第7話 安全と効率
村の食糧や教育、教会問題の片付いたある日の昼過ぎ、帝都へ送る行政文書を書きしたためていたときだった。
「領主様、エトが! エトが!」
赤毛の少女エトの友人、金髪の少女マールが血相を変えて領主の館へと駆け込んできた。
初めは何が起こったのか分からず、促されるまま拠点東にある河に向かう。
川はいつもより水量が多いように見え、色も茶色く濁っていた。
「かわいそうにねえ……」
「この子の母親を呼んでこい!」
「足を踏み外したらしいぞ」
川べりには二十人ほどの領民が群をなして集まっていた。
声を張り上げて叫ぶ。
「道を開けろ!」
伯爵様だ、という声がして、皆が道を開けた。
その先にはシュトラウスがいて、側には濡れた服で青ざめた顔をしたエトが仰向けになって寝かされている。
近くへ駆け寄ってシュトラウスに尋ねた。
「何があった?」
「昨晩に上流のほうで雨が振って、河が増水していたんだ。いつものように水を汲みに川に入って、速い水の流れに足を取られた。大人たちは流れが早いからと今日は中止していたんだが、この娘は知らなかったらしい」
「なんてこった、容態は?」
「息が弱く、脈もほとんど取れない。水を大量に飲んだみたいだ。気管から水を吐き出すのを助ける術をかけたが、たぶん水が肺の奥まで入り込んでいる。このままでは……」
エトの唇を見ると紫色になっていた。
手の皮膚も赤と白でまだらのような色をなしている。
……典型的なチアノーゼの兆候だ。
溺死は水の中で死ぬというイメージがあるが、必ずしもそうではない。溺死は肺の中が水で満たされて起こる。
中が水で満たされた肺は酸素交換ができなくなって全身の細胞が次第に壊死し、死に至るのだ。
ゆえに、水が大量に肺にたまった後で地上に引き上げても手遅れになってしまうのだ。
しかし心臓が止まっていないなら、まだ助かる可能性はある。
「――そうか、水元素魔法だ!」
まずはエトの身体を横向きにする。
いわゆる回復体位というやつで、水を外に排出しやすくするのだ。
そして両手を広げて精神を集中させる。
こういうときこそ転生者の知恵が役に立つのだ。
学校の理科の授業で習った肺の構造を思い出す。
気管、気管支、肺、肺胞、それを取り巻く毛細血管。
口から入った水が肺の中に溜まっているなら、逆にその水を口から排出することも可能なはずだ。
できるかどうかはわからない。だがやってみるしかない。
水元素魔法は物質の位置や形状を自在に変化させることに特化した魔法だ。
肺の隙間に入った水を引き戻し、移動させていく。
術者に高い魔法誘導技術がなければ、逆にエトの体を傷つけてしまいかねない荒業だ。
「頼む……!」
その感覚は釣りに似ていた。
水の中を自在に泳ぐ魚を釣り上げるようにゆっくりと、エトの肺に溜まった水分を引っ張り上げる。
急いでも魔力の集中が不十分でうまくいかないが、のんびりしていてもエトの体力が持たない。
そして、不意に抵抗が弱くなった。
「――ゴボッ!、エホッ、エホッ」
エトが咳き込み、大量の濁った水が彼女の口の中から出てきた。
シュトラウスは驚いて彼女の背中をさすり、水の排出を促す。
エトはハア、ハアと息を吐く。自発呼吸が戻ってきたのだ。
「どうなったんだ、成功したのか?」
「おそらく」
後ろを振り向くと、マールが涙目になっていた。
鼻を赤くして、涙と鼻水で顔はぐちゃぐちゃになっている。
「エトは!?」
「大丈夫、落ち着いて」
「うん……? ここは……?」
マールを落ち着かせていると、エトが目を覚ました。
まだ薄弱だが、それでも意識が戻ったのだ。
一度は死んだと思っていた子どもが生き返り、言葉を喋った。
周りの大人達は動転し、歓喜した。
「子どもが目を覚ましたぞ!」
「伯爵様が奇跡を起こした!」
「ヘンリク様万歳!」
惜しみない賛辞と割れんばかりの拍手と喝采を受けて、僕は思わず赤面した。
称賛されるためにやったのではないが、実際に称賛されると気分がいいものだ。
「ヘンリク、後は頼む。俺はこの娘を屋内で休養させる。生水を飲んだから感染症のおそれもあるし、身体の抵抗力を高める術をかけなくては」
「ああ、頼む」
シュトラウスはエトを担ぎ上げ、拠点に戻っていった。
大人たちもよかったよかったとばかりにその場を離れる。
その場には僕とマールだけが残った。
「領主様、ありがとう。わたし、エトが死んじゃうんじゃないかと思って……」
「彼女を助けることが出来たのは君のおかげだよ。僕を呼んできてくれてよかった」
そういってマールの手を握り、しっかりと目を見る。
子どもというのは言葉よりも信頼する人との触れ合いで安心するものだ。
目の前で友達が死にかけたことが、この子のトラウマにならなければいいが。
◆
数日後にはエトはもとの元気な女の子に戻って、母親にはたいそう感謝された。
今回は幸いにも誰も死なずにすんだが、子どもの死因で意外に多いのは溺水による窒息死だ。これは現代の地球でも当てはまる。
現代と違うのは、この世界での溺水は風呂場ではなく川での作業中に発生するということだ。
何だ現代でも同じことは起きているじゃないかと思うかも知れないが、それはあくまで川遊びであって労働中の事故ではない。
現代の日本ではそもそも水汲みなんて仕事もなければ子どもの労働は法律で禁止されているし、なによりそれらの作業が不要になるインフラが整備されている。
水が欲しければ蛇口をひねればすぐ水が出る世界で、エトのような理由で溺れる子が生まれるわけはないのだ。
というわけでクルシカにインフラの整備について相談してみたのだが、あんのじょう難しいのではと暗に否定されてしまった。
「――そんなお金や資材がどこにあるんです?」
まったくその通り。どうもクルシカは正論で刺すタイプらしい。
とはいえ一度言い出した手前、半端な覚悟で引き下がるわけにもいくまい。
「しかし、自分の領地に住む領民が死んだら困る。他の貴族はどうしてるんだ?」
「何もしていないのではないですか? 多くの貴族にとって領民は替えの効く資産です。その是非はともかく、ふつう領民の安全になど気をかけません。……水道橋でも建設すれば話は別かもしれませんが、必要な資材や費用の点で今は無理でしょう」
「井戸を掘る、とかは?」
「井戸掘りは賭けのようなものです。地下の水脈に運よく当たればよし、当たらなければずっと地面を掘り続ける。そもそも決して安価とはいえませんし。水道橋と違って水が涸れるリスクもあります。それに」
「それに?」
「どこにそんな余計な仕事をする余裕があるというのですか? いくらお金や資材があっても、働く人間がいなければどんなモノもできません。賦役をかけて労働力を確保するにしても、今は村の立ち上げ期。三十人ほどの領民と人足は既にみな働き詰めです。これ以上仕事を増やせば余計事故が増えるだけかと」
確かにクルシカの言うことは正しい。そうなるとやはり手はないのか……
いや、そうじゃない。
ことを大きく動かすのではなく、あくまで正攻法で解決すべきなんだ。
そもそも水汲みにどれだけの人手が必要になっているのかを、いくつかの数字を仮定して大雑把に計算してみよう。
村の人口 30人
1日に必要な水の量 100L/人
必要な水の量 3000kg (30人×100L/人=3000L)
一度に運べる水の量 10kg/回
必要な運搬回数 300回(3000kg÷10kg/回=300回)
川から村までの距離 300m
人の歩く速さ 1m/秒
往復にかかる時間 600秒/回(300m÷1m/秒=300秒)
総運搬時間 180000秒(600秒/回×300回=180000秒)
一日の実労働時間 6時間=21600秒
必要な人足 9人/日(180000秒÷21600秒=8.33...)
つまり今、この村は水くみだけで九人を使っている。
水汲みの仕事に村の人口の三分の一を使っているということだ。
なんという非効率!
これでは水くみだけで一生が終わる人間が出かねない。
村の発展など夢のまた夢だ。
「川の水を揚水機で組み上げるというのはどうだろう」
「揚水機……ですか?」
揚水機というのは、川などにある水を高い位置まで汲み上げる設備のことだ。
もちろんこの世界に内燃機関なんてないから、動力源としては水車を使うことが多い。
ところで実は、帝国には揚水機がない。それを指す言葉はあるから発明自体はされているはずなのだが、実際に設置されているのを見たことがない。
もしかしたら舗装道路や水道橋を建設するだけの高い土木技術を持っているがゆえに、水車のような小規模な動力機構にはさほど興味がないのかもしれない。
だが、今は金もなければ人手もない。労働力を確保するために奴隷を買ったり、ドデカいハコモノを立てて大胆に問題を解決するなどという大技は使えない。
ならばたとえ地味でも、水車のような小さな機械を使って労働効率を底上げするしかない。
そしてそれは巡り巡って、領民たちが安全に働けることにもつながるのだ。
「水車を使うのですよね? しかし作り方を知っているものがいないのでは?」
「なら、僕が作るよ」
見よう見まねだがやってみよう。
歯車をどう組み合わせるかという点を除けば、動作機構自体はそう難しいものではないはずだ。
「しかし、それは――」
「クルシカ、コレは重要なことだ。もちろん君の言う通り、貴族が下々の生活にやたらと口を出し仕事に指図を加えるのはよくない。でもこの揚水機ができれば、村民たちをもっと別の生産的な仕事に割り当てられる。そうすれば村の発展も早くなるんだ」
「……わかりました」
納得しているかは怪しかったが、クルシカもそこで引き下がってくれた。
まだ結果が出ていないから半信半疑なのは仕方ない。
結果を出せば彼女も認めてくれるはずだ。
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