2

 埃っぽい空間だったはずだ。

 ざらついたような空気が肌をさす感覚が今でも残っている。

 子供たちが校庭ではしゃぐ声が、遠く響いてくる。

 日陰の部屋で、ちかちかと音を立てて明滅する明かりの下、僕は彼女に告げたはずだ。


「すまない、一色さん。僕は君のその想いには応えられない」


 きっぱりとした拒絶の言葉。


「ありがとう、せんせい。わかったわ」

「わかってくれてよかった。じゃあ」


 なのに、


「じゃあ真宵のこれは『あい』じゃなくていい。

 いっぽうつうこうでいい、いっときのまよいでかまわない。

 あいしてる……ううん。

 、せんせい」


 そう言って、一色真宵は笑った。

 反論の余地など与えはしないと言わんばかりのかげりなき満面の笑顔で。

 僕は君のその想いに応えられない。教師だから。

 生徒を守り、導かなくてはならない。

 

「でも、じゃあ。ねえ、せんせい。

 いっときのまよいは、永遠のあいにかなわないの?」


 それなのに、続いて投げかけられた問いに、僕は答えられなかった。

 教師だから?

 そうではない。

 ではどうして答えを出せなかったのだろう?

 

「まよっているわ、せんせい」


 愛でなくともよい、と彼女は言った。

 僕は迷っているのか?

 そうではない。

 なら、どうして答えを出せなかったのだろう?

 迷うどころか、既に答えを出してしまったから?

 永遠の愛より、一時の迷いの重さを認めてしまったのか?


「まよっているわ」


 迷ってない。

 僕は、愛しているんだ。

 …………誰を?






「晴斗、はーると!」


 亜依あいが僕の顔を覗きこんでいた。

 手を伸ばして触れる。

 夢ではない。そこにいる。

 そのことに心の底から安堵して、ようやく僕は息を吐くことを思い出す。

 

「大丈夫? 落ち着いてる?」


 ともすれば目の前の暖かなぬくもりをベッドに引き込みたくなる誘惑と葛藤しているうち、亜依はそっと僕の手を引き剥がし、そのまま手を取って僕を見つめる。

 心配させてしまっている。当たり前だ。

 もう何日もずっとこうなのだから。

 それなのに亜依はこうして辛抱強く、僕のことを起こしてくれる。

 寝起きの朧げな意思を振り絞って、僕はなんとかそれらしい笑顔を取り繕う。


「大丈夫だよ。ありがとう」

「またうなされてたよ」

「はは、そう? 気づかなかったよ」

「また見たの? 悪い夢」

「ん〜、覚えてない。うなされてたなら、見てたのかも。でももう平気だよ、ほら」


 よっ、と勢いをつけて起き上がる。

 なおも不安げに僕の顔を見つめる亜依に、笑顔を作ってみせる。

 ならよかった、と言って笑う亜依の瞳は悲しくゆれたままで、自分の演技のつたなさを僕は呪わしく思う。

 それでもうまくいっているという事にしたいのだ。

 二人でもつれるようにしながらリビングに行けば、朝食がすっかり用意されている。


「おお、いい香り。いつも手伝えなくてごめんね」

「いーの。食べよ? 今日は行くんでしょ、学校」

「うん……」


 といっても、出勤するわけではない。

 僕はまだそれほど回復しているとは言い難い。

 あの事故があって以来休みっぱなしだった僕は、ついに職場を辞することに決め、デスクに置き去りにした私物などを取りに行くだけなのだった。


「いただきます」


 席について、コーヒーを啜る。

 味も香りも感じなくなったのはいつからだろう?


『わかってるでしょ、せんせい。二週間前からだよね』


 日付は正解、しかしその声は聞こえないフリをする。

 そこにいて、僕に話しかけてくるのは一色真宵の幻影だ。

 幻影と断じるのにはふたつ理由がある。

 ひとつ、彼女の声は亜依には聞こえないから。

 ふたつ、彼女は二週間前に死んだから。


 あの事故。

 僕の目の前で彼女は、彼女の母親の運転する車に轢かれて亡くなったから。




 自分がこんな幻覚を見て、聞いているなんて、亜依に伝えられるはずもない。

 僕らはギリギリのバランスでどうにか上手くやっているよう取り繕っているだけなのだ。

 これ以上彼女に負担をかけるのは嫌だった。

 ソーサーに亜依が添えてくれた角砂糖ふたつ。

 それをコーヒーに放り込むとようやく、のっぺりとした甘みだけが感じられる。


『甘くて美味しいね、せんせい』


 この声は幻聴だ。だから亜依には聞こえない。

 炒り卵を食べる。亜依は甘い炒り卵を好むから、これにも砂糖が含まれている。

 僕の味蕾は正しくその砂糖の味だけを選り分ける。

コーヒーと同じ甘いだけの炒り卵。


「うん、美味しい」


 心にもないことを口にする。

 それが二人の生活の朝に必要な言葉だと僕は信じていた。

 テーブルの向こうには、一分の曇りさえない笑顔を浮かべた一色真宵さんにんめの姿が見える。

 見たくないものを見ないよう目を閉じると、亜依が不安そうに僕を見つめていた。


「やっぱりやめたら? 顔色、悪いよ。私物なんてさ、送ってもらえばいいんだよ」

「んー、でもほら、先生方に顔を合わせて謝りたいよ。突然穴あけちゃったわけだし、担任だったのに」

「……真面目だよね、晴斗は」

「そうかな」

「そうだよ。真面目すぎるんだよ」


 亜依は冗談めかしたしかめっつらをして、僕の額に人差し指を突きつける。


「でもね、そういう真面目さにつけ込んでくる人もいるから、気をつけて欲しいな」

『そうそう。真宵みたいな、ね』


 一色は何がおかしいのかくすくすと笑っている。

 僕はできる限りの笑顔で亜依にこたえる。


「気をつけるよ」


 気づけば腕を伸ばしている。

 亜依。

 そこにいる。

 幻影でも幽霊でもないことを証明するような確かな体温、その手触りに、僕は深い安らぎを感じる。

 亜依、ごめん。

 ありがとう。

 君を失いたくない。

 今ならそう確信して、口に出せる。


「亜依、いつもありがとう」

「いいの。気をつけてね。愛してる」

「僕も。愛してる」

『愛してるわ、せんせい』


 亜依の頬に頬を寄せて、僕らはそっと抱き合う。

 亜依の肩越しに浮かぶ少女の影を、僕は見ないフリをする。

 そんなものはいないはずなのだ。


『違った。、せんせい』


 僕は迷ってなんかない。

 そのはずだ。

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