第18話 麦が死さば

 季節は秋に入ろうとしていた。


 僕たちがアストラを訪れて初めての秋だ。

 といっても、僕は帝都に出ていてこの領地での夏を経験していないが。


 クルシカは不在中にあったことを色々と報告してくれた。


「……しかし、もうそんなに経ったのか」

「ヘンリク様は四月以上も外に出られておりましたから」

「麦は上手く収穫できたのか?」

「ええ、この地域は雨も少ないようです」


 僕たちが帰ってくる前に、すでに麦の収穫は済んでいた。


 春の中頃にまかれた春まき小麦は、おおよそ百と十日の生育期間を経て夏の終わりごろまでには収穫される。

 ここで重要なのは収穫の時期に雨が降らないという点で、雨が降ると小麦の中に含まれる成分が変質して味が落ちてしまうのだ。


「それはよかった」

「ただ、一つ問題が。いくつかの穂の生育が遅れていたようなのです」

「枯れた? 確か、ミレイ卿は春まき用の小麦をよこしてくれたんだったよね」

「はい、お祖父様はそのように言っていました」


 麦などのある種の植物には秋播性という性質がある。

 冬や春の寒いうちに穂が出て枯れてしまうことを防ぐため、一定の期間低温に晒されたあとでないと穂が出ないようになっているのだ。これを春化という。


 秋播性の強い小麦を春にまくと、生育期間中に十分な寒さが与えられないため、夏になっても穂が出ないまま適切に成長しない。


 この秋播性を減らすには、人の手で代わりに春化を行ってやる必要がある。

 芽の出た植物をわざと日の当たらない寒い場所で一定期間栽培して、花を咲かせる準備を整えるのだ。


 春化処理を施された麦は、生育期間中に低温を必要としにくくなる春播性の麦へと変化する。

 だから春にまく麦は、一般的に春化処理を施したものを使う。


 あらかじめミレイ卿には、卿の領地で栽培している春まき小麦の種を分けてもらっていたのだが……


「クルシカの家の領地はここよりずっと南にあるんだよね?」

「帝都から南に歩いて三月ほどかかります」

「ここはミヤセン家の領地より寒い。ひょっとしたらそのせいかもしれないな」


 小麦の播性は程度の問題だ。


 生育期間中にほとんど低温を必要としない春まきに向いた小麦もあれば、長いあいだ周囲が低温でないと穂の出ない秋まきに向いた小麦もある。

 ミレイ卿の領地が南の土地にあるのなら、卿から譲ってもらった春まき小麦は成長にまったく低温を必要としない、いわば究極の春まき小麦だろう。


 だが、アストラの気候は卿の領地とは違う。

 帝都と比べての体感ではあるが、この土地は夏でも気温が二度ほど低い。

 この寒さが小麦の生育に影響を与えた可能性は十分にある。


「つまり、ミレイ卿の領地で育てられた小麦の種にとっては、アストラの土地は寒すぎたってことさ」

「なるほど……しかしそれだと、問題が起こりませんか? もうすぐ秋まきの季節です。お祖父さまから頂いている秋まき用の小麦の種も、アストラにとっては寒すぎるのではないですか」


 それはそうだ。

 今から秋まき用の小麦を育て始めるまで、残り二週間ほどしかない。


「たしかにマズいな……冬の間に穂が出て枯れてしまったら、来年のこの時期にはほとんど収穫できないだろうし」


 帝都にいる間にその情報を掴めていたら、いろいろ伝手をあたって寒さに強い小麦の種を手に入れることができたかもしれない。


 しかし今更そんなことを言ったってしょうがないことだ。


 いっそのこと、今年の秋まきは中止するか。

 しかしそれにも問題がある。

 春まきの小麦の収量は秋まきのそれに比べて三分の二ほどしかないからだ。


 食糧不足に陥らないかが心配だ。


「――閣下」


 そんなことを悩んでいると、いつのまにか横にオフィーリアがきていた。

 最初に会ったときとはずいぶん雰囲気が違う。

 これといった身寄りのないオフィーリアは、使用人として僕らと一緒に住むことになっていた。


 彼女がウチに来た当初、クルシカはずいぶん張り切って彼女の体を洗い髪を整えていた。

 「使用人がみすぼらしい姿をしていると領主の威厳に関わる」とか何とかそれらしいことを言っていたが、ようは家に人が増えたことを単純に喜んだようだ。


 ……まあ、貴族のお嬢様だしな。


 いままで屋敷には大勢の使用人がいたんだろうし、それがいきなりいなくなれば寂しくなるのも無理はないか。

 ましてや四月もの間、夫は家を留守にして自分一人で暮らしていたわけだし。


 クルシカによる汚れとの格闘の結果、オフィーリアは見違えるほど綺麗になった。最初の野良猫のような不潔さはだいぶ薄れた。

 ただクセっ気のある長い黒髪はどうやら生まれつきのものらしく、油とくしを使って直しても半日後にはもとに戻ってしまっていた。


「なんだ、オフィーリア。いたのか」

「僭越ながら申し上げます。いっそのこと、今年の秋は小麦の栽培を中止するべきかと」

「それは僕も考えていた。だが食糧が足りなくなる懸念がある」

「しかし金貨はあります。金貨は食糧の代わりにはなりませんが、金貨で食糧を買うことはできます」

「……そうか、水運か」


 その通りだと言わんばかりに、オフィーリアはペコリと頭を下げた。


 飢饉が起きる原因は大きく二種類に分けられる。

 「必要な分の食糧がそもそも存在しないこと」、そして「必要とされる場所に食糧が届かないこと」の二つだ。

 前者の場合は食糧を増産するしか手はないが、後者であれば道路や港など交通インフラの改善によって解決することができる。


 今回で言えば、帝都で食糧を買い付けて戻ってくればいい。


 値付けは高いとはいえ、食糧の絶対的な供給量において帝都はアストラとは比べ物にならないからだ。

 陸地なら片道で二月かかる帝都までの道のりも、船を使って海路で向かえば一週間程度で済むだろう。


「クルシカ。農作業が終わって手の空いた者に賦役ふえきを課して船着き場を作らせるとして、今のアストラで交易船は作れると思うか?」

「今の段階では無理でしょうね。ただ、交易商を呼ぶ方法に心当たりはあります」

「帝都まで行かなくとも?」

「アストラから伸びる巨大な大河は、帝都へ通じるエウドキア海に繋がっています。エウドキア海には多数の交易船が航行していますから、彼らに連絡を取ればアストラまで来てくれるでしょう」

「どうやって連絡を取ればいい?」

「エウドキア海沿岸の港町を訪ねれば適当な者がいるはずです。具体的な接触の取り方までは……」


 まあ、流石にそこまでは分からないか。それでも一歩前進だ。


「じゃあ、僕が行ってこよう。そのほうが早いし」

「お待ちくださいませ。またお出かけになるおつもりですか?」

「でも、僕が直接出向いたほうが早いだろう」

「以前にも申しましたが、もう少し人をお使いになることを学んでください。やる気が高いのはいいことですが、他の者が功績を上げる機会を奪ってはいけません」


 確かに、クルシカのいうことには一理ある。

 なんでも自分でこなしてしまおうとする冒険者時代のクセはそろそろ直したほうがいいな。


「じゃあ……ティグリナを派遣しよう。彼女が鍛えてる兵士たちも一緒に行かせれば、ちょうどいい行軍の演習にもなるだろうし」

「それが望ましいことと思います」

「それから――」


 僕はちらとオフィーリアの方を見た。


「オフィーリア、ティグリナの補佐として付いてくれないか」

「私が、ですか?」

「不満かい?」

滅相めっそうもございません。しかしどうして私なのか、と思ったのです。私はまだ十の小娘。口先だけの人間の言う事など、だれが聞き入れるでしょうか」

「僕やクルシカだって十六かそこらの小童こわっぱさ。問題は年齢じゃなく能力だ。帝都で聞いた君の言葉は、実に見識に富んでいた。君の能力は僕が保障する。ティグリナにもそう伝えよう」

「……閣下の言葉にたて突いたこと、申し訳ありませんでした。主命を謹んでお受けいたします」


 僕はティグリナを呼んでくるよう伝えて、彼女を下がらせた。

 オフィーリアがその場を去ったあと、クルシカは僕に困惑した表情で話しかけてきた。


「なんというかあの子、謙遜けんそんというよりはむしろ卑屈ひくつですわね。まるで何かにおびえているみたいに。奴隷の身であったからでしょうか」

「怯えて?」

「だってそうじゃありませんか。あんなに小さい子があそこまでへり下った言葉遣いをするなんて、普通じゃないでしょう」

「まあ、エトやマールならしないだろう。しかし、怯えか。君はそう解釈したんだね」

「ヘンリク様は違うのですか?」


 僕はクルシカの方に向き直っていった。


「クルシカ、間諜かんちょうに向いた人間とはどんな人物だと思う?」

「間諜? スパイということですか。それならまあ、聖職者でしょう」

「それはなぜ?」

「第一に移動の自由がありますから、どんな地域にいても怪しまれるということはありません。人の秘密を知りえる機会も多いですし、協会を通して組織的なつながりもあります。なにより、聖職者は聖職を担うがゆえに人びとから信頼されていますから――って、まさか」


 僕はその言葉に頷いた。


「間諜であるとは限らないけど、彼女には注意しておいたほうがいい。すべてが見えるのは、単に裏が見えていないからだ。シュトラウスやティグリナと違って、僕たちは彼女のことについてほとんど何も知らないからね」

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