第26話 必要な汚職
「やることが……やることが多い!」
アストラは急激な変化の時を迎えていた。
見渡す限り広がる未開の耕作適地、河川運送を通じた帝都との良好なアクセス。
そしてなにより、政治的事情も絡んだ帝都からの移民の流入。
結果として何が起きるか。
行政システムのパンクである。
「……なあオフィーリア、確認して決裁しなければならない書類はあと何枚だ?」
「午前中だけで、おおよそ三百と二十枚です」
「過労死するわっ!」
初期とは比べ物にならないほどの量の書類の束が、机の上にズドンと置かれている。
その光景を見て、僕はげんなりした。
アストラの行政組織は、皇帝を頂点にした官僚制度の存在する帝都とは比べ物にならないほど未成熟で脆弱だ。
……いや、そもそも組織と呼べるものが存在するかどうか。
「一ヶ月前は一日に数枚だったというのに、ずいぶん急に増えましたね」
「人口が急激に増えているからだよ。人が増えれば加速度的に問題も増えていく。それというのに、都市行政を執り行える人間が僕一人とは……」
「これでも下から上がってくる
「治安問題についてはティグリナの功が大きいな。彼女がいなかったら、僕は確実に死んでた」
帝国のどこを見渡しても、近代的な官僚制度は存在しない。
この世界における官僚とは公僕ではなく、主君の臣下、すなわち
このような初期の未熟な官僚制度を
「他に行政官としての仕事ができるものは……今、クルシカは何をしているんだっけ」
「帝国のほかの貴族の方から寄せられた文通や文書の内容を確認しておられます」
「そうか、そうだったな」
皇帝が死んではや六週間、『聖なる血』の噂はあっという間に広がった。
皇帝候補の一人と目されるようになってから、僕のもとには帝国各地の貴族より挨拶代わりの文通以来が殺到している。
皇帝の位に就く人物として相応しいかどうか、探りを入れてきているのだ。
僕は各貴族の歴史や力関係に疎いため、この手の文通の処理はクルシカに任せきりになっている。
だが本来、施政者は長期的な視野が必要な外交の問題にこそ力を注がなければならないはずだ。
日常の地道な行政業務に圧迫されて、外交に時間がとれなくなっている現状はまずい。
「こうなったら行政官を新たに外から雇い入れるしかないが……」
「問題はどこからそんな資源を捻出するか、ですね」
結局はそこがネックだ。
近代国家のような行政官僚制を作るとなると、マトモにやったのでは驚くほど多くの時間と金がかかる。
有能な行政官や行政手法のノウハウはそうやすやすと手に入るものではないのだ。
「とはいえアストラは今後もどんどん拡大していく。リシュリューやベストゥージェフやメッテルニヒのように、僕は過労で命を縮める気はないぞ。強引なやり方ではあるが、ひとまず箱だけ作ってそこに人を押し込めてしまえばいい」
僕は紙の上に行政組織の大まかな形を書いていく。
帝都にある帝国政府の組織図をひな形に、それをアストラの行政に合わせたものだ。
「現状で必要なのは軍務、財務、土木、教育、農業、商工業の六部だ。各部のトップとなる行政官は僕が任命し、彼らのポケットマネーで組織の大枠を作らせる」
「行政組織を作るカネがないのなら、カネのあるものに作らせればいいと。至極簡単な論理ですね。……となると、民間から人材を登用するのですか?」
「なにも叙爵して騎士身分を与えようってわけじゃない。貴族だろうが平民だろうが、有能な人材を取り入れるには旧来のやり方をそのまま取り入れたんじゃダメだ。官職を取引の材料として使えば、その『特権』にあずかろうとする人間が必ず出てくる。そういう人間を使うんだ」
「
「承知の上だよ。どのみち旧来のやり方でも汚職の発生は免れ得ない。それならば汚職を前提に制度を組み立てたほうがお得というわけさ」
確かに汚職は組織を腐敗させる。
だが近代的な行政組織の存在しないこの世界において、汚職抜きに統治を行うのは不可能であるのもまた事実。
なぜならば、統治において最悪の状態とは汚職が蔓延した状態ではなく、行政が機能不全に陥り、適切な執行能力を失った状態だからだ。
たとえ徴税官たちが集めた税金の半分をピンハネしたとしても、税金をまったく徴収できないよりはマシなのである。
「とはいえ、度の過ぎた汚職は取り締まらなくてはね。そこで行政官たちを監視するため、彼らの仕事ぶりを僕に報告する監察官という職を作ろうと思うんだ。そこでオフィーリア、君にその仕事をやってもらう」
「私にですか?」
まあ、驚くよな。
このところ助言役として僕の側に控えるなど、だいぶ馴染んではいる。
それでもオフィーリアはあくまで奴隷の身分。
責任ある立場に任じられるとは思っていなかったのだろう。
ましてや彼女は、最近自分が警戒されていることに気づいていたはずだ。
「本当はシュトラウスに任せたいんだが、彼はやや潔癖すぎるきらいがあるからね。監察官という職で重要なのは、汚職に対して
「しかし、私は――」
「貴族も平民も関係ないと言っただろう? 当然奴隷だろうが関係はない」
これについては有無を言わせる気はない。
監察官と行政官の間に是々非々の関係が築かれるように、僕とオフィーリアの間にもそれが築かれるべきだ。
彼女が忠臣ぶった顔をしながら、その下で野心を抱いているのは分かっている。
ならばこそ、だ。
彼女は僕のそばに置き続けるより、外に向けて積極的に用いたほうがアストラのためになるだろう。
◆
「帰ったぞ!」
それから数日して、帝都からシュトラウスたちが帰ってきた。
表情を見るに、どうやらうまくいったらしい。
「報告を聞こうじゃないか」
「大主教座下は異教徒や邪教徒から文明世界を防衛するため、帝都北方の守護者たるアストラ辺境伯ヘンリクを正式に『聖教の擁護者』としてお認めになった。これに伴って、帝都教会では三日三晩にわたって
聖教の守護者と認めてくれたということは、聖教会が僕の後ろ盾となったということだ。
これは誰かが僕やアストラを邪魔に思ったとしても、そう簡単に手出しすることができなくなったということを意味する。
「十分な成果だ、よくやったシュトラウス」
「当初
「お礼ならサイピアに言ってくれ。彼女の働きがなければ改善はなしえなかった」
「そうなのか? 彼女は君を絶賛していたが」
「僕はアイデアだけだ。実際の計算の殆どは、彼女が一人でやってのけた」
思えばアラビア数字による筆算を学んでいる僕よりも遥かに早く、数字を見ただけで求める答えをズバリ言い当てていくから驚いたものだ。
もちろんそのような卓越した計算能力だけが彼女の全てではないが、稀代の天才
「なんにせよ、これでお前の地位は安泰――というわけではないが、仮に皇帝になれなかったとしても、手を出すのは難しくなったというわけだな」
「クルシカにも伝えておこう。これで他の貴族との外交がだいぶ楽になるはずだ」
他の貴族との文通で、単に『アストラ辺境伯』とだけでなく『アストラ辺境伯にして聖教の擁護者』と書けるようになったのは大きい。
人は権威に弱い生き物だ。
他の貴族を説得する際にも、聖教会の後ろ盾は交渉を有利に運ぶカードになってくれるだろう。
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