第4話(まとめて読みたい方用)

 桜が散り、それに合わせて集まっていた人まで散っていく様を見、命の充実した緑の葉が風に揺られ、人々がその前を風のように通り過ぎていく様を見た。この地でそれを見たのは二度目だ。この一年、花を付けていない、人々が見向きもしない時期でさえ、人知れず私は桜を見ていた。桜のドキュメンタリーを映像化する権利は私がいただく。もちろん収益も全て私がいただく。


 無事……とは行かず、いくつか長引く傷を負ったものの、二年生に進級することができた。そして、桜の散るのより速く春休みが過ぎ、この世は、何のためらいもなく新たな一年を始めてしまった。


 二年生としての大学生活は、ほとんど一年生の時と変わらず、ループしているのかと戸惑いながらも、ゴールデンウィークを迎えた。私は毎年思うのだが、ゴールデンという名は荷が重すぎるのではないだろうか。三十二分休符の方が、彼らも気楽だろう。


 そんな音が止まる直前の夜、バイトを終えて家に帰ると、玄関のポストに小包の郵便物が刺さっていた。引き抜いて持って入ったものの、疲れていたので、中を確認せずにその日は寝てしまった。


 それを、静かな朝、今この瞬間をもって開けてみようと思う。


 昨日は気付かなかったが、差出人は実家の両親だったようだ。ということは、これは成人祝いだろう。


 先日私は二十歳の誕生日を迎えたのだ。その日は、家で一人寂しくカップ焼きそばを食べながらデイ・アフター・トゥモローを見るという、季節外れに寒い一日だったが。


 爆弾が入っていたとしても爆発しないくらい、慎重に包装紙を開け、中身を取り出した。ダンボール箱だった。どうやらその中に入っているようなので、中のものを傷付けないよう、ゆっくりカッターの刃を通した。


 箱を開けると、タキシードを着たペンギンのぬいぐるみと、ギフト券用の封筒が入っていた。


 ペンギンのぬいぐるみは、私が幼い頃から家にあったものだ。元々タキシードは着ていなかったのだが、どうやら執事として私のところに戻って来たらしい。


 それともう一つ。いくら入っているのだろうと統計学的に当たりを予想しつつ、封筒を開けた。


 中身は、「肩叩かせてください券」十枚だった……。裏社会の金券ショップでなら換金できないだろうか。


 裏を見ると、説明と注意書きがあった。

(肩を叩きたくなったら対象者に渡せ。対象者は血縁関係のある者のみ。有効期限は、進化の過程で人類がもう一度海に帰るまで。裏社会の金券ショップで交換する事は出来ない。この券を使用するまで死ぬ事は出来ない。この券を破棄すると死が死ぬ事になる。以上。)


 途中から不滅の呪いをかけられたような気がする。


 私の両親は素直ではない。この呪いの混じったプレゼントも、いつも見守っているというメッセージと、いつでも帰って来られる理由を、回りくどい形でくれたのだろう。

 おたまじゃくしの親は蛙だと言うように、私の両親は私に似ているのかもしれない。とりあえず券の方は、押し入れに厳重に封印しておいた。


 深海に一瞬、光が差したような感じがした。この世界には対称性がある。心の奥から出たものは、心の奥まで届くのかもしれない。


         *


 今日は自分の大学で開催されるオープンキャンパスへ行くつもりだ。もちろん、全てなかったことにして始めからやり直すためではない。

 同じ年代の人がどう生きているのか知るためだ。二年生になって、人が普通に生きていることに違和感を覚え始めた。


 感情の状態に関係なく、誰にも心の重りはあるはずだ。鉄球が繋がった足枷でさえ、それを付けて生活するとなると、大変な労力がいる。

 それに対して心の重りは、いわば心臓を鉄球に取り替えられたようなものだ。引きずって歩くのですらやっとな代物を、全身を使って持ち上げて暮らしている。それなのに、どうして平然と社会生活を送ることができているのか。


 オープンキャンパスは、それを確かめるのに丁度良いイベントだろう。幸か不幸か、私は大学に顔見知りがほとんどいない。そのため、お客さんとして訪れても、気付かれることなく情報を聞き出せるだろう。


 それに、私は自分の通う大学のことをほとんど何も知らない。ニュースを見て、ネットで少し調べただけだ。オープンキャンパスも今日が初めてだ。大学生の肩書きを取れば、お客さんと全く変わらない。


 今日は遅刻もないので、ふんぞり返りながら行く準備を整えた。念のため、学生証は置いておくことにした。刑事が潜入捜査をしている時に、うっかり警察手帳を見られ、正体を知られる姿をよく見るからだ。


 執事の楠木を連れて、家を出た。


 空は、たくさんの雲が覆っていた。しかし、世界が誤作動を起こしたような不穏な空気は漂っておらず、わざわざ見上げようとも思わないくらいには爽やかだった。

 絶好の潜入日和だ。雨が降りそうな時は、全員が胡散臭く見えるものだが、こういった空気の時は、人は疑うという動詞を忘れている。


 いつも通り、裏門から侵入した。この辺りはまだ、イベントの賑やかな雰囲気は全くなかった。


 広場に近づくにつれ、静寂を殺そうとする明るい殺気が強くなっていった。


 広場に出ると、大きな白い簡易テントが、噴水の近くに二つ並んで立っていた。後ろ側からなのであまり良く見えないが、パンフレットやグッズを渡しているようだった。欲しい気持ちを堪え、講義棟に向かった。


 今日は、ほとんどのサークルが活動しており、それぞれの持ち場で相談に応じてくれるらしい。その中で、取り組む上で内省がなくてはならないサークルは、全て講義棟にある。

 まずは省治学サークルだ。名前に(省みる)という字があるのだから、しこたま省みているに違いない。な〜に、ちょっとばかりいただくだけさ。


 建物に入ってすぐ、正面にターゲットの教室があった。この大学の売りの一つである省治学の名を冠するサークルなので、アクセスしやすい所にあるのだろう。

 辺りを見回しながらゆっくり歩き、お客さんの雰囲気を出しつつ教室に入った。私が一番乗りだったようだ。罪悪感という洗礼を受けつつ、奥に進んだ。


「あれ? 君は、同じ学科の子だよね?」


 横から聞き覚えのある声が聞こえた。まさか……、私は完璧に溶け込んでいたはず。自分への呼びかけでないことを願いつつ、恐る恐る音のする方へ向いた。


「やっぱりそうだ! 省治学サークルへようこそ!」


 アライさんだった。入り口と同じ側の壁にもたれかかっていた。部屋に入る際のクリアリングを怠っていた。戦場じゃなくて助かった。


「やあ。君は、このサークルに入ってたんだね」

「そうなんだよ! 私のことを知ってくれていたなんて光栄だな!」


 休みの日の朝にもかかわらず、いつも通り、媚びる明るさとは一線を画す、自然光なオーラを放っていた。


「教室で目立ってるからね。それよりも少し意外だな。もっと、いかにも大学生なサークルに入ってるのかと」

「最初の頃はそういうのにも入ってたんだけど、見せかけだけで生きる雰囲気に虚しくなっちゃってね。今はここと、課外活動だけやってる感じかな〜」

「そうなんだ。ここは実の伴った土壌なんだね」

「そうだね。そういう意志があれば、発芽して成長できる土壌だとは思うな。ただ、目新しさだけに惹かれて来たような、雑草みたいな人達も多いけどね〜」


 草刈り鎌のような鋭い指摘が出た後、近くの二人で話せる席に案内された。


「このサークルはどんな活動をしているの?」

「そうだな〜。簡単に言うと、授業がより実践に重きを置いた形になったような感じかな」

「ということは、省みると?」

「独特な合いの手だね。そう。だから、集まるのは月に一度だけなんだ。それ以外の時間は、内省や思索の過程で気付いたことだったり考えたことがあったりすれば、それを共有してるかな〜」

「そうなんだ。かなり個人の意思に任せてるんだね」

「強制となると、意図と反してしまうからね。なので、うちはオーガニックなサークルなんですよお客さん!」

「それでできたオーガニック人間を世に売り出すわけだね?」

「人身売買と誤解されやすい表現をすると、そうなります。思い切ってお客さんも、オーガニック人間になってみませんか?」

「モラルが崩壊した世界の通販番組を見ているみたいだよ」


 いかがわしい話をしているうちに、他のお客さんも少しずつ見学に来始めた。アライさんは、教室に人が入ってくるたび、眩しくない程度の笑顔で挨拶していた。


「今日はサークルの見学をしにオープンキャンパスに来たの?」

「それもあるんだけど、一番は、同年代の人が、どうして苦しみを抱えているのに平然と生きられているのか知りたくてね」

「重厚な問いだね。うちの大学生は耐えられるかな〜。それで、どうしてそれが知りたいんだい?」

「実は今、苦しみが顕在化していてね。当たり前や普通といった概念が崩れ始めてて、色々とわからなくなってきてるんだ」

「なるほど〜。そういう疑問には当たり前のように普通に生きられる人には答えられなさそうだな~。私の場合は、普通に生きられている方ではないけど、顕在と潜在を行き来しているような感じなんだよね。だから、力になれるかわからないけど、もう少し伺ってもいいかな?」

「是非お願いします」

「それは良かった!」


重たい問いにも茶化さず答えられる辺り、さすがはオーガニック人間だった。

 ここは一番広い教室なのだが、大学の目玉の一つだけあって、砂時計のように着実に人が埋まり始めた。


「それで本題に入るけど、疑問が生まれたってことは、何かに違和感を覚えたって事だよね。一体何を見たんだい?」

「大まかに言うと、誰もが内に持っているものと向き合い続けるうちに、それ自体は何も変わっていないのに、少しずつ重たい鉄球と鎖に見えてきた感じかな」

「そうだったのか。確かに、そんなものを抱えていたら、普通の生活は崩壊していくね。いざ苦しみと対面すると、誰かが作り出した意味や価値なんて、シャボン玉が割れるみたいに一瞬で消えてなくなるけど、長く見続けるうちに、そのシャボン玉の数がかなり減ってしまったんだね」

「根拠がないものを漠然とした概念で包み込んで触れないようにするのは、人間の防衛本能の一つだって、授業で言ってたね」

「そうそう、よく覚えてるね。てことは、普通とか当たり前っていう状態は、与えられた意味や価値でできたシャボン玉の布団に包まっている状態になるのかな?」

「そう思うよ。人間には手も足も出せない多様性から、自分という唯一性を必死に守ろうとしているんだね」

「相談に乗っている側からの相談になっちゃうんだけど、その与えられた意味に籠もっているのと、思い切ってそこから飛び出すのと、どちらが幸せだと思う?」

「籠もっている方が短期的には楽だけど、『貸与された自我に執着するのは、それが最も恐れる永遠の死に通じている』って、昔の人々は口を揃えて言っているよね」

「そうなんだよ〜。『省治学が目指すものは、仮初の自我を脱ぎ捨てて、本来の自我を取り戻すことだ』って、顧問の先生も言ってるんだよね」

「顧問の先生って、ドーナツの鎖に繋がれてる先生のことだよね?」

「そうそう! この前は、『人間とドーナツはトポロジー的に同じなんだ』って力説してたよ!」

「ドーナツと間違えて自分を食べないか心配だね」


 そんな話をしている間にも、教室内の人の数は増えていた。どうやら時間切れのようだ。


「そろそろ満席になりそうだね。在校生がせっかくの機会を奪うのも悪いから、私はもう失礼するよ」

「そっか! わかったよ! 今日は、あまり詳しくは知れなかったけど、外側からじゃ見えにくい君の良さを、少しでも知れて良かったよ!」

「こちらこそ、君の外側を立証する内側の良さを、少しだけでも知れて良かったよ。今日はありがとう」

「いえいえ! 君の方こそ、今日は来てくれてありがとう!」


 教室の席が人で満たされる前に外に出た。


 本当はこの後もいくつか聞いて回る予定だったが、中止することにした。


 アライさんとの対話を通して、自分の中で疑問への答えはなんとなくわかっていて、目的は答えを得ることではなく、自分の苦しみを誰かに知ってもらうためか、最悪の場合は自分の苦しみに他人を引きずり込むためなのかもしれないと気付いたからだ。


 対話をすると、知らないうちに自分にかけた催眠術も解かれてしまうらしい。


 私の最大の苦しみを、この世に存在しないかのように振る舞っている世の中に腹が立っていたのだ。

 存在しないかのように振る舞うからこそ、平然と生きていられる。その理屈を受け入れてしまえば、そう振る舞えない私は、この世で生きる資格がないことを認めなくてはならない。


 サークル部員でもないのに、しばらく扉の前で立ち止まってしまった。


 生きる資格がないのだとしたら、殺しの資格はあるのだろうか。そう思った時、私は今スパイだったことを思い出した。私の学籍番号の下二桁は、(ゼロゼロ)ではなく、(ダブルオー)なのかもしれない。


 疑問は解決したので、純粋にお客さんとして校舎を周ろうと思う。


 一つ上の階に上がると、工学系のサークルが様々なテクノロジーを紹介していた。VRなど、比較的新しい技術を体験できる教室もあったのだが、あいにく私は三半規管が弱い。

 角にある少し仲間外れな部屋で、日本古来の技術を科学的に紹介しているようだったので、少し立ち寄った。


 中に入ったが人は誰もおらず、机は大半が端に寄せられ、壁に何枚も貼られている大きなポスターの下に、実物と思われるものが置かれていた。


 まず、伝統的なおもちゃのコーナーに止まった。


 だるま落としなら私にもわかる。慣性の法則だ。外からの影響で変化したくないのだ。それでも私は信じている、彼らは、自分の意志が定まって動き出そうと決意したら、独りでに動き出すと。そう思うと怖くなったので、十字架の形に並べておいた。


 こまが倒れないのは、回転によって発生する力が、回転軸が傾くことによる向きの変化を拒むからだそうだ。変化は宇宙一の嫌われ者なのかもしれない。変化自身はそのことをどう思っているのだろうか。


 おきあがりこぼしは、半球の底に重りを付けることで、倒れて重心が上がっても、いずれは元に戻る。一度浮ついて大失敗したのだろう。私にとっては、この方を地面に寝かせるのすら不可能な任務だ。


 やじろべえは、重心が支点の真下にあるらしい。私の重心も真下にあるのだろうか。


 万華鏡は、複数枚の鏡同士の合わせ鏡によるものらしい。本物のオブジェクトを見抜いてやろうと、置いてあった万華鏡の中を覗いてみた。

 探偵ごっこをしている途中に、人が入って来る音がした。私はつい、望遠鏡みたいに万華鏡ごとその方向へ向いてしまった。

 足音が一瞬止まった。おそらく、いきなりギャグを披露されたと思って引いているのだろう。

 万華鏡を覗いたまま元の向きに戻り、静かに机に置いて教室を出た。


 他にも、たけとんぼは揚力がどうだとか、建築物は揺れに対して柔軟だとか、一目見ただけで興味を引くポスターがあったが、天然ボケの後の沈黙に耐えられなかった。心の重りによる鮮やかな重心移動だったと思う。


 教室を出る瞬間に、やじろべえを強引に倒しているのが見えたので、結果的には離れて正解だった。


 近くの階段に向かって歩いていき、一面ガラス張りの明るい階段を上っている途中で、鋭い楽器の音が聞こえた。


 ガラス越しに広場の方を見ると、音楽系のサークルが歓迎演奏をし始めていたので、しばらく立ち止まって聞いていた。


 流行りの曲や定番の曲、懐かしの曲を演奏していた。こういった曲を聞くと、暖色系の帰属感に包まれて様々な思い出を想起するものだろうが、今は寒色系の疎外感しか起こらない。


 元々私には、音楽の楽という字に違和感を覚えるぐらい、苦しい記憶がたくさんある。それでも、そういった苦しい時間も、過ぎればいい思い出になるはずである

 しかし、今はそうならない。曲と結び付いている記憶が、自分のものでないような感じがする。


 過去にそういう体験をしたという記録としてなら、自分のものであると理解できるのだが、当時の自分と心で繋がることができない。過去に伸ばした手を、誰も握り返してくれない。


 ガラス越しに眺めるように、記憶から閉め出されている。


 段々と音が心の重りと共鳴し始め、潜伏しかけていた痛みが再び目覚めた。重りの部分に穴が空いたように感じる。


『もう帰ろう』


         *


 時間だけが流れた。


 空が涙もろくなる時期を過ぎ、誰もが夏になったと実感できる気候になった。


 私は夏が苦手だ。自分の内側の世界と外側の世界との相違が甚だしくなるからだ。だから、毎年出来損ないの覚悟を決めて、夏に臨んでいた。

 今年の覚悟は凶作だった。二つの世界間の差が今までより著しいというのに。既に到来しているにもかかわらず、未だに夏が来るのを恐れている気がする。


 獄夏が始まって間もないものの、早々にボーナスステージがやって来た。


 今から、高校時代の友人と会うのだ。高校を卒業後すぐに就職し、別の場所へ行ってしまったから、会うのは卒業式以来初めてになる。

 仕事で近くまで来ているらしく、夜に自由な時間があるため、集まることになった。近くとは言うものの、今まで三十分電車に乗っていたのに、次の駅で乗り換えた後さらに三十分は乗り続けなければならない。


 しばらくして降りる駅に到着した。ホームは、壁も天井も床も、白い正方形のタイルが並べられており、違法な地下実験施設みたいだった。


近くにエスカレーターがあったので、クローンが規則正しくベルトコンベアで運ばれているかの如く、並んで上の階まで上がった。長いエスカレーターだったが、地上までは届かなかった。


 改札を出ると、最重要機密の実験室に通じていそうな通路が、左から右に伸びていた。ところが、視界の真正面には、地下にもかかわらず洋風の商店街のような景色が広がっていた。そういう実験場にも見えなくはない。

 乗り換え先の駅までは、地下街を通って十分ほど歩く必要がある。この地下街が曲者で、初めて訪れた者が目的地に到着することは決してないとまで言われる地下迷宮なのだ。事前に地図で経路を確認してはいるが、念のために五分余計に時間を確保しておいた。


 お洒落な店をいくつも横切り、真っ直ぐ歩いていると、分岐した全ての道の行き先が書かれた、植物の葉の形をした看板を持った女神像が立っていた。どこへ通じているが書かれてはいるが、曖昧にしか示してくれておらず、変に女神らしいリアリティがあった。迷える人間に正しき道を示す女神か、はたまた眩惑して混迷へと誘う悪魔か。私は、そのまま真っ直ぐ進んだ。


 しばらく進んでいくうちに、天井が低く、道が細くなった。


 そこからは高低差が出てきた上に、分岐がいくつも現れ、途中で予定していた道から外れてしまったものの、なんとか駅に到着した。


 この駅は、これから乗る路線の終着駅だ。そのため、電車は折り返して運転をする。

 迷宮で少し手間取ってしまったので、ホームに到着した時には既に乗る予定の電車が来ており、両側の扉を開けたまま止まっていた。


 私は急いで片側から乗り込んだ。座席がいくつか空いていたので、座って待つことにした。


 電車は間もなく発車した。


 大学に入って以来、心のリフレッシュがうまくいっていない。クロールで息継ぎを失敗し続けるように。


 今日こそは出来たら良いのだが。


 目的地に到着した。またもや地下だった。改札を出て、切符売り場がある側と逆側で待った。

 十五分ほど待った頃、お相手がやって来た。


「久しぶりだね」

「久しぶりじゃん!あんまり変わってなくてちょっと安心したよ!」

「そういう君は、何から何まで完全に社会人になってるね」

「スーツだからでしょ!」

「お戯れを」

「そんな敬語社会人でも使わないって!」


 ご謙遜なさっているが、服装だけでなく、振る舞いまでもが責任を背負った人間のそれに変わってやがられていた。


「一緒に飲もうって言ってたけど、何を飲む予定なんだい?」

「お酒に決まってんじゃん!」

「警察の目をかいくぐるために、そんな隠語を使ってるんだね」

「多分警察官も使ってるよ!」


 私たちは思い出話をしつつ、早速居酒屋に向かった。

 元々地下にいるのに、階段で更に下の階へ進んだ。


「やましいことがあるから、こんなに地下に潜ってるんじゃないか?」

「もうそんな気がしてきたよ」


 階段を下りると、飲み屋街が広がっていた。どの店も店内が剥き出しになっていて、既にたくさんの人が楽しそうに飲んでいた。


「人ではなくて、店が相席しているね」

「一体感があっていいよね!」


 適当に店に入ると、ほとんど外の席に案内された。席に座り、各々お酒と料理を注文した。お客さんはたくさん入っていたが、どちらもすぐにやってきた。


「それじゃあ乾杯!」

「乾杯」

「おいし〜」

「これで私も『飲んだ』人間になるのか」

「もう後には引き返せないからね!」


 高校時代の思い出話から少しずつ、離れてからの出来事の話題になった。


「実はさ〜、ちょっと前から恋人と同棲してるんだ〜」

「恋人ができたのも知らなかったけど、良かったじゃないか」

「そうなんだよ〜。だから毎日帰るのが楽しみなんだ〜」

「それは幸せだね。じゃあここ数日遠く離れてるのは結構辛いんじゃないか?」

「心は家に置いてきたから大丈夫!」

「じゃあ私は今何と話しているの?」

「抜け殻かな〜」

「そんな君に紹介したい人がいるんだけど、いいかな?」

「さっき恋人と同棲し始めたって言ったばかりなんですけど〜」

「それでもです」

「そんなに〜?何て人?」

「おきあがりこぼしっていう人」

「人じゃないじゃん!どういうこと?」

「抜け殻に言われるとはね。どういうって、単純に浮ついてたから」

「辛辣だね!」


 お酒と料理のペースが落ち着いてきた頃、思い出話も近況も、ひと段落ついていた。


「これからの展望とかあったりする?」

「う〜ん。パートナーと幸せに暮らしたいっていうのはあるけど、夢みたいなのはないな〜」

「マイホームが欲しいとか、出世したいとか、ビジネスで成功したい、みたいなのはないってこと?」

「そうだね〜。世の中自体、あんまり良くなる未来が見えないし。そのくせ変化は激しいからね〜」

「確かに。インターネットが拡がって、実情が露わになったし、すぐに結果が出るようになってしまったからね」

「そうそう。それに、SNSで幸せ競争が休みなく続いてるのを見たら、夢を掴んでも、不毛な争いは続くのかなって」

「なるほど」

「それに、一人でいる時すら横の繋がりから逃げられないんだよね〜」

「浮ついてる割にはちゃんと世の中を見てるんだね」

「唐突に辛辣になるのやめてくれるかな〜?」

「これは失敬」

「古き良き敬語を使うのも禁止ね!」

「ごめんごめん。それで話を戻すけど、心休まる瞬間はそんなにない感じなのかな?」

「ないかな〜」

「じゃあ、どうやって社会で戦い続けてるの?」

「それは〜。割り切る!」


 悟らせないようにしたが、それを聞いた時、何かが砕けるような感覚がして、酔いが完全に覚めてしまった。


「あんまり回復してないってこと?」

「そう!」

「それなのに、どうして生きられるの?」

「それも割り切る!生きなきゃしょうがないからね〜」

「そうなのか……。なら、円周率は?」

「割り切る!」

「かなり酔ってるね。浮ついてるとか関係なくフワフワしてるよ」


 お相手に明日も用事があるのに加え、お酒も回ってきたようなので、お開きにすることにした。


 お会計を終え、来た道をゆっくり戻った。


「そういえば大学は夏休みいつから?」

「もうすぐ前期の期末試験があって、それが終わり次第かな」

「学生は夏休み長くていいな〜」

「私はこっちで夏休みの相手するから、君は向こうで思う存分仕事と戦ってくれよ」

「分担が理不尽すぎる!」


 駅に着くと、私達を除いてほとんど人はいなくなっていた。


「それじゃあ私はこっちの路線だから、ここでお別れだね!」

「この戦いが終わったら、結婚するんだよね?式には呼んでくれよ?」

「勝手に私の死亡フラグ立たせないでくれるかな!」


 前から見た時は責任を背負った大人の雰囲気だったものが、後ろからは苦しみに怯える人間の悲しいオーラに見えた。


 線路に落ちていた未開封の飲料水を眺めていたら、すぐに電車が来た。人のほとんど乗っていない電車内には、数多の人間の、例の悲しいオーラの残滓が漂っていた。

電車が暗いトンネルの中に入った時、近くを別の路線の電車が走っているのが見えた。


 割り切る。正常な濃度の感情を持つ人と私との違いが、それが出来るか出来ないかというだけで、正常な人もほとんど心が回復していないならば、私はもう元には戻らないのではないか。

 それに、たとえ元に戻ったとしても、今ある苦しみは、変わらず存在し続けるだろう。


 降りる駅に到着した。今から地下迷宮の行きで通った道を戻らなければならない。


 結局元の場所に戻るなら、どこかを目指して歩く意味などあるのだろうか。


 しばらく歩くと、女神像が現れた。当然だが、行きと全く変わっていない。


 目指す場所は変わらないのに、迷い続けていると言うのか。


 駅に着いた。もう少ししたら電車が来るようだ。私は、誰もいないホームで立ったまま電車を待った。


 これから帰ろうとしている場所に、一体何がある。


 電車が来た。誰もいない車両に一人で乗り込んだ。車窓から見える景色は、いつまで経っても真っ暗なままだった。


 心の重りの瓦礫の下には穴が見えた。


 最寄り駅に帰ってきた。人のいない駅を出ると、正面に明かりの少ない大学が見えた。


日中は、太陽の沈まない国であるかのような威厳があったが、暗闇の中では冷たく静かに眠っていた。


敷地の外側を周って蓮の池へ向かった。


心と体が分離して、何をしようとしているのか、自分でもわからなくなっていた。


池に辿り着いたが、蓮の花は閉じられていた。背の高い蕾と葉が一面に並んでいた。


蓮の葉には高い撥水性がある。液体は染み込まずに流れ落ちていくのだ。


この世界に私の涙が流れても、受け入れられることなく幻の中をさまよい続けるのだろう。


割り『切れないよ』


        *


「オペレーション 『いつかは希望を見つけられるというような生き方では駄目だ。その鼓動一つ一つが希望であり、一回性が一回性として価値を持たなくてはならない。』遂行中に得られた情報を共有します!

 簡潔に言うと、感情は、精神における肉体のようです。

 私は、感情を観察し始めてから、好き嫌いの概念など、見えないものに対して線引きをしていると、頻繁に感じていました。

 それでも、なぜ線を引いているのか、引いてどうなるのかなど、わからないことだらけでした。目に見えない分、自販機の下に落ちた百円玉を、手の感覚だけで探すような、悶々とした状態が続いていました。

 そんなある日、なんとなくドーナツを食べている時に、私は気付いたのです! 精神など、形の無いものの世界においても、人間は肉体を有していると! そして、その肉体にあたるものが感情なのだと!

 そうなると、その肉体の内側と外側、二つの領域によって、食事をするかのように、形無きものを分類しているということになります。

 分類という行為は、何かを決定することと非常に近いと思います。

 なので、あなたの実体験として、確信や固定ができないことも、感情が薄くなって、境界が曖昧になったからなんじゃないかと。

 とまあ、今の所はこんな感じです!

 話すのが長くなりそうだったので、春休みに入ってから連絡することにしました!

参考になれば幸いです!」


 Wi-Fiルーターの光すら眩しい部屋で、スマートフォンの画面が光った。救いの光ではないとわかってはいるが、何かを求めるように手を伸ばしていた。


前回のやり取りから一年以上経過していた。


その時は確か、拒絶を示す社交辞令を使ってしまったから、次は、何か新しいことを見つけて私の方から連絡しようと決意して終わったはずだ。


この一年、私は一歩も前に進めなかった。そして、ただ背後から忍び寄る闇に距離を詰められ、首に手を回されただけだった。


感情が肉体……。ということは、私は形無き世界では半透明人間になっているのか。


 確かに、現実世界だろうと、そうでなかろうと、自分の体が透けてきたら、自分が存在しているという確信など、あらゆる自信がなくなってくるだろう。


「貴重な情報の共有、ありがとうございます。

 感情は、心の体ということなのですね。私も、そう考えると色々と納得がいきました。

 確信や固定の件も、あなたのおっしゃる通りだと思います。様々な実感が失われたのも、実感というものが、何かを感じたこと以上に、そう感じたという確信が土台になっているならば、同じ考え方で説明できそうです。

 私も何か共有できることがあれば良かったのですが、空虚な何かが、重りのようだったのが、砕けてその部分が穴に変わったことぐらいしかありません。

 あなたの側からどう映っているか聞きたいのですが、感情が肉体である時、空虚な何かはどういう立ち位置にあると思いますか?」

「ご丁寧な反応、ありがとうございます!

 実感についての考察は、その通りだと思います!

 空虚な何かに関してなんですが、それ自体に線を引くことは、できる気がしません。水性でも油性でも、彫刻刀で傷付けることも、不可能だと思います。

 ただ、空虚な何かを囲むように線引きするのはできそうです。囲って蓋をしてしまうことも可能だと思います。

 でも、それができてしまうことが怖いです。悪いことをする時、罰則への恐怖以外にも、自分の中の大事な何かが壊れてしまいそうな恐怖を感じるのですが、それと似ています。自分の心が死んでしまいそうな……。

 とにかく、空虚な何かと向き合うと、不思議な感じがします。それによって壊れそうになるのに、それを壊そうとすると、壊したくないという思いが生まれてしまう……。

 前回、従属関係があると伝えましたが、決して分離しているわけでもないと思います。それと、最初にあなたがおっしゃったように、感情の一部だとも思えないです。

 まとめると、あまりよくわかりません! 引き続き、オペレーション『一』として探ってみます!

 そんなことより、心に穴が開いているのは、大丈夫でしょうか? 無理にとは言いませんが、できる範囲でもう少し詳しくお聞きしてもよろしいでしょうか?」


 作戦名のわりに長いなとは思ったが、さすがに削ぎ落とし過ぎではないか。


 やはり、空虚な何かは非常に重い存在なのか。自分を壊すのさえ妨げてしまうほどに。


 だとしたら、それに対して思い切ることや、割り切ることは、かなり危険な行為なのではないか。


「答えていただきありがとうございます。

 恐怖を思い出させるような質問をしてしまい、申し訳ありません。

 私の方で、空虚な何かについて思い出したこともあるので、共有させていただきます。

 それが穴になる前、まだ重りだった頃のことですが、私に何かを問いかけているような瞬間が何度もありました。私が極端な考えに陥りそうになった時、中でも自分の内にある一部を否定するような考えに至りそうな時に、それを落ち着かせるような言葉を投げかけてきました。

 そして、ある出来事をきっかけとして、重りは砕け、その残骸は穴に変わりました。

 穴へと変貌を遂げてからは、そこから絶えず生命力が流れ落ちていき、逆にそこから闇がこちらに流れ込んでくるような状態が続いています。」

「新たな情報、ありがとうございます! 参考にさせていただきます!

 少し長くなりますが、今さっき気付いたことを伝えさせていただきます。

 あなたが以前おっしゃっていたように、感情の存在によって、普通なら意識は外向きになっていると思います。

 肉体の話に戻しますが、私たちは現実世界において、自分の外側のことは、内側のことよりもよくわかります。主に五感によって、色や形、においや音、味や硬さなど、色々な情報をキャッチして、対象の状態を知ることができるからです。

 ところが内側となると、内蔵や血管、骨や筋肉などについて、外側に比べてほとんど何もわからないどころか、よほどの異常が起こらない限り意識すらしていません。

 それは心についても同じことが言えると思います。あれが欲しいこれが欲しい、あいつが気に入らないこいつが憎い、あの人が羨ましいこの人が妬ましい。

 そんなことならいくらでも浮かんでくるのに、逆はどうでしょうか。

 自分の心が今どんな状態か、どんな時にどう感じるのか、自分は一体何者か。そういった自分自身のこととなると、ほとんど何もわからないし、普段は考えようともしません。

 これは、世の中の至る所で、自分の心と真剣に向き合えば済むようなことで、他人や自分を傷付け続けているのが見受けられることからもわかるかと思います。

 そんな中で、あなたは日頃から自分の内側と目を合わせ続けているし、様々な例えを用いて繊細に感じ分けている。

 それはあなた自身の特性でもあるのでしょうが、それでも常軌を逸していると感じずにはいられません。

 なので、あなたになら無意識の偏光板を通らずに伝わると信じてはっきり申しますが、あなたの精神は極めて危険な状態にあると思います。

 そこで、正常な状態と比較する機会を作るためにも、可能な範囲で生活面や身体面の状態も教えていただけないでしょうか?

 私でなくとも、相談できる人に話したりするでも構いません。

 何かしらそこから脱するための行動を起こしてもらいたいです。

 作戦遂行中に力尽きることは許しませんよ!」


極めて危険な状態……。


心の穴を凝視し過ぎていたのか……。


とりあえず、気遣いには応えなければ……。


「真剣に向き合っていただいて、ありがたい限りです。

 近くで直視し過ぎていたのでしょうか。

 生活面は、心の痛みのせいか常に緊張しているので、生活リズムは既に元型を留めておらず、疲れもあって最低限しか外に出られない状態です。

 また、夜空の暗闇がいつも内側にあるような感じがするので、文字通りの底なしの不安や、意味や価値の消失、何をしようと中身の伴わないごっこ遊びをしているような感覚などがあり、生きるのが怖くて何もできていません。」

「答えにくいことまで詳しく教えていただいてありがとうございます!

 やっぱりさすがですね!普通の人はそんなに詳細に説明できないですよ!その力は立ち直るのにきっと役に立ちます!

 専門家ではないので診断などはできませんが、生活に支障が出ているなら病院には行くべきだと思います。

 それと、普通の状態なら日頃はどんな精神状態かというと、不安になっても支離滅裂な楽観視で安心するし、意味や価値なんて考えもしないし、形から入ると言うように簡単にその気になります。なので、あなたの今の状態だととてもじゃないけれど生き続けることはできません。

 あと、近過ぎたのは理由としてあるかもしれないですね。それでなくても少しずつ変化するものには気づきにくいですからね……。

 このアプリの制約上、直接お力にはなれないのですが、なにか相談したいことなどあれば、気軽に話しかけてください!

 こちらからもできることがあるか考えてみます!」

「何から何まで、本当にありがとうございます。

 必ずやゴリラと三人で、ドーナツ片手に凱旋門をくぐりましょう。」


 とは言ったものの、一体どうしたものか。


 この約半年、心の穴をなかったことにして生きられる人間を見ると、炎の中を平気で駆け回る怪物に見えたし、その者達からは私の苦しみの一切が映っていないと思うと、悲しみで液体窒素をかけられたようだった。


 だから外に出るのは、焼けただれた皮膚に鞭を打ち、地獄の業火に向かって歩いて行くようで、本当に怖かった。


 まずは生活を立て直さなければならない。


 朝ご飯を食べるために立ち上がってカーテンを開けたが、外も暗かった。


         *


 目が覚めると、照明を点けていないにもかかわらず、自分の部屋を一望できた。どうやら朝に起きられたようだ。


 あれから何日経ったのだろう。長期的な時間の経過がわかるのは爪の伸長ぐらいだったが、少し前に不快感に耐えかねて切ってしまったため、もうわからなくなってしまった。


 今日は午後から大学で懇談がある。外に出る恐怖心で眠りが浅かっただけなのかもしれない。


 朝に起きているのは大学の授業以来か。


 朝は夜とは別種の恐怖がある。夜の恐怖とは、明日がすぐ近くまで迫っている恐ろしさで、朝の恐怖とは、今日を迎えてしまった怖しさのことだ。


 授業こそが恐怖の元だと思っていたが、そうではなかったようだ。


 教室は、それでなくても人が多いのに、構成しているのは血気盛んな上に感情が放し飼いになっている若い学生ばかりだ。その中にいるのは、ファラリスの雄牛の中で熱し殺されているのとそれほど変わらない。


 処刑を待つ恐怖があまりにも大きかったため、それが全てだと錯覚していた。


 やはり、生きることに恐怖を抱いているのだ。


 それでも生活のリズムは戻さなければならないので、朝食にスティックパン一本を少しずつ口に入れた。


 朝日の明るさと心の暗さとのちぐはぐさで脳が疲れたようなので、布団に戻った。


 心臓の拍動に合わせて絶望が振動している。心臓が全身に絶望を送り出す臓器に変わったようだ。


 数少ない逃げ道の一つとして、静かに目を閉じた。


         *


 暗闇の中で絶望する心臓の鼓動を聞いていた。大した時間ではなかったのだろうが、時間の感覚が消えそうになるくらいには長く感じた。


 残り一本のスティックパンを食べて外出着に着替え、外に出た。


 今から向かうのは教授室だ。それも、よりにもよってあの倫理の先生が巣食う魔窟に招待されてしまった。


 部屋の前まで来たが、異質なオーラや魔力の気配は感じられなかった。

 恐る恐る扉を二回叩いた。すると、耳を塞ぐ間もなく「どうぞ」と、奥から優しい声の咆哮が轟いた。すぐさまドアノブに手をかけてゆっくり回し、少し重たい扉を開けた。


「失礼します」


 照明は点いておらず、奥の窓から差し込む日の光がおぼろげに部屋を照らしていた。


 まず始めに部屋の装飾に目が行った。机には倫理学と何も関係のないはずの心臓やDNAの模型があったり、床には吸盤の矢が撃ち込まれた西洋のかぶとがスーパーの買い物かごに入って置かれていたりと、統一感のなさに驚かされた。本人の中には全てを貫く法則があるのだろうか。


 次に驚いたのは教授の姿が見当たらないことだ。確かに声が聞こえてきたはずなのに。教授席は空席だ。まさか、うし……


「そこで立ち止まって、どうかしましたか?」


 近くの棚で見えない手前の壁の方から、さっきと同じ声量の雄叫びが聞こえてきた。


「いえ……」


 勇気を振り絞って一歩前に出た。声の主は、壁と垂直に置かれた来客用ソファの下座の奥にいた。


「もしかして、変な想像してました?」

「いや、そんなはずは……」

「そうですか……。まあ、とりあえずそっちのソファにおかけください」

「そちらは上座なので、下座に座らせていただきます」

「私の隣がお望みですか?」

「いえ、先生が上座に……」

「私にはそんな形式を気にしなくても構いませんよ」

「では、失礼します」


 痩せ型のソファに浅く腰掛けた。


「じゃあ早速ですが、どうして呼び出されたかわかりますか?」

「えっと……」

「えっ、わかるんですか?」

「いや、わからないです」

「ですよね。言うの忘れてました……。あれ?ひょっとして、心当たりありました?」

「……強いて言うなら、以前授業中に心の前科者リストの話をされましたが……」

「あ〜はいはい。ありましたね。ということは、さっきの間は再犯の自供と捉えても?」

「いや、たしか意識のあるうちはそんなことは……」

「意識がなくなるという罪なんですけど……。まあそんなどうでもいいことは、後でじっくり取調室で聞くとして、早速本題に入りましょうか」

「はい……」


 授業の印象通りの独特な人だった。ペースが掴めないために一見すると無軌道なように感じるが、決してそういうわけではないらしい。


「MOLEというアプリことなんですけど、ある方から連絡を受けまして。あなたが今危険な状態にあるから助けて欲しいと」

「そうでしたか」

「ええ。名前を伏せても大体誰かわかってしまいますが、そういうルールなので、伏せたまま続けますね。その連絡を受けて、あなたとその方のやり取りを拝見しました。感情の移植のドナーをされたんですね?」

「はい」

「それで、移植以降感情が戻らず、心の中にある空虚な何かに蝕まれていったと」

「そうです……」

「病院へは行かれてますか?」

「予約は取れたんですが、二ヶ月先で……」

「なるほど。まあ精神疾患系の医療機関も切迫していますからね。他の病院は当たりました?」

「他の病院は遠くて、通うことを考えると……」

「せっかく診てもらえるとしても、通えないんじゃあしょうがありませんもんね。そうですか……。ご飯とか睡眠は、ちゃんと取れてますか?」

「まあなんとか……」

「それは良かった。それができなくなると、いよいよ本当にきっかけ待ちの状態になりますからね。そうなったら助けなんて呼べなくなりますから、そうなる前に救援要請を出してください」

「わかりました」


 微笑んだことで、まぶたによって目は大部分を隠されていたが、少しの隙間からでも鮮明に何かを見ているのがわかった。


「あ、そうそう。この前お土産頂きまして、いかがです?」

 先生は、おもむろに立ち上がり、スリッパを引きずりながら奥の小さいキッチンへ歩いて行った。

「お構いなく」

「お茶も出してませんでしたね。失礼しました」

「ありがとうございます」


 しばらくして、緑色のドーナツと湯呑みをお盆に乗せて戻ってきて、ゆっくり机に置いた。


「わざわざありがとうございます」

「いえいえ、お茶とミドリムシで似通っちゃいましたが」

「……ミドリムシ?」

「ええ、ミドリムシ」

「ミドリムシのドーナツですか?」

「私も初めて見た時は苔か、新しいスペースコロニーの模型かと思ったんですけど、食べてみたら、別に食べれないこともなかったですよ」

「あの、どちらのお土産ですか?」

「さあ〜。ミクロの世界にでも行ってきたんですかね〜」

「……なるほど」

「さあさあ、遠慮なくどうぞ」

「では、ありがたく……」


 全く乗り気ではなかったが、そこまで勧めるならと、頂くことにした。


 口に近づけるも、漂ってくるにおいは普通のドーナツだった。


 意を決して口の中に入れた。勝手な偏見で汚い池の味がするのかと思っていたが、予想に反して不快な味はしなかった。抹茶畑にいくつか海藻が生えているような感じだった。


「どうです?思ったより食べれるでしょ?」

「確かにそうですね」


 ドーナツで口の水分が奪われたので、お茶を飲もうと湯呑みに触れたが、ミドリムシを食べたばかりでアオコのように見えてしまい、手が止まってしまった。


「それには入ってませんよ。ミドリムシ」

「では、いただきます」


 確かに、お茶には海藻が紛れ込んでいる様子はなかった。


「それで、話を戻しますけど、立ち直るためには様々なアプローチが必要ですね。薬などで身体面から治療するのは、うちの大学の診療所には精神科系の処方箋を出せる人がいませんから、病院に行ってもらうしかありません。生活習慣などの環境面からの改善は、病院か、大学内のカウンセリング室でしっかり話し合ってみてください」

「はい」

「それと他に、自分で自分を救う方法があります」

「自分で自分を救う?」

「ええ。突き詰めていけば、自分を救えるのは自分だけです。もし逆に、幸不幸の原因が全て外にあるとしたら、今のその苦しみは、自分以外の何かから背負わされていることになっちゃいますよ。そんなのは冗談じゃないでしょう。自分の苦しみだから耐えられるんですよ」」

「確かにそうですね」

「運良くあなたは、この大学の方針が新しくなった年に入学してますから、そのための力を少なからず身に付けてます」

「自分を救うための力ですか?」

「そうですよ。気付きませんでした?」

「もしかして、省治学ですか?」

「だけじゃないですけど、まあそうです」

「内省が、自分を救うことになるんですか?」

「そうです。自分を救うということは、自分の中に眠る可能性を信じられるようになる、ということですからね」

「自分の可能性なら、外に働きかけた方が見つけられるんじゃないですか?」

「自分にとって聞こえのいい言葉にも動じずに、道理を通して見れていますね。それも私たちの目標の一つです。それで、可能性ってなにも、成功とか、地位や名誉を得るための能力のことではありませんよ。むしろ、そういう甘い汁にそそのかされて、可能性を閉ざしてしまうことの方が多いんです」

「それなら、他にあるということですか?」

「そうです。そんな一夜の夢のような、根無し草なものを可能性とは言いません。可能性とは、時間という無限に続く巻物において、縦に普遍的で、横に不変な、人間の心に備わる可能性を信じる力のことです」

「可能性の中に可能性が入っていますよ」

「当然です。いつ何時でも失われることのないものですから」

「……なるほど」


 ふと気が付くと、背後の窓から夕日が差し込んできていた。


「あ、西日が入ってきちゃいましたね。カーテンを閉めて、電気を点けましょう」

 先生は、またもスリッパを引きずりながら奥へ歩いて行った。

「電気は私が点けます」

「いいですよ。被疑者はじっとしててください」

「え?」

「冗談ですよ。半分くらい」

「……」


 この人は、冗談を言う時も口調が全く変わらない。普通の話と冗談の境目に壁がない。


 どうしてそうなったのかは見当がつく。普通という壁が壊れてしまうほど、苦しみと向き合い続けたのだ。


 電気が点いた。明るくなる瞬間、背中から過去に伸びる悲しみが見えた気がした。


「えっとそれで、あまり納得いってない感じですね。まあ、後から自分で見つけるものなので、納得する必要はないんですが」

「あの、可能性ということは、良くなる可能性だけでなく、悪くなる可能性もあるんですよね?」

「そうなりますね」

「だったら、それは諸行無常への諦めになるのではないですか?」

「諸行無常と言っても、その法は不変ですし、変化と言っても、同じ場所を行ったり来たりしているわけではありませんよ。例えば時間なんかは、過去から未来への一方向性を持っています。どこかへ向かっているというのも信じる可能性の一つです」

「そうですか……」

「まあ何にせよ、そういった意味で自分を救う手助けをするのが私達の目指すものですし、今私があなたの力になれることと言ったらそれぐらいです。なので、可能性を閉ざそうとする考えがあれば、話してみてください」

「それでは、現代の精神構造をどう見ていますか?」

「それが、あなたの中で可能性を阻むものなんですね?あなたはどう見てるんですか?」

「私は、個人においても社会においても、ネガティブなものを見て見ぬふりし、どこか機能不全なポジティブだけを、窮屈になって貪るように生きていると感じます」

「ほうほう。それで、その精神構造がどのようにあなたを妨げてるんですか?」

「見たくないものに蓋をする力が現代を生きる術で、それができない者や、蓋をしても溢れかえってしまうほどの苦しみを抱えている者は、到底生きていける世界ではありません。」

「なるほど?」

「そんな中で私は、できない者の一人で、これから生きていける気がしないのと、それができるようになったとしても、そうすることによって生じる苦しみに耐えるだけの値打ちが、残ったものの中にあるとは思えないのです」

「そう見てるんですね。確かに、現代は陰と陽をはっきり線引きしようとしています。それはちょうど、カフェオレをコーヒーと牛乳に分けようとするようなものですね。でも、完全に分けるなんてできませんし、カフェオレを飲んだ時に感じるコーヒーの苦さや牛乳の乳臭さを嫌がって取り除いたとしても、さすがに牛乳とコーヒーの中にはカフェオレの良さはありません」

「人類は今まで、より良い世界のために命を賭して戦ってきたのに、どうしてこうなってしまったんでしょうか。意味はなかったんでしょうか」

「昔はいろんな理由で簡単に人が死んでいましたからね。今まではそういう外の問題と戦ってきたんです。そして、それらが少しずつ解決されていったから、内の問題と戦えるようになったわけです。ところが、そいつは無限に大きな存在で、自分たちがいかに弱い存在か思い知らされてしまった。その結果、端的に言えば、びびって逃げ腰になってしまったんです。でも、逃げれば逃げるだけ、恐怖はより大きくなっていきますし、そもそも相手の中には自分そのものも含まれていますから、逃げ切ることは決してできません」

「なる、ほど」

「それで、意味はなかったのか、ですね。実は、無というものは存在しないんですよ」

「えっと……」

「そんなつまらない駄洒落を言ったみたいな空気出さないでください。私がそんなこと言うように見えますか?」

「そういう可能性もあるかなと……」

「これは有罪確定ですね。ちゃんと最後まで聞いてください。無というのは、無が有るということなんですよ」

「もう少し詳しく教えていただいてもよろしいでしょうか?」

「無は有の姿の一つなんです。クローゼットの前で今日何を着ようか迷った時、無い服を着るという、着ないという選択肢もありますよね?」

「私にはこれ以上罪を重ねることはできません」

「それなら服の上に無い服を重ね着してください。まあそういうわけで、無意味や無価値というのは、無い意味や無い価値が有るということです。人間は、意味や価値からは逃れられないんですよ」

「それなら、命懸けの生に意味はあったということですか?」

「ええ、何かしら」

「どういう意味があったんでしょうか」

「それは各々が決めることです。世間が良い評価をしていても、自分はそう思わないこともあれば、周りからは酷評されていても、自分からは唯一無二の宝物に見えることもありますからね。世界に対して、自分に対して、あらゆるものに対して、自分なりの意味や価値を見つけ出してみてください」

「どのように見つければ良いのでしょうか」


 その質問に先生が答えようとした時、扉を素早く叩く音が聞こえた。


「はい、どうぞ」

「失礼します。あっ、申し訳ありません。懇談中でしたか」


 誰かと思えば、レクチャードーナツだった。実に様になっている、一生懸命に慌てている様子だった。


「どうかしましたか?」


 扉を開けたまま、素早く先生に近寄り、耳元で何かを伝えていた。


「そうでした!すっかり忘れてましたよ」

「それでは、先にお待ちしておりますので」


 先生に一礼し、私にも軽く一礼した後、私の答礼を見ることなく、そそくさと部屋を出て行った。


「そういうことなので、すいません、時間切れのようです」

「いえいえ、色々と勉強になりました」

「後で書類送検の手続きしときますね」

「え?」

「冗談です。それと、最後の質問のヒントですが、苦しみは、幸福になりたいという願いでもあります。あ、その残りは食べちゃってください。それでは失礼します」

「あ……ありがとうございました……」


 室内は、私とミドリムシだけになった。


 押し付けられたような気がしつつも、別に食べられないわけでもなかったので、頂くことにした。


 ヒントの意味について考えながらドーナツを食べている時、携帯にメールの通知が来た。

         

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