第29話 疫病の備え

 ヴィリアーニ族が戦いを避けて兵を引き揚げさせたという噂が伝わると、アストラには安堵の声が広がった。


 おそらくいちばん安堵したのは、実戦を迎える予定だった村の兵士たちだったかもしれない。

 ティグリナはそんな甘ったれた性根を叩き直すとか何とかいって、彼らに朝早くから厳しい訓練を課していた。


「クルシカ、みんなの様子はどうだ?」

「民草はヘンリク様を素晴らしい領主と讃えています。今回の件で、領民たちからの支持も確固たるものになるでしょう」

「上手くやれたかな」

「いかなる名将の才略でも、戦わずして敵を退けること以上に優れた采配はありません。外交的にも軍事的にもこれ以上ない、素晴らしい結果であると思います」


 貴族にとって戦いは名誉だが、民草にとっては違う。

 その土地に結び付けられ移動の自由のない領民にとって、戦いとは自分たちの生活をめちゃくちゃにしてしまう災害以上の何物でもないのだ。


「誰も傷つかなかった、それが一番だ」

「命を散らす派手さこそありませんが――たとえ戦いに勝ったとしても、そのために払った犠牲が大きければそれは負けと同じです。ときには勝つことよりも負けないことのほうが重要ですからね」


 さすがにクルシカは武家の名門の出というだけあって、戦についてはそこらの帝国軍士官以上の知識を持っている。


 勝つことより負けないこと、簡単に見えることだがそれは意外に難しい。


 紀元前279年に起こったアスクルムの戦いで、エペイロス王ピュロスはローマ軍に勝利したものの多大な犠牲を払った。

 彼は戦いの後、その勝利を讃えた側近に対して「これ以上の勝利が続けば、私は全てを失うだろう」と述べたとされている。


 後世に『ピュロスの勝利』として伝わるこの故事こそ、戦術的勝利がときに戦略的敗北を招くことを示す代表的な例だ。


「ああ、だが……」

「戦わずして敵を退けたというのに、ヘンリク様には思い悩むことがお有りの様子ですね。どうしてそんなに浮かない顔をしていらっしゃるのですか?」

「今回の攻撃、アルカシアの手によるものだとしても不自然だとは思わないか」


 アルカシアは帝国の弱体化を狙っている。

 王国との戦争の続行を困難にするため帝国に贋金を流し、皇帝ティベリウスを暗殺したことからも明らかだ。


 ――だが、それと今回の件とでは辻褄が合わないことがある。


 なぜ彼らはヴィリアーニ族を焚き付けてまで、アストラを攻撃しようとしたのだろうか? 


「アルカシアの目的が帝国の政治的混乱であるとするなら、僕を攻撃することは不合理だ。僕の力が弱まれば、次の皇帝はとうぜん前皇帝ティベリウスの子息ということになる。そうなれば帝国は新たな皇帝のもとに団結してしまう」

「たしかに不自然ですね」


 クルシカもまたハテナと首を傾げた。

 外交的な力関係という観点だけから見れば、彼らにとっては両者の実力が伯仲することこそが望ましいはずだ。


 だが今回、彼らはやたらと攻撃という策に固執した。


「どうも、今回の攻撃は今までのものとは違うという気がするんだ。裏で何が働いているのか、そこまではわからないが」



 ◆



「資金調達が難しいと?」


 帝都から交易品に混ざって一通の手紙が届いた。

 オフィーリアが持ってきてくれたその手紙を、僕は彼女に読み上げてくれと頼んだ。


 手紙の内容は化学工場の建設資金を集めてもらうよう、ヴァンという商人に依頼していた件についてだった。


「はい。出資者はみな、マリンシード顔料そのものについては一定の評価をしたと書かれています。しかしそれでも資金を出してくれる人はなかなか見つからないと」


 ある程度予想はしていたが、現時点での出資額は当初立てていた目標の十分の一にも届かない額だった。


 どうやら新たな投資案件にとって、帝都で起こった金融恐慌は予想以上に重いかせとなって働いているらしい。


「ですが一人、有望な出資候補者がいると書いています」

「誰だ?」

「聖教会です」

「……なるほどね」


 マリンシード顔料が代替するラピスラズリ顔料の代表的な用途の一つは宗教画だ。

 彼らの信仰する救済者の装束しょうぞくの色を表現するのにウルトラマリンの色彩はピッタリらしく、そのために彼らは高価なラピスラズリ顔料を使うことを惜しまない。


 海の碧のように落ち着き深く、また鮮やかを失わないウルトラマリンの色彩は画家たちの間でも非常に人気が高い。

 その人気ぶりといえば、「自分の作品にラピスラズリ顔料を使えるのであれば、耳を切っても構わない」と公言する画家がいるほどだ。


「それで、教会は工場建設のために資金を出してくれるのか?」

「いいえ。教会は原則として金儲けを否定していますから、投資という形では資金を出せません。ただ、ある要求を飲めば総主教からの寄付という形で資金を出してくれると」

「無茶な要求じゃなければいいがね」


 もともと聖教会とは、末永くビジネスパートナーとして付き合っていきたいと考えていたのだ。

 皇帝継承のため国内で争いをしている今、彼らに恩を売りすぎるということはないだろう。


「要約すると、度々流行する疫病に対して、なんらかの対策を示してほしいと言ってきています」

「……それは、僕がやるべきことなのか?」


 古代から中世の時代にかけて、教会のもつ役割は大きく分けて三つあった。


 一つはあまねく地に信仰を広め、芸術家を後援したり、各地の伝承を記録したり、文献を翻訳・保存したりする文化組織としての働き。


 次にその地を治める領主と協力し、領主の後ろ盾となって統治の正統性を保障する政治組織としての働き。


 最後に施療院や薬草園、救貧院を経営して、その地に住む人々に最低限の医療や施しを提供する福祉組織としての働きだ。


「ようは金を儲けたらその分救貧事業に金を出せと、そういうことかと思われます」


 教会は自分で金儲けができないというその性質上、活動には常に金がかかる。

 だから彼らの資金は常にカツカツであり、貴族や商人に寄付を受けることでその活動を成り立たせているのだ。


「まあ、金を出すこと自体はいいんだが……疫病対策か」


 僕はもとの世界で流行してきた、いくつもの感染症を思い出す。

 ペスト、ポリオ、天然痘、コレラ、結核……歴史を振り返れば、いくつもの致命的な感染症が文明を危機に陥れてきた。


 いかに強大な帝国を築き、強固な支配体制を整えたと思っても、たった一度の感染症の流行が原因でもろくも崩れ去った帝国の例は枚挙にいとまがない。


 そればかりか、感染症は歴史さえ変えてきた。

 アテナイ敗北の遠因となった、古代ギリシアの政治家ペリクレスの死も。

 十四世紀の大流行でヨーロッパ人口の三分の一を殺し、封建社会を変質させたのも。

 二十世紀に一億人を殺して、第一次大戦の終結を早めたのも。

 すべては感染症が原因だ。


「いずれは手を付けないととは、思っていたけどな」


 先進的な文明をもつ帝国といえども、不衛生から無縁ではない。

 地域や階級によって程度に差はあれど、この世界に住む人々には皆一様に衛生観念というものが欠けている。


 それを一夜にして変えることは出来ないだろうが、豊かな生活を望むならいずれ変えていかなくてはならない問題だ。


「手っ取り早いのは……そうだ、石鹸!」


 手洗いは最も身近な感染症対策だ。

 安全な水の貴重なこの世界ではうがいを広めることは難しいかもしれないが、石鹸を使った手洗いなら生水を使っても十分に効果がある。


 むろんこの世界にも石鹸はあるが、泡立ちにくさや大量生産の難しさなどの問題からほとんど普及していない。

 石鹸を改良してより使いやすいものにできるなら教会の機嫌をとることもできるし、この世界の衛生観念を変えていくキッカケになるかもしれない。

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