第23話 科学と権威
思い立ったが吉日、僕は早速サイピアを呼び寄せた。
僕をのぞけば、彼女はアストラで最も学識のある人物だ。
暦法の改善に必要な観測や計算をするにおいて、この村に彼女より優れた人材はいないだろう。
「事情は分かりました。でも、本当に可能なのですか?」
「もちろん。それから、僕と二人きりの時は敬語を使わなくていいぞ」
サイピアは半信半疑といった様子で僕を見上げる。
これまで一度も教育を受けたことのない一介の冒険者がこれから世紀の大発明をすると豪語しているのだから、疑いを持つのも無理はない。
「……じゃあ、質問してもいい? 古来から『暦法には難問あり』と言われているけど、それって何だと思う?」
「うーん、ヒントをくれないか?」
「確かに質問の形式がよくなかったかも。じゃあヒントを出すわ。太陽と月の関係よ」
なるほど。
僕の予想が正しければ、この点については元の世界と変わりがないようだ。
天体が元の世界とかけ離れた法則で動いていたらどうしようかと思っていたが、ひとまず安心だ。
「月の満ち欠け周期をもとに一年を計算すると、実際の太陽の動きとは食い違いが生まれることか?」
「……驚いたわ。基礎的なところはちゃんと理解してるのね」
さて、この部分を読んでいる読者のために、ここで元の世界の地球と月の動きを使って暦法の難しさを説明しよう。
地球から見たとき、月は最も観測しやすい天体だ。
月の満ち欠け周期は一定だから、月の形を見れば前回の観測から何日経ったのかすぐに分かる。
だから元の世界でも、人類はまず月の形を頼りに暦を作り上げた。これが1ヶ月を約29.5日と定める太陰暦である。
だが、実用において暦に必要とされるのは、いつ春が来るか、あるいは秋が来るかが正確に予測できることだ。
そして、それら季節の変化を決めるのは地球に対する太陽の位置である。
しかしここで問題が生じる。
月の満ち欠け周期は29.5日だが、これは太陽暦における1年=365.24日を割り切れないのだ。
月の満ち欠け周期(太陰暦における1ヶ月):29.5日
1年の正確な日数(太陽暦における1ヶ年):365.24日
これにより不都合が生じる。
太陰暦での12ヶ月は354日(29.5日 × 12ヶ月)となり、太陽暦の1年より11.24日だけ早くなってしまう。
1年あたり11.24日のズレはあまりに大きな差だ。
この誤差は何らかの方法を使って補正する必要がある。
このように、ふつう太陰暦の12ヶ月は太陽暦の1年と一致しない。
この世界の太陽と月でも同じことが起きると考えるのが自然だ。
「それで、君たちはそれをどうやって解決したんだ?」
「大昔にフィロンっていう学者が思いついたんだけど……7年かけて月の満ち欠けが90周期起こったとき、同じ場所に同じ月の形と位置が見えるの。そのことに気づいたフィロンは、調整のためにうるう月を入れることで暦の問題を解決したのよ」
月の満ち欠けは月と太陽の位置関係によって決まる。
だから7年後の同じ時間、同じ場所に同じ形の月が見えるなら、太陽も7年前と同じ位置に戻っているということになる。
ここでサイピアが言っているのは、おそらく元の世界でいうメトン周期のような補正の方法だろう。
うるう年やうるう秒のように、うるう月を使って太陰暦と太陽暦の間にあるズレを補正するのだ。
「うるう月はいつ入れるんだ?」
「7年に6回よ、でも……」
「でも?」
元の世界で紀元前5世紀ごろに考案されたメトン周期は優秀な補正方法で、19年につきわずか2時間の誤差しか生じなかった。
だがこの世界のいわばフィロン周期が、メトン周期と同じレベルで優秀な補正方法かはまだわからない。
「実際は誤差が大きくて」
「誤差が大きいって、君たちが補正してるんだろ」
「ズレが大きくなりすぎたとき、たまにね」
「待て、それじゃあ継続的な観測はしてないのか?」
「してないわ。だって天界を研究してる学者なんてほとんどいないもの。フィロンの観測だって、1000年も昔のことだし」
サイピアの言葉に僕はあ然とした。
天文学は積み重ねの学問だ。
いかに優れたアイデアマンがいても、それを支える実験データがなければ意味がない。
フィロンの観測は1000年も前だという。
その時代の技術では観測誤差も大きかっただろうし、不完全なものであったとしても不思議はない。
フィロン周期を使い続ければズレが生じるのも当然のことだ。
この世界の人間たちは、天体の運動にさほど関心がないのだろうか?
たしかに、この世界には元の世界と違って魔法という神秘がある。
彼らの関心は天文学ではなく魔法学の方に偏ってしまったのかもしれない。
だから千年も昔の怪しい補正方法を今でも使い続けているのだろう。
こうなったら、イチからやり直すしかない。
◆
再計算のため、僕たちは手に入る限りの観測結果をかき集めた。
そのためにクルシカの伝手を使い、ミヤセン家の領地にある大図書館からフィロンが行った天体観測の結果の写しまで手に入れた。
これにはサイピアも興奮していた。
「すごい、まさか現代までこの手の写本が残っているなんて。歴史遺産ものだわ!」
一月をかけた再計算の結果、フィロンはいくつかの点でミスを犯していたことがわかった。
彼は結果の分析にあたって観測誤差を考慮していなかったし、計算の途中で単純なミスも犯していた。
さらにひどいことに、結果をより美しいものにするため、観測で得た特定の数値を都合のいいように書き換えた痕跡さえあった。
「でも何より問題なのは、この誤りが千年ものあいだ誰にも検証されなかったことだ」
元の世界とは違い、この世界の学術コミュニティはまだ発展途上だ。
有力な学説にミスや間違い、あるいは改ざんの痕跡があったとしても、それを指摘する手立てがない。
おそらくフィロン周期は、最初の100年程度は優秀な補正方法として機能したのだろう。だからこそこの方法は誰もが疑問に思わない権威となったのだ。
しかし、時間が経ちフィロン周期の問題が明るみに出た今、この遺産は捨て去られなければならない。
「……よし、これで完成だ」
「やったわね!」
再計算の結果、僕たちは36年ごとに満ち欠け463周期という結果を出した。
これによれば、うるう月の挿入は36年に31回が正しいということになる。
これが実際の値にどれだけ近いかはわからないが、少なくともフィロンの残した結果よりよほどマシなはずだ。
「今までのフィロン周期を使った方法では、1年につき0.11日のズレが生じていたんだ。一見小さく見えるが、1000年経てば110日ものズレが生じることになる」
「フィロン周期を疑ったことなんてなかったけど、まさかこんな結果になるなんて思ってもなかったわ」
科学において、疑うことと信じることは紙一重だ。
これまで先人が積み上げてきたものを信じなければ新しい発見をすることはできない。
一方で時には過去を疑わなくては、知識はある地点で停滞してしまう。
「この暦法は聖教会へのいい手土産になるに違いない。ありがとう、サイピア」
「……ま、稀代の天才であるサイピア様にかかればこんなもんよ!」
こういうところは相変わらず子供っぽい……というかチョロいんだな。
「そういえば、これを持って総主教様のところに行くのよね?」
「ああ、その手はずだ。今の状況だと僕は帝都に行けないから、代わりにソルマン司教とシュトラウスに任せようかと」
以前は大分時間がかかったが、船着き場が完成した今、もう帝都まで往復四ヶ月もかけて出向く必要はない、
船を使えば一月以内に行って帰ってこられるのだから。
「お願いがあるんだけど、私もその旅に同行できないかしら」
「ソルマン司教と一緒にいたいのか?」
「それもあるけど……総主教様に一度お会いしたくて」
サイピアはソルマン司教の下で育てられた。ということは、彼女にも人並み程度の信仰心があるはずだ。
聖教会の指導者である総主教に会いたいと思うのも無理からぬことか。
「わかった、ソルマン司教に相談しておくよ」
「ほんと!? 絶対ね!」
僕と一緒に作業したサイピアが一緒にいれば、新しい暦法についての説明もしやすいだろう。ソルマン司教もイヤとはいうまい。
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