一時の迷いは永遠の愛にかなわないの?
遠野 小路
1
「あいしているの、せんせい」
その瞬間、足元が崩れて宙に投げ出されたように感じた。
あいしているの。
あいしている? 誰が?
浮ついたような感覚を、目を見開いて払い、動揺を悟られないよう注意する。
しっかりしろ。
僕はこの、図工準備室にしかと立って、愛の告白に臨んだ教え子、
完全に見誤ったと言わざるを得ない。
けれど仕方ない、誰がこんなものを想定できるだろう?
掃除の時間が終わり、昼休みのこと。
「せんせい、でんきの調子がおかしいの」
「ありゃ。ありがとう、一色さん。どこの電気?」
「ずこうのじゅんびしつ」
「どれどれ」
手を取って促されるまま立ち上がり、言われた通り図工準備室に向かう。
昼休みの廊下は、騒ぐ子供たちの喜声で溢れている。
ピロティをまたいだ別棟にある課外の図工室には誰もおらず、電気は消されたまま薄暗い。
その奥、壁についた扉の向こうに、ほとんど物置といった様相の図工準備室がある。
ここは生徒だけでの立ち入りはできないように施錠されており、子供達が掃除するときに立ち入ることはできないが、扉の小窓からのぞくと、準備室の明かりが明滅する様子が見てとれた。
「男子がね、まちがえてでんきをつけちゃったの。そしたら、中でちかちかしてたから」
「そっか。教えてくれてありがとう、一色さん。後で用務員さんに替えてもらおう」
「んーん。かえなくていいよ? せっしょくがわるいだけだから」
「どうして―――」
それがわかるのか。
振り返って聞こうとした瞬間、腰を強めに押されて、思わず扉に手をついた。
施錠されているはずの扉は僕の手が押すまま開き、押された勢いのまま部屋の中へ僕を招き入れる。
唖然としている僕の手から扉をそっと奪いとると少女は微笑んだ。
「真宵がゆるめたからだよ」
一色は後ろ手に扉を閉める。
錠が立てるかちりという小さな音がやけに大きく響く。
二人きりの空間で彼女は口にする。
「あいしているの、せんせい」
多感な子供が、教師に向かってそのような恋愛感情を向けることは少なくない、と知っていた。言われてもいた。
それでも自分は、そんな事があるはずもないとタカを括っていたのだろう。
相手は小学生だ。
それも、低学年―――二年生の子供なんだから。
けれど彼女の真っ黒な瞳は、純真無垢な幼い子供のそれというよりは、まるでこの世の全てをないまぜにした光を飲み込む大穴であるように見えた。
落下するような感覚は続いている。
エレベーターに乗って階下に向かっているような。
あるいは、部屋の床ごと大穴に落ちてしまっているような。
「それは一時の気の迷いだ。きみが大きくなって大人になれば……」
校庭ではしゃぐ子供たちの声がやけに遠く聞こえる。
自分の声さえ、テレビでも見ているかのような現実感がなく、遠い。
僕は頭を過った言葉ををそのまま口にしようとして、止めた。
それは確かに僕の本心だったが、僕の本心程度のものでは、この少女を止められないのではという恐怖が思考の端をかすめたから。
息を吸って、吐いて、それからもう一度吸って、しかと少女を見据える。
「いや、ごめん。真摯に答えよう」
「しんし?」
「中途半端にごまかしたりしないってこと」
一色は僕から目線を外さぬまま口だけで笑み、小さく頷いた。
「気持ちを教えてくれてありがとう。う、」
嬉しいよ、と反射的に言おうとした口を止める。
今自分は嬉しいだなんてこれっぽっちも思っていない。
嘘を混ぜた軽い言葉で相対してはこの少女には通用しない。
僕はそのことを確信していた。
「でもね、一色さん。先生は教え子からそういう感情を向けられても、応えられないんだ」
せんせい、どうして?
いつものようにそう問うてくると思って、一拍間をおいた。
僕の予想に反して少女はじっと僕を見つめたまま、目線だけで続きを促してくる。
「それは、生徒を平等に見るためだ。僕たちはみんなを平等に、正しく成長させるための責任がある。親御さんたちからそう信頼されて君たちを預かっているから、それを裏切ることはできない―――」
「わかるよ、せんせい。せんせいはぜったい、うらぎれないよね」
彼女が本当はどこまで理解しているのかはわからない。
反射の返ってこない
それでもこの生徒を導くため、僕は決めた歩みを止めるわけにはいかない。
「そうしたいと思っているよ。
それに僕は、愛は一方通行であってはならないとも思ってる。
君の想いに応えられないのに、君からだけそういう想いを寄せてもらうわけにはいかない。
だからすまない、一色さん。僕は君の想いには応えられない」
とりすがる余地はないと伝わるよう声色は固く。
過剰なくらいきっぱりと、僕はそう告げた。
まだ言葉を継ぐ必要があるか一色の顔色を伺うと、
一色はほんの僅かの間目を閉じて考えるようにした後、再び僕に目線を合わせた。
「ありがとう、せんせい。わかったわ」
「わかってくれてよかった。じゃあ」
戻ろうか、と口にしようとした僕は、ぎくりと身を竦ませてしまった。
背中を伝う汗の温度がわからない。
決して推し量ることなどできようはずもない巨大な熱量がそこにあると気づいてしまったせいで。
「じゃあ真宵のこれは『あい』じゃなくていい。
いっぽうつうこうでいい、いっときのまよいでかまわない。
まよっているわ、せんせい」
そう言って、一色真宵は笑った。
反論の余地など与えはしないと言わんばかりのかげりなき満面の笑顔で。
『僕は君の想いに応えられない』
なるべく傷つけないよう配慮はした。
それでも、中身は明確な形の拒絶だ。
毅然とした態度で、断ったはずだ。
それを向けられても一色は、僅かにひるむことすらないのだ。
一方通行でいいから。
一時の迷いで構わないから。
「でも、じゃあ。ねえ、せんせい、」
構わないってなんだ?
僕がそう考えているうちにも一色は問うてくる。
いつもと変わらぬ調子で。
僕の目を通して、心の底まで覗き込むようにして。
「いっときのまよいは、永遠のあいにかなわないの?」
投げかけられた問いに、僕はこたえられない。
それでもどうにかして答えるべきだったのだ。
そうしなかったから、僕は呪いを受けることになる。
かの『
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