしれないと日々痛感してる。一色さんのそういう才能を、みんな持て余してるんだ」

「しってる」


 知ってる。そう、彼女はおそらく知っている。

 そういう才能、とぼかしたそれの指すものも。

 僕ら大人が不甲斐ないせいで、ひとり退屈な時間を過ごさねばならないことも。


「それならせめて、真摯でありたい。

 子供向けのおためごかしはやめて、なんでも正直に君に打ち明けたいって思ったんだ。

 それは、僕が君に教えられる数少ないことの一つなんじゃないかってね」

「しんし?」


 噛み締めるようにその言葉を繰り返した少女に、僕は微笑みかける。


「都合の悪いときだけごまかさないってことさ」

「……真宵、だれも真宵のちかくにはいられないんだとおもってた」


 そのとおり。学校にいる人間は大人も子供も、誰も彼女に視線を向けない。

 見抜かれてしまうから―――心の奥底を。

 彼女の瞳を覗き込むとき、否応なしに己の醜さを直視させられることになるから。

 それを彼女に『近くにいれない』と表現させてしまったことを、僕はひどく恥ずかしいことのように思った。


「……手厳しいな。でも、これからも一色さんの先生でいられるよう頑張りたいと思ってるよ、僕はね」


 おそらくきっと、この瞬間。

 僕が致命的に間違えたのは、ここだ。


 反応は激烈だった。

 どこか放心状態といった様子の彼女は、僕に視線を向けたままその場で地面を二度軽く踏み締めた。

 まるで、この地面が今にも崩れ落ちてしまうのではないかと恐れるように慎重に。

 ごく真剣な表情で足場を確かめ終わると、その頬がすっと赤く染まってゆく。

 そして、まるで蕾が綻ぶように満面の笑みを浮かべた。

 それは、今まで彼女が浮かべていた微笑など、霞んで消えてしまうほどに眩くて。


「そんなこといってくれたのはせんせいがはじめて。

 ありがとう、せんせい。ありがとう!」


 僕はあまりに無邪気に、その笑顔を美しいと思ったのだった。

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