第16話 イロの問題

 商談の後、僕たちはアストラへ帰ることにした。

 帝都は巨大だ。用事はいくらでも見つけられるが、だからといっていつまでも居座るわけにはいかない。


 帰りの馬車の中で、オフィーリアは僕のことを褒めてくれた。


「マリンシードの一件はお見事でした」

「大したことじゃない。見よう見まねだよ」


 マリンシードは、ラピスラズリに似たあお色の色素を含んだ草本だ。

 

 とはいえ現代人なら鉱石であるラピスラズリは水に溶けない顔料、それに対して植物であるマリンシードは水に溶ける染料であることを知っているから、マリンシードはラピスラズリの代替としては使えないと思うだろう。


 しかしマリンシードには不思議な性質がある。

 外に長い時間放置すると、マリンシードから抽出した溶液は白く濁って粘性を持った液体に変化するのだ。


 この性質をティグリナから聞いた僕は、溶液が白く濁ったのは酸化が原因ではないかと考えた。ようはリンゴが酸化して茶色になるのと同じ原理だ。

 そして水が白く濁ったのは、マリンシードに含まれる碧色の色素が水に溶けない物質に変化したということではないか。


 だとすれば、その物質をうまく取り出すことができれば顔料として利用することができるようになるはずだ。

 そう思って実験を繰り返した結果、僕は少量のマリンシード顔料を作ることに成功した。


 いくつかの仮定と実験の結果たどり着いた、マリンシードを顔料として使う方法はこうだ。


 まず最初に原料からマリンシード溶液を抽出し、焦げ付かないよう全体をかき混ぜながら加熱する。

 あらかた水分が蒸発すると、容器の底にはネチョっとした白いカスが残る。

 この物質はマリンシード色素が酸化したことで白色に変化したもので、これを白マリンシード色素と呼ぶ。


 次に、得られた白マリンシード色素を度数の高い蒸留エタノールに投入する。

 ここに酸触媒として少量の濃硫酸を加え、再び全体をかき混ぜながら加熱する。

 するとエステル化反応が進み、白マリンシード色素の分子構造が変化して油に溶けるようになる。


 白マリンシード色素を油に溶かしたら、次に容器に草木灰そうもくばいを投入し、また全体をかき混ぜながら加熱する。

 草木灰に含まれるカリウムが還元剤として作用し、還元反応が進んで白マリンシード色素は元の碧いマリンシード色素に戻る。


 しばらく加熱すると油全体が碧色に変化するので、油をろ過して中の灰を取り除く。

 染料として使用する場合はこのままでも問題ないが、顔料として加工するにはさらにひと手間かける必要がある。


 油を低温まで下げてマリンシード色素を結晶化させる。

 これで染色に使いやすいマリンシード顔料が完成だ。


 マリンシードから作った碧色顔料を見せたときの、あのヴァンの顔といったら。

 彼はできあがった顔料を見て目を丸くしていた。

 ラピスラズリからしか取れないはずのウルトラマリン色の顔料が、そこらの植物を加工して手に入ると分かったのだから当然かもしれない。


 色は人の心をくすぐるものだ。

 たとえ実用的にはなんの意味もなくとも、色鮮やかな製品は市場で高く取引される。そのために染料の価値は高いのだ。


「とはいえ、問題もあるんだ」

「と、申されますと?」

「あの作り方で顔料を作るには、大量の濃硫酸が必要だ。今回は硫黄と硝石の混合物を加熱して希硫酸を作ったあと、魔法で水を飛ばして濃硫酸に変化させたけど……」

「それでは不十分だと?」

「魔法やそれを使う術師に製法を依存することは避けたいんだ。工業的に濃硫酸を生成するには大規模な化学工場が必要だけど、今のアストラにそんなものを建てる余裕はない」


 魔法を使えない者でも、希硫酸を加熱して水分を蒸発させれば濃硫酸は取り出せる。


 ただしそれは極めて危険な作業で、効率も良くない。


「それは帝都の投資家たち次第でしょう。ヴァン氏が商人として有能な人物であれば、工場を建設するために必要な投資を集めてくれるに違いありません」

「僕は商いには詳しくないからね。オフィーリア、君は彼が信頼できる人物だと思うかい?」

「実直な人間です。有能かどうかはともかくとして、信頼はおけます」

「それならいいんだ」


 化学工場を建設する以外にも、いろいろと夢はある。


 とはいえまずは、製品の輸出のために川のほとりに船着き場を作らなければならない。

 歩いていけば帝都から二月かかる辺鄙へんぴな土地だが、船が使えるなら話は違う。

 川から海に出て波の穏やかな海岸沿いを通れば、帝都まではおおよそ一週間でつくだろう。


「他にも建てたいものは鍛冶屋に、仕立て屋に、教会……まだまだ始まったばかりだな」

「帰ったら教会の建設を指示したほうがよろしいかと。新しい技術を導入するなら、聖教会の協力を得るに越したことはありません」

「そうだね」


 染色工業は悪臭とは切っても切り離せず、住民の強い反対に遭いやすい。

 どんなによいアイデアを思いついたと思っても、彼らに受け入れられなければ意味がないのだ。



 ◆



「おい、二人して何を話してるんだ?」

「なんだティグリナ、聞いてたのか」

「片難しい話には私には分からないからな」


 馬に乗ったティグリナが、馬車の開いた窓からこちらへ話しかけてくる。

 あの後、ティグリナは僕たちに同行してアストラへと来ることになった。


 彼女は五人の領民兵をうまく統率し、台車に乗った荷物を運ぶ五十人の奴隷を上手く使役しているようだ。


「君が一緒について来てくれるとは思わなかったよ」

「勘違いするなよ、ヘンリク。これは冒険者としての仕事だ」

「君に人を統率する才能があるとは思わなかった。どこで身につけたんだ」

「どこだと思う? 経験だよ。冒険者なんかやってると、なんにでも詳しくなる。出来なかったやつは野垂れ死ぬだけだからな」

「君がアルカシアの姫君だって噂を、前に聞いたことがある。それで人を統べる術に熟達してるのだと思ってた」

「姫君だって? あんな噂を信じていたのか?」


 そう言ってティグリナは高らかに笑った。

 僕は彼女に聞き返す。


「かといって、農民の出ってわけでもないだろう」

「まあ、当たらずとも遠からずと言ったところだね。帝国人は私たちのことを山の民と呼んでる」

「山の民だって。地下に坑道を掘って帝国と長い間戦いを繰り広げたという、あの山の民か」

「戦ったのはアタシたちの曽祖父世代だよ。今は同盟を結んで仲良くやってる」


 ティグリナが案外あっさりしているので、僕はかえって拍子抜けしてしまった。


 「山の民」とは、現在の帝国南部沿岸に広がる山脈に住む小部族の総称だ。

 尚武しょうぶの気風が強い山の民は極めて精強で、つい数十年前まで帝国と血みどろの争いを繰り広げていた。

 それが急に同盟を結んだのは、帝国が兵士の不足のために高給で兵士を雇いたいと思うようになったからだ。


 なんとまあ、お互いに変わり身が早いものだと感心する。

 しかしそれぐらいの心持ちでなくては、この混迷の時代を生き残れないのかもしれない。


 僕はティグリナに、以前から考えついていたことを知らせることにした。


「ティグリナ、アストラに留まる気はないか」

「留まるって、アストラに住むってことか? そりゃまたどうして」

「アストラは発展途上だ。今はまだ小さい集落だが、金が集まれば賊だって集まってくるし、そうでなくとも敵対的な勢力が攻めてくるかもしれない。帝都から遠く離れている以上、自衛の手段を見つけなきゃならない」


 敵が野生動物や数十名程度の賊集団なら、僕だけでも対処できる。

 だがこれが数千数万の傭兵や軍隊となると、僕だけではとても対処しきれない。

 もしなんとか出来たとしても、村には大きな被害が出てしまうだろう。


 孫子の兵法いわく、戦わずして勝つのが最もよい。

 ある程度自衛ができることを内外に示しておけば、そもそも戦いは起こらないはずだ。


 村の規模に合わせて、兵の数を増やしていく必要はあるが……


「つまり、私に兵の鍛錬をしてほしいと?」

「そうだ。頼めないか?」


 ティグリナは少し迷った様子で、髪の癖っ毛を触った。


「正直、興味がないわけじゃない。だけど、兵権へいけんを預かるならオマエをこれまでのように呼び捨てにするわけにもいかないだろう」

「そうなのか」

「当たり前だ。オマエはよくても、他の者が怪しむ。領主の命を狙っているんじゃないかとか、反乱を企てているんじゃないかとか。そういう雰囲気が兵たちの間に流れるのは、軍紀を律するうえで望ましくない」


 たしかにそうだ。クルシカを連れて来なかったのも他の兵たちへ示しがつかないからだったが、ティグリナの場合にも同じことが言えるわけか。


 そんな事を話していると、オフィーリアが爆弾発言を投げ込んできた。


「では、お二方が一夜を共にされたらよろしいのでは?」

「……は?」


 その言葉に、僕とティグリナ両方が固まった。なんてこと言うんだこの娘は! 


 ようはティグリナが僕のめかけになればいいというのだ。

 いったい誰がオフィーリアにこんな言葉を教えたのだろうか。


「いやいやいや、そんなことで問題は解決しないだろう!」

「お二方がねんごろろの仲だと兵たちが分かっているなら、対面の場でティグリナ殿が少々礼を失したとしても問題にはならないだろうと思いますが」

「僕は既婚者だぞ、クルシカが怒るわ!」

「確かに夫人はお怒りになるかもしれません。しかしクルシカどのはミヤセン家のご令嬢。貴族社会ではまれにあることですし、事情を伝えればお許しになられるのではありませんか?」


 えぇ……それでいいのだろうか。


 元の世界なら絶対に有り得ない恋愛観だが、この世界の貴族社会に限ってはあながちないとも言い切れないのが恐ろしいところだ。

 クルシカとの結婚にしたってそうだが、貴族という生き方を人間の物差しで測ってはいけない。


「いや、さすがに当のティグリナが嫌がるに決まって……ティグリナ?」

「えっ? ああ、うん、まあ、そういうこともあるのかね。……あっ、兵たちの様子を確認してくるから、また後でな!」


 何だその反応は。

 普段こっちを意識してもいないのに、いきなり乙女みたいな表情をするな。


 ティグリナは顔を真っ赤にして、僕たちから離れて先へ行ってしまった。


「おい、オフィーリア」

「……申し訳ありません、閣下。お二方とも、まさか本気にされるとは」


 僕もそう思う。

 ティグリナが僕を「そういうこともアリ」な相手として見ているなんて、思ってもいなかった。


 ……っていうか、どうするんだよこれ。村に帰ったら修羅場確定じゃないか!

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