第25話 夫婦の危機
「ときに、閣下は奥方とどれほど
オフィーリアがいきなりそんなことを言い出したのは、昼食が終わったあとのことだった。
房事とはすなわち性交のことで、僕は思わず吹き出してしまった。
同じ話を隣で聞くクルシカはあくまで平静を保っているから大したものだ。
「いきなり何を言い出すかと思えば……」
「申し訳ありません。しかし貴族の方々にとって、お世継ぎを作ることは自分の命よりも大事なことであるとお聞きします」
まあ、房事が貴族の仕事の一つであるのは確かだ。
とはいえ、正直今はそれどころじゃない。
皇帝ティベリウスの死とともに帝国は揺れている。
皇帝たる資格である『聖なる血』を身に宿すばかりに、僕は後継者争いの真っ只中に放り込まれているのだ。
そりゃあ僕だって男だ、クルシカとそういうことをしたくないわけじゃない。
だがそれ以上に、今は理性が働いているというだけだ。
「僕の血を引いた子どもが生まれでもしてみろ。その血を巡って状況はさらにややこしくなる。これ以上火種を増やすわけにはいかないだろう」
「そこまで考えておられていたのですね。てっきり私に飽きてしまわれたのだとばかり思っていましたわ」
「クルシカ!?」
オフィーリアに答えていると、隣から予想外の声が飛んできた。
すました顔色一つ変えず、クルシカが言葉で刺してくる。
「――あの、クルシカさん」
「何か?」
「僕は何かしましたか?」
「いいえ、何も」
クルシカの声は冷たい。
もしかして彼女に嫌われてしまったのか?
それとも、何かマズいことでもしてしまっただろうか。
冷や汗をかいていると、オフィーリアが僕に耳打ちしてきた。
「閣下、ここのところ奥方様とまとまった話をされましたか?」
「話? ミヤセン家とのことについては、いざという時の支援をお願いすることになっているが」
「……いえ、そうではなく。より個人的な問題についてです」
そういえば、ここのところ彼女と触れ合う機会は減っていた。
領地の問題をめぐってティグリナやオフィーリア、サイピアと話す時間が長くなり、クルシカと落ち着いて話をするのはついつい後回しになっていた。
もしかして、それがまずかったのか。
オフィーリアはあからさまには表に出さないが、呆れた様子で僕を見る。
「帝都から帰って以来、閣下の側には女性の影が多くなりました。むろん領地経営をめぐって
「うっ、それは……」
たしかに帝都から帰ってきたとき、僕はオフィーリアとティグリナを連れて戻ってきた。
オフィーリアについてはアストラに必要な人材だから仕方ないと思っていたし、クルシカも納得してくれていると思っていた。
しかしクルシカからすれば、信じて送り出した旦那がヨソで女を作って帰ってきたのだ。
怒っても仕方あるまい。
「オフィーリア、そこまでで結構。その程度のことさえ自分で気付けず、ましてやその後の埋め合わせも満足に出来ないような方に、それ以上の温情をかけてさしあげる必要はありません」
「あの、クルシカ――」
「ヘンリク様、私はしばらく一人にさせてもらいます。どうぞお勝手に」
声を掛けるヒマもないまま、クルシカはそそくさと自室へ帰ってしまった。
「……怒らせたよな」
「先ほどのやり取りで、余計に怒らせたかと」
「……どうすればいいと思う?」
「なるようにしかならぬ、と申しますから」
オフィーリアはそう言うが、なったら困ることもあるのだ。
こうなったら、恥を忍んで誰かに相談するしかないか。
◆
「……呆れたね。それで私のところに来たの?」
「頼むティグリナ。今の僕には相談できる相手が君しかいないんだ」
ソルマン司教もシュトラウスも村にいない今、相談できる相手といえばティグリナしかいないわけで……
はたから見ればたいそう情けない男ではあるが、手段を選んではいられない。
夫婦関係の危機である。
「普通、その経緯でほかの女のところに来る? あんたもたいがいクズみたいな男だね。どうして私はこんな男を好きになってしまったのやら」
「そう言わずに、頼む! どうか助けてくれ」
「まったく……」
ティグリナは僕に軽蔑の視線を送りながらも、やれやれという感じで相談には乗ってくれる。
惚れた弱みに付け込むようでなんだが、ありがたいことだ。
「だいたい、クルシカが怒るのは当然だろ。私みたいなぽっと出の女に、正妻としての地位を脅かされてるんだから。女としての魅力が足りないというのならまだ諦めもつくけど、とうのアンタがその鈍感さじゃね。自分が不当に軽んじられてると思っても仕方ない」
「おっしゃる通りで……」
その点については、弁解する余地もない。
「その上で言うなら、ここは腹を割ってハッキリと謝るしかないだろうね」
「それで許してくれるかな」
「許してもらえるか、もらえないかって問題じゃないでしょ。今のアンタにそれ以上のことができるの?」
うーん、できないな。
謝罪の沙汰はクルシカに委ねるほかないか。
「謝るとき、一緒になにかお詫びの品とかを持っていくべきだろうか」
「一応聞いておくけど、何を贈るつもりなの?」
「ええっと、宝飾品とか?」
「……
「じゃあ、花とか?」
「まあ、選択として悪くはないね。ちなみにどんな花?」
「あれなんかどうだ? 手に入れるのにものすごく苦労する高山地帯の白い花。今ちょうど開花の季節のはずだ」
「『花を手に入れるのにこれだけ努力したから、お前も許せ』って言われてるみたいでイヤ。というか、アンタ領地をほっぽりだして探しに行く気なの?」
「いや、それは……」
いつになくうろたえる僕の様子を見て、ティグリナは大きなため息を吐いた。
「もう、贈り物の方は考えないほうがいいよ。アンタにはそういうの、向かないみたいだしね。地面に
◆
「はあ……」
「奥方様、
「ありがとう、オフィーリア。そこに置いておいて」
いっぽうその頃、自室にこもるクルシカとオフィーリアである。
クルシカもまた大きなため息を吐いていた。
「ため息を吐くと幸せが逃げると申しますよ」
「悩みは尽きないわね、オフィーリア。まだ若い貴方にはないかもしれないけど」
「恐縮です」
クルシカが腹に抱える傷跡をさするのを見て、オフィーリアはいう。
「やはり、閣下のことについてですか」
「勘違いしないでね。ヘンリク様に構ってもらえなかったからって、
「と、申されますと」
「貴方とそのことについて話したことはなかったわね。あなたは自分の主人についてどう思ってる?」
「聡明なお方です。物事の理知をよく存じておられますし、先を見通す力もある。女心に疎いのは玉に
「では、有能な領主だと思う?」
「私はあくまで従者です。主人の才覚についてあれこれ口を出す資格はありません」
「私が聞かせてほしいのよ。言いなさい」
「……有能か無能か。あえていうなら、閣下は傑物です」
その言葉にクルシカは頷いていう。
「勇敢であれど、否応なしに人を惹きつけるような特異なカリスマはない。なにか突出した才能があるわけでもない。でも彼は、全体のなかで自分がどう動けばいいかを知っている。組織に必要な人材を集めてきて、段取りを整え、素早い決断を下し、必要な手立てをとり行ってさっさと穴を埋めてしまう。こういうのをなんていうのかしら」
「調整型のリーダーというやつですか」
「単に天才というだけなら、いくらでも落とし穴はある。いくら才が
クルシカはするどい目で牽制するように、オフィーリアの方をじっと見た。
「……そうかもしれません。奥方様は、閣下のことをどうお考えに?」
「組織にとって、地味だけどなくてはならない存在。ほとんどの人はまだ重要性に気づいてないだけ」
「それでは、閣下をお赦しになるおつもりで?」
「悪気があったわけじゃないもの。私だけいつまでも意地を張っていても、仕方のないことでしょう。私は正妻として、ヘンリク様を支える立場にいるのですから。アストラ、いや帝国の未来のためにも、ここは彼を赦してあげないと」
◆
「すまないクルシカ、今回のことは僕の思慮の浅さが問題だった。君への気遣いが足りてなかった」
館に戻ってきた僕はクルシカに
もっと色々と考えていたはずだが、言葉に詰まってそれ以上の謝罪は出なかった。
それを見たクルシカは、小さなため息を一度吐き、それから大きく息を吸い込んで答える。
「頭をお上げください。そもそも『多少のお遊びはお止めしない』と最初にいったのは私の方でございます」
「そうかもしれないが、君に悪いことをしてしまったのは事実だ。それを謝りたい」
最初の出会いこそ突然だったが、一緒に生活している間にクルシカは僕にとってなくてはならない存在になっていた。
彼女を傷つけてしまったことについては素直に謝罪しなければならない。
「悪いと思っているのですね?」
「ああ」
「なら、
「えっ、しかしそれは……」
「それが謝罪を受け入れる条件です。嫌なのですか?」
ここでクルシカに詰め寄られてたじろいでしまう僕は、自分でもつくづくヘタレだと思う。
どうにもクルシカのような強気の女性には逆らえないのだ。
……そういえばティグリナもそんな感じだな。
もしかして僕は。強気の女性に振り回されるのが性に合ってるのか?
なんにせよしょうがない、ここまで来たら覚悟を決めるか。
「いや、そんなことはないよ」
「それならよかった。ときにヘンリク様」
「なんでしょう」
「私は初めてなので、荒々しくしないでくださいね」
……はい。
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