第5話 教育の原理

 一週間後、領民たちは初めての漁労の成果を持ち帰ってきた。

 帝都では見たこともない魚を見て「コレは食えるのか?」と、最初はみんな戦々恐々だった。


 しかし一度焼いて食ってみるとまあウマい。

 魚なんて焼いて食えばたいていウマいのだ。


 さて、アストラの街はまだ街と呼べる規模のものではない。せいぜい村だ。

 それでも領民たちはテキパキと仕事をこなし、巨大河での漁労を中心に食料の確保も進み始めた。

 しかも我らの伯爵様夫妻が貧相な住まいをしているのは忍びないと、簡素ながらもキッチリ基礎の組まれた木の家も立ててくれたのだから言うことがない。


 正直なところ、僕自身ここまで効率よく開拓が進むとは思っていなかった。

 どんなことでも最初は失敗がつきものだ。

 それなのにこんなに早く生活の基盤が整うなんて。


 そんなことをクルシカに相談したのだが、彼女の答えはあくまで淡々としたものだった。


「ここにいる平民たちは、もとはお祖父様の領地に住んでいた者たちです。日々の仕事についての知識も豊富で、かなりたいていのことは何でも一人でこなす力がありますから」


 いわゆる百姓ひゃくしょうか。


 現代では侮蔑語ぶべつごとして扱われがちな百姓だが、もとからそのようなひどい意味があったわけではない。

 江戸時代の百姓はたんに農民というよりは商人や職人や神職や医師に至るまで、村落の維持に必要な生業なりわいをこなす人をひとまとめにした言葉にすぎなかった。


 だいたい、一つの仕事を極める「専業」という考え方自体が、経済的に豊かな人間からしか出てこない発想と考えていいだろう。

 生きるだけで精一杯の場所では、いちいち仕事を選り好みしてなんかいられないのだ。


「つまるところ、彼らは職業訓練を受けてるってことか」

「職業訓練……?」

「つまり、教育だよ」


 教育は大事だ。それを少しでも受けているか受けていないかで仕事の能率はぐんと変わる。


 元の世界では古文漢文はいらないとか、あるいは三角関数はいらないとかいう人もいた。

 ではそういう人に足し算引き算文字の読み書きが不要かと聞いてみたらどうだろうか。


 おそらく「そんなことはない、」と反論するだろう。

 要するに教育とはそういうものなのだ。


「教育といえば、ヘンリク様は文字が読めるのですね。地図に貴族語が書かれていましたから」


 帝国には二つの言語がある。貴族語と平民語だ。


 貴族語はその名の通り貴族だけが使い、帝国の宮廷言語として公文書や外交文書の作成に用いられている。


 それに対して平民語は多くの人が日常生活で使う言語で、軍隊の日報や商取引に用いられる言葉だ。


 とはいっても平民語を文字として書ける人はほとんどいない。

 貴族のほかには街の書記官や司教、軍の士官、あとは交易商人が書けるぐらいだ。


「冒険者時代に少しだけパーティーを組んでいた期間があってね。そのとき知り合いになった聖職者から教わったんだ。元は帝都の宮廷で主計官をしていたんだけど、いろいろあって冒険者に転身したんだって」

「四則演算もそのとき教わったのですか?」

「ああ……うん、そうだよ」


 その問いには苦笑いをして誤魔化した。彼女になにか隠しているな、なんて思われなければいいけど。


 この世界より遥かに教育水準の進歩した異世界から転生してきた、なんていきなり言ってもクルシカは信じてくれないだろうし……いや、クルシカなら信じるかも知れないけど、今は話が脱線するのでやめておこう。


「僕はすべての子どもに教育を施す必要があると思う。少なくとも三年、読み書き計算を教えたい」

「それは――平民に教育を施すということですか?」


 案の定クルシカは僕の案に難色を示してきた。


 まあ当然といえば当然だ。


 帝国において教育というのは、雇われの家庭教師があくまで個人的に指導する私教育のことを指している。

 貴族や商家など、子どもの教育にお金をつぎ込む余裕のある裕福な家庭にとってはそれで十分かもしれないが、それでは一般の平民にとって教育は縁遠いものになってしまう。


「問題があるかい?」

「二つあります。一つは単純にお金の問題。お祖父様が支援してくださっているとはいえ、指導者はそれなりに高価でしょう」

「実は、それについてはアテがあるんだ。もう一つは?」

「労働力の問題です。子どもは貴重な労働力ですから、四年もの間それを引き抜くとなると村の発展にも影響が出るのではないでしょうか」


 以前言ったように、子どもを労働力として使うというクルシカの発想はこの世界では別におかしなものではない。


 というより地球においても長い間、子どもは子どもとして扱われてこなかった。

 もちろん世界中多くの地域で子どもは未来のいしずえという意味で大人たちに大事にされがちではあったが、同時に労働力として大人と変わらない価値を期待されていたのだ。


 多くの国で近代教育がはじめ遅々ちちとして進まなかったのも、このあたりに原因がある。


「そうだね。でもだからこそ今しかないとも言えるだろう?」

「と、いうと?」

「教育の結果が出るのには長い時間がかかるからさ。コレはいい意味でも、悪い意味でもね。今はミヤセン家からやってきた熟練の職人が多くいるから仕事は効率的に進んでいるが、彼らも永住しに来たんじゃない。あくまでミレイ卿が僕らに貸してくれただけだから、あと一年もすればここを去って帰ってしまう。そのあと彼らの仕事を引き継げる人間が一人もいないと、村の発展はかなりの減速を強いられる」


 教育の成果が出るのには長い時間がかかる。

 つまりそれは裏を返せば、失敗を取り返すのにもかなりの時間がかかるということだ。


 ましてや今以上に村が拡大していけば、子どもという貴重な労働力を教育のために徴用されることへの不平不満は今よりもっと大きくなるだろう。

 だからこそ公教育の導入はできるだけ早くに行わなければならない。


「いちど人の割り当てが決まってしまえば、それを変えることは難しい。だからこそ立ち上げのこの時期に導入するべきだと思うんだ」

「なるほど……しかし、読み書き計算というのはずいぶん基礎的なことがらではないですか? もう少し仕事に直結することがらについても教えたほうがいいのでは?」

「平民は状況に合わせてどんな仕事でもしなければならないだろう? なら専門的なことを教えたって仕方ないよ。あくまで公教育が行うのは仕事を始めるお膳立て、彼らが仕事をし始めた時、少しでも作業が効率的に行えるようにするためさ」


 僕の熱の入った説得にクルシカはうん、と頷いた。


「そこまで考えておられるようでしたら、私としては何も異論はありません。――しかし、結局誰が教えるのでしょう? まさかヘンリク様が教える、なんておっしゃりませんよね?」

「ちゃんと分別をつけろ、だろ? 分かってる、ちゃんと人を雇うからさ。ちょうどこの件にとっておきの人がいるんだ。さっき言った知り合いの聖職者なんだけどね」


「まさか、すでに誰かお招きされていたのですか?」

「こんなこともあろうかとね。帝都を離れる前、それとなく誘いをかけておいたんだよ」

「ここに来た当初はあんなに動揺されていたのに、裏ではコツコツ根回しをなさっていたとは。ヘンリク様は案外策士でいらっしゃるのですね」

「それが冒険者って仕事だったからね。昔取った杵柄きねづかだよ」


 武芸の才があってよかったなとしみじみ思う。

 この世界に来てから言語を学んだり礼儀作法を学んだりしたが、それでも戦闘で苦労したこと、命に関わるほどの大怪我をしたことは一度だってない。


 だからこそいろんなに首を突っ込む余裕もあったわけだし、これについては転生者の特権さまさまというやつだろう。


「それで、その方はいつごろ来られるのですか?」

「帝都でやり残したことがあるから、コトが片付いたらすぐに僕らの後を追いかけるって言ってたけど……」


 そんなことを言っていると、家の外から領民たちの騒ぐ音がする。

 何事かと思って外に出ると、酔っぱらった男が村の中心で騒いでいた。


「えぇーい、わがぁ奥義を見よぉ!」


 その男の名はヨハン・シュトラウス。

 均整の取れた顔につり上がった糸目、灰がかった逆立ち髪。

 教会のローブを着崩しながら、常に酔った赤鼻を周囲に見せつける。


 ここだけを見て、この男が聖職者であるなどと誰が信じるだろうか。


 フラフラとした千鳥足で見せる酔拳に子どもたちは大ハシャギしている。


「もしかして、が話に上がったご友人ですか?」

「……」


 顔を合わせたくない、というか友人だと思われたくない。

 しかしこのままにしておくわけにもいかないと、彼に近づいて強い口調で注意する。


「おぉ? そこにいるのはぁヘンリックではないかぁ。このシュトラウスが来たからにはもう安心だぞぉ?」

「シュトラウス、君はまた酒を飲んだのか! で来いといっただろう!」


 頭を抱える。

 シュトラウスはこの酒乱ぶりさえなければ優秀な人間なんだが。


「おい、この男を鎖で繋いでおけ!」

「まてぇ、ヘンリックぅ、まてぇ、俺は無実だぞぉ!」


 初めて領民たちに下した命令が友人の逮捕だなんて、まったくひどい話だ。


 シュトラウスは大柄で力も強い。

 それでも大人の男五人に押さえつけられてようやく観念したようで、周囲の人が見守られる中引きずられていった。



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