第33話 包囲は開け
宮殿の執務室には、海軍部の重鎮たちが現在の状況を説明しにやってきていた。
海軍部のトップであるヘライオス長官は、細長い顔立ちで白髪の目立つ初老の男性だ。
「それで――話を聞こう」
「はい、閣下。まず現在の状況について説明します。作戦目標のエトルリア海において帝国軍はシキリアに陸軍2万、軍艦100隻と補給艦200隻を展開中です。敵陸上部隊の詳細な配置は不明ながらも、敵は主力の軍艦50隻と輸送艦200隻をムデルサ軍港に退避させています」
ムデルサ軍港。
帝国軍が開戦初期に上陸制圧したシキリア島の南200ミリアル(300km)に位置する、王国海軍の要塞港だ。
彼らはあえて艦隊決戦を避け、艦隊をいつでも出撃可能な状態で待機させている。
帝国海軍の活動を抑止し、いざとなれば作戦を妨害しようとしているのだろう。
「敵の主力は旧式の艦船ですが、練度は決して低くありません。従ってこの戦力を軽視するわけにはいきません。敵海上部隊は半年間ムデルサから動いていないものの、即応状態にあるものと推察します」
敵味方あわせて総勢150隻の軍艦がエトルリア海域に集まっている。
文明国同士の意地のぶつかり合いは、先日のヴィリアーニ族との戦いなど比較にならないな。
「僕は臨検作戦を実施中、友軍が敵の襲撃を受ける可能性について懸念している。提督はその点についてどう考えているか?」
「同感です。敵主力艦隊が我々の作戦を妨害しようとすることは十分に考えられます。その場合、出港した敵艦隊は1日で作戦海域に到達します。友軍への警告が間に合わず、臨検中に不意の襲撃を受ける可能性もあります」
臨検は危険が大きい作戦だ。
相手の船の進路を物理的に妨害する海上封鎖に対して、海上臨検は相手の船に横付けして海兵を移乗させ、時間をかけて検査を行う。
当然その間、艦は敵の攻撃に対して無防備になる。
「それでも海軍は優秀です。それどころかこれは敵部隊を誘引する素晴らしい餌となるやもしれません。たとえ敵の奇襲攻撃を受けても友軍は決定的な勝利を収めることができるでしょう」
「提督、いま重要なのは『勝てるか、負けるか』じゃない。『勝たずして、かつ負けない』ことだ」
僕の言葉に、ヘライオスたち海軍提督はみな困惑していた。
彼ら海軍はいささか勝利という字面に固執していて、この作戦が与える外交上の意味を十分に理解していないようだった。
「仮に僕たちが海上で決定的な勝利を収めたとして、この戦争は直ちに終わりを迎えるだろうか? ――おそらくそうはならないだろう。帝国の市民は最小の犠牲で王国に勝利することを要求しているのだし、王国の市民は帝国政府の傲慢を罰することを要求している。この目標は決して混じり合うことがない。もし双方が引くことができなければ、この戦いはどちらかが倒れるまで決して引けない絶滅戦争になってしまう」
軍隊は外交の手段であり、軍隊の勝利それ自体は外交の目的ではない。
戦いの最大の目的は自己の利益のために相手に行動を強要させることであって、勝利することではないのである。
なぜなら決定的な勝利によって敵を窮地に追い込むことで、態度を硬化させてかえって結果をより悲惨なものにしてしまうおそれがあるからだ。
ここにおいて僕は、トゥキディデスが『歴史』で記したメロス包囲戦の故事を思い出していた。
紀元前416年、アテナイとラケダイモン(スパルタ)が対立するペロポネソス戦争の最中、アテナイとその同盟軍はスパルタの植民都市であるメロスを包囲する。
包囲戦の直前、アテナイの将軍はメロス人に降伏と服従を求めて使者を送ったのだった。
曰く、降伏すれば諸君は最悪の運命に陥る前にアテナイに服従できることになるのだし、われわれは諸君を滅亡させずに富を増やし、かつ安全を手にすることができるのだと。
メロス人はこの交渉は正当なものではないとしてアテナイの傲慢に怒り、スパルタの援軍を信じて抗戦を決めた。
包囲戦の末、彼らは無条件降伏を余儀なくされた。成人男子全員が処刑され、女子供は奴隷にされるという苛烈な処置を受けたのである。
メロス人が期待したスパルタの援軍は、ついに最後まで来ることがなかった。
王国とアルカシアの関係は、このメロスとスパルタの関係によく似ているように思われる。
この故事から読み取れることはただ一つだ。
国力に大きな開きがある二つの国の間の戦争を終結させるには、双方が歩み寄れる妥協点が必要となるのである。
敵海軍を海上で撃滅してしまえば、王国の外交的態度はますます硬化するだろう。
そうなれば二国間の戦争は長期化し、その中でアルカシアだけが唯一得をすることになる。
今次作戦の目標は王都の供給能力に打撃を与え、物価の高騰によって民心を騒乱させることであって、敵海軍に回復不可能な損害を与えることではないのだ。
「いいか、海軍はいかなる場合でも戦闘状態に入ってはならない。敵が自艦に向かってきても対峙するにとどめ、決して攻撃するな。これは勅命だ。海軍は敵を攻撃せず、なおかつ敵の攻撃も受けず、敵の通商活動を妨害するんだ」
「しかし閣下、それでは兵士たちの士気が下がります。兵法では――」
僕は長官の言葉を遮って檄を飛ばす。
この作戦は後に控える和平交渉の布石、いわば観測気球だ。
将来の大敗北を交渉カードとして使うなら、それをいま起こしてはならないのである。
「僕たちが退けばいつでも騒乱が収まるのだということを、王国政府に自覚させなければならない。彼らが将来的な勝利という些細な希望に信を託して全てを賭けるなら、いずれ全てを失うことになるのだと王国市民に知らしめなければならない。相手を交渉の席につかせるためには、テーブルに付くことで得られる明白な利益を見せなければならない。戦場での勝利ではない、外交での勝利のために臨検を行うんだ」
◆
僕の言葉に提督たちは不満げな様子だった。
無茶な話だと言わんばかりの表情が顔に浮かんでいた。
明らかに納得していないという様子ではあったが、とはいえ勅命とあらば無視するわけにもいかないのだろう。
一度詳細な計画を検討し直すと言って、彼らは帰っていった。
「皇帝になった気分はどうですか?」
クルシカは僕を挑発するように言った後、ちらりと視線を合わせて僕にからかう笑みを浮かべた。
「まだよくわからない。なにせ僕は、一年前までただの冒険者だったんだから」
「優れた知己でしたわ。まるで一流の外交官のように」
「彼らが先を見る能力に欠けているだけだ。どうすれば彼らを納得させることができる?」
「成り上がりで皇帝に就いた者の意見を、この国の世襲エリートたちがすんなりと受け入れてくれると思っていたのですか?」
「ああ、まったくその通りかもな。それで僕は、彼らの信頼を勝ち取るために追加で何をすればいいんだ?」
「ヘンリク様はまだ彼らを納得させられるだけの実績を挙げられていません。まずは椅子に座って、力を抜いてくださいませ」
クルシカになにか返そうとした時、僕ははじめて自分が苛ついていて、彼女に刺々しい口調を向けていることに気がついた。
気まずくなって、僕は手近にあった椅子に深く腰掛ける。
「すまないクルシカ、君に当たるつもりはなかったんだ」
「長官にも同じことを言うべきでした。先ほどのヘンリク様は威圧的に見えましたから」
「戦いのことになるとつい熱が入ってしまって」
「最近は眠れていますか?」
「帝都に来てから、目も回るような忙しさでね。実のところ、寝ている最中に目が醒めてしまうんだ」
そういって僕は、目頭を摘んであくびをする。
一日の平均睡眠時間は三時間といったところだろう。
そのせいか、自分でも些細なことで怒るようになっているのがわかる。
「明日は休養日にいたしましょう。事務官に伝えておきます」
「しかし、明日も会う人がたくさんいるだろう」
「貴方様は帝国の皇帝、みな待ちます。中途半端な体調で面会するぐらいなら、一日かけてじっくりお休みください。使用人に言って薬湯を用意させますから」
「わかった、そうするよ」
明日が丸一日休みになったかと思うと、張り詰めていた糸が切れて急に身体から力が抜けていく気がした。
「一気に疲れが出た気がする」
「疲れは出さなければ。隠したからと言って隠し通せるものではありません。みなに余計な心配もかけます」
「そうだな……」
目を瞑るとたちどころに急激な眠気が襲ってくる。
いつの間にか、また一人でなんとかしようとする悪い癖が出ていたらしい。
「長官を説得することはできるだろうか」
「歴史的に見て、帝国を最後に動かしてきたのは市民の世論です。提督たちがあくまで反対するなら、未来の世代に平和をもたらすのとアルカシアの思い通り憎しみ合うのとどちらが正しいのか、市民に聞いてみればよろしいではありませんか。あんがい彼らは皇帝を支持するかもしれませんよ」
まったく、クルシカには敵わないな。
彼女が僕のそばにいてくれて本当に良かった。
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