第5話(まとめて読みたい方用)
「この前の懇談は途中でいなくなってしまい、申し訳ありませんでした。
その時伝え忘れたことがあったので、ここに書かせてもらいますね。
MOLEはどんな形にせよ直接の接触は御法度なので、懇談のことは口外禁止でお願いします。私はあなたのように誰かの前科者リストに載るのは嫌ですからね……。
その時話に出てきた線引きについてですが、その一つにパブリックとプライベートも含まれると思いませんか? MOLEはそれの対抗策で生まれた節があります。なので、そういう使い方をしていきましょう。
『必ずやゴリラと三人で、ドーナツ片手に凱旋門をくぐりましょう。』
これ、直接会う確約ですよね? 過ぎたことは仕方ありませんが、今度からは気を付けてください。
それでは、お大事になさってください。
なお、このメッセージは、五百塵点劫後に自動的に消滅する。」
お茶目な巨人だ。
「お待たせしました」
先生からのメールをちょうど読み終えた時、あの研究機関の医師が入ってきた。
私は、二年前のあの場所に、また戻っていた。
「いえ」
「それでは早速本題に入りましょう」
あの日、先生との懇談を終え、そのまま部屋でミドリムシのドーナツを食べていた時、二年前に感情移植を行った研究機関からメールが来た。
「このメールは、感情移植を行った方全員にお送りしています。
結論から先に申しますが、新たに臨床試験の段階に移った技術があり、そのモニターになっていただけないでしょうか。
原理的な話はここでは省きますが、その技術というのは、外部からポジティブな感情のエネルギーを照射し、ネガティブな感情を粒子として肉体から飛び出させるものです。
一般にも募集しているのですが、皆様には特例で直接ご連絡いたしました。
より詳しい情報は、下記のURLからホームページをご覧ください。
モニターを希望される方は、その旨、このメールに返信していただくよう、よろしくお願いします。
ご協力、心よりお待ちしております。」
しばらく悩んだものの、私はモニターになることに決めた。
「それでは、移植後から今までの状態を教えてください」
「はい。まず、現在に至るまで感情が元に戻っている気配はありません。そしてそれによって、以前から漠然と感じていた空虚な何かの存在が大きくなり、少しずつ抑うつ的になっていきました」
「そうでしたか。実は、大半の方が回復される一方で、何人か元に戻らない方がいらっしゃいます。その方々に共通しているのが、あなたの言う空虚な何かを無視できないことです。それと生活面からの共通点として、生きる意味を見出せていないことと、孤独であることが挙げられます。そういう方達の中には、それを見つけたり孤独でなくなったりして回復された方もいれば、戻らないことを受け入れてそのまま生きていくと決めた方もおられます」
「そうですか……」
心の穴を無視できないのと、生きる意見いだせず、孤独であるのは、同じことを言っているのではないか。
「今回の技術はその空虚な何かに作用するものではなく、感情に作用するものですが、よろしいですね?」
「はい。それはいいんですが、いくつかお聞きしたいことがあって、今聞いてもよろしいでしょうか」
「答えられる範囲でなら構いません」
「ありがとうございます。まず、二年前に移植した時は感情の再現が困難だと説明されたんですが、今回は人工のものを使うということは、できるようになったということでしょうか」
「いいえ。今回はネガティブな感情にエネルギーを送るだけなので、人工のもので問題ないだけです」
「そうなんですね。次の質問ですが、そちらの研究機関では空虚な何かについてはどの程度把握しているのでしょうか」
「我々はそれを心空と呼んでいるのですが、心空に関する情報はほとんど掴めていません。ただ、心空を取り除くと死んでしまうことだけはわかっています」
「そうですか。では、最後になるんですが、感情が戻らない人間が、その実験を受けると、これからどういう人生になるとお考えですか」
「心の中で、感情の部分が透明になり、心空だけがあるように感じると思われますが、どうなっていくかは未知数です」
「そうですか……。ありがとうございます」
「施術後の話にはなりますが、定期的に経過を報告していただいてもよろしいでしょうか?」
「……わかりました」
さりげなく新しい実験のモルモットにされたが、こちらから言い出したことだから仕方ない。
以前と同様、実験は夜に行われることになった。それまでの時間に下の階から行ける展示フロアを見てはどうかと医師に勧められたので、そうすることにした。
病院の廊下みたいな内装のエレベーターに乗って、一階に向かった。数十秒くらい乗った後、一階に到着した。エレベーターを降りて受付の方に事情を説明し、ゲートを通してもらった。
階段を数段降りてロビーに出たが、入り口へは行かず、外の光だけで明るい連絡通路を通って、展示フロアのある棟へ向かった。
展示フロアは、壁にポスターが貼られているスペースや、座ってコンピューターを使用する体験スペース、奥には何やら大掛かりな体験コーナーがあった。
今は春休みなので、若い人を中心に多くの人が来ていた。
私は、近くから見て回ることにした。
まず一枚目は、感情と肉体の関係についてだ。心として感じていることと、肉体の状態なら、感情は後者の方に追随するらしい。誰も知っている人のいないパーティー会場と、誰もいないパーティー会場が、薄い壁一枚で隣接している時、最終的に多くの人は前者の部屋にいることを選んだ。状況設定がちょっぴり意地悪な、いかにも心理学の実験という感じだ。
次は、感情の性質について書かれていた。変な数式とグラフが載っているが、とにかく感情は何かしらの生物の生態に似通っているらしい。私は以前、感情をゴリラに例えていた時期があったが、せっかくなら二重らせん構造のウロボロスにして欲しい。
いくつか見ていくうちに、大掛かりな体験コーナーの所までやってきた。
どうやら、証明写真ボックスのような仕切られた空間に一人で入り、4D映画のように、温度や明るさ、音やにおいで様々な感情を再現しているようだ。
今は混雑しているので体験するのは断念したが、体験を終えて出てきた人を、人混みから背伸びして見てみたら、楽しいベースの驚いた顔をしていた。
そのまま体験コーナーまで来たものの、同様に人が多く、自分で体験することはできなかったが、心理学の効果を実演したり、自身が体験したシチュエーションを入力すると、その時の感情を表現した言葉が画面に表示されたり、自分なりの表現を打ち込めたりできる機械を触れるようだ。
大人数のいる空間に疲れてきたので、あといくつかのポスターを見てフロアを出ることにした。
すぐ近くには、表と裏になっている感情がまとめられていた。悪性相対化の表は優越感で、裏は嫉妬らしい。悪性返報願望は表が冷酷で、裏が怨恨だそうだ。尊厳蹂躙感情の時は、表が加害当然供給で、裏が奉仕当然需要になる。挺身なら表が愛で、裏が苦しみだ。空いたスペースには、素粒子の波動性と粒子性を示す図や、娘と老婆のだまし絵が描かれていた。
これを最後にしよう。感情の男性的特徴と女性的特徴がまとめられている。男性の場合、対象に影響を与えることで感情が発生し、女性の場合は、対象から影響を受けることで感情が発生するようだ。そのため、男性は目標達成のために行動し、影響力がある証として賞賛を求め、女性は過程を充実させるために行動し、共感などの受け入れられた証を求めるらしい。同じ理由から、男性は一貫して繊細な一方で、女性は敏感さと鈍感さの二面性を併せ持つとも書かれていた。
外側からはさほど変わらないように見えても、内側は人それぞれ違うことを認めなければならない時代に入ったのだろう。ここにいる人も、同じ場所にいるが、出発地点も経路も異なる。似ているのは現在の外側だけだ。
問題は心の穴だ。今回の実験でそれを暴いてやる。
読み終えたところで、二つ上の階のフードコートへ向かった。昼食の時間帯からしばらく経過していたので、少ないとまではいかないが、空席がいくつもできていた。私は、ドーナツと紅茶を注文して受取り、テラス席に座った。
ここは三階だが、建物自体が高い場所に建っており、周りも住宅などの低い建物ばかりだったので、下層の割に遠くまで見渡すことができた。
少し眺めただけでも、スーパーや薬局、病院や駅など、その町の人達がちゃんと生活している証拠が見つかった。
ここで人々は生きている。
私ができなくなったことだ。昔からそうなりそうな予感はあったが、なんてつまらない動機で決定打を打ってしまったのか。きっと、早くはっきりさせたかったのだ。
今更引き返すことは叶わない。
それでなくても心に穴が空いているというのに、感情まで足手まといになられたんじゃ、身動き一つできやしない。
恐怖も悲しみも、感情として味わうのはこれで最後だ。
夕飯の時間帯になるまで、漫画版の[神曲]を読んで過ごした。
混雑し始める少し前に夕食をとった。感情の最後の晩餐に、海老天が二本も乗った天丼を食べてあげた。
人が増え始めた頃にフードコートを去った。
一階まで降りて、初めと同じように受付の方に説明してゲートを通してもらった。その時に、天井から「このゲートを通る者は、一切の希望と無駄を捨てよ」と書かれた横断幕が掛けられているのを見てしまったので、ここでは働くまいと誓った。
そのまま進んでエレベーターを上がり、元々いた部屋に戻った。
医師が来るまで、[パンセ]について書かれた本を読んでいたが、少し時間が余ったので、持ち物を確認することにした。
まずは執事の楠木だ。私のもとに来て以来、いつも行動を共にしている。
次に、羊のぬいぐるみだ。前回の実験を間近で見守ってくれた方だ。このぬいぐるみ、顔が老年時代のゲーテの肖像画にほんの少し似ている。そのため、とうの昔に電池は切れてしまっているが、そうでなければ「時よ止まれ、汝は美しい」と可愛い声で音が鳴る。眺めていると、ふと、電池が入れたままになっているのが、実験に影響しないか心配になったので、外しておいた。
そうしているうちに、医師が部屋にやってきた。
「忘れ物はありませんか?」
「大丈夫です」
「それでは参りましょう」
「はい」
医師に連れられ、この建物の中央にある階段へ向かった。歩き始めてすぐに、階段のある空間に到着した。下を見ると、灰色の四角い螺旋階段が下まで続いていた。夜なので天窓から光が入らない上に、最小限の電灯しかないので、無限の闇の中へどこまでも続く階段が、少なくとも光の届く範囲まで伸びているように見えた。
一つ下の階に下り、その空間を出た。そのまま歩いて、前回とは違う部屋に案内された。
中に入ると、前回の実験の時と同じような空間が広がっていた。一つだけ違うのは、スーツの色が、吸い込まれそうなほど混じり気のない白色であることだ。
「移植の際の手順と基本は同じになります。眠る時はこの睡眠薬を服用してください。念の為二つ入れてあります」
「わかりました。ありがとうございます」
それを聞くと、医師は軽く一礼して部屋を出て行った。
一人になった部屋で眠るための支度を済ませ、不気味なスーツに身を包んだ。
受け取ったケースを開けると、それぞれ赤色と青色のカプセルが入っていたので、私は赤い方を選んで飲んだ。
枕元にぬいぐるみ達を移動させ、ライトを消し、ファスナーを最後まで上げて、横になった。
睡眠薬の効果が出るまで、まだ時間があるようだ。
せっかく少し時間ができたのだから、感情の遺言を聞いてやろうと思ったが、か細い声だったので全ては聞き取れなかった。聞き取れたのは(身はたと◯ 無限の彼方に 散◯うとも 留◯置◯まし 利他◯輝き)だけだった。それでも、その魂は掴めただろう。
その直後、心の穴から「是非に及ばず」という声が響いてきた。
この期に及んでそんな言葉を吐くとは思わなかった。
感情に対する最後の情けなのだろうか。
それとも、私のこの選択は誤りで、もう取り返しのつかない所まで来てしまったということなのだろうか。
それか、まだ何かあ……。
*
目が覚めて、最初に見えたのは、輪郭のはっきりした心の穴だった。実験は予想通りの結果に終わった。
起きてすぐに、廊下から足音が聞こえてきて、扉が開いた。
「おはようございます。もうファスナーを下ろしても構いません。心身の様子はどんな感じですか?」
「おはようございます。心空が、前よりかなり、鮮明に感じます」
ファスナーを下げながら、おぼつかない意識のまま答えた。医師はメモを片手に、記録する気満々で立っていた。
「そうですか。他には何か感じますか?」
「心空以外、何も感じません」
「なる、ほど。その状態を、別の表現で教えていただけますか?」
「透明な地面に、穴だけが空いているような状態です」
「透明な地面に、穴、ですか……。それ以外に、肉体的な面で変化はありますか?」
「注意が、ほとんど均等に、周囲へ拡散されているような感じで、特に耳が、周りの音をまんべんなく拾っている気がします」
「注意が拡散されてしまうと……。他にはありますか?」
「他……には……。やはり、肉体的に見ても、体の内側がないような感覚です」
「そう……です、か。ちなみに、これから日常の生活は送れそうですか?」
「おそらく、送れるのではないかと……」
「わかりました。もし、何かあったら連絡してください。それと、もうご存知かと思いますが、冷蔵庫に朝食が入れてありますので、ご自分のペースで召し上がってください」
「ありがとうございます」
「では、前回同様、帰られる際に一声かけてください。私はこの部屋を出て左隣の部屋にいます。その時にまた少し質問するかもしれません」
「わかりました」
いつも通り、軽く頭を下げて出て行った。
刑事ドラマで、事件直後の関係者に対して前のめりに事情聴取するシーンを見るのは、あまりいい気はしないのだが、まさかその速さの世界記録が更新される瞬間に立ち会えるなんて思いもしなかった。
とはいえ、自分の身に大きな変化が起きた後だから、それがなかったとしても、結局は聞かれたような質問を、自分で自分に投げかけていただろう。
心の穴がよく見える。昨日までは、感情が穴の周りを陽炎のように揺らめいていた。そのため、穴が空いていることはわかっても、中に何があるのか、どれだけ深いのかまではわからなかった。
しかし今となってはそのもやは晴れ、中を覗くことができる。
穴の正体がわかった。
無だ。触れることすらできないはずの無を、心に保持しているのだ。
何故そんなことをする必要があるのだろう。こちらが消えてなくなりそうになってまで。
そう思った時、心の穴から透明な、見えない苦しみの霧が噴き出しているのに気付いた。
スーツから服に着替えているうちに、完全に目が覚めたので、カーテンを開けた。既に明るくなっていた。空はどうして明るい姿を見せられるのだろうか。
冷蔵庫を開けると、前回と全く同じ商品が置かれていた。このメニューで全員固定されているならいいが、もし、出来る限り対照実験に近づけるために、私だけ直前になって変えたのだとしたら、その時の会計でちょっとだけ嫌な態度の店員さんに接客されていて欲しい。
仕方ないから、前回と同じような感じで食べてあげることにした。まず、卵サンドの角を一口食べた。
完全に、味がするだけになっている。美味しいと感じているのは誰だ。感情はもういなくなった。肉体はただ快楽物質を流しているだけのはずだ。
まさか、心の穴だとでも言うのか。無に何ができる。
次のハムサンドでも同様だった。もちろん、その次のツナサンドでも。
もっと味が薄くて美味しいと思うものならわかるのだろうか。
疑問が残ったまま朝食が終わった。
心の穴を覗きながら帰る支度をしていると、ふと恐ろしいことに気付いてしまった。
無の中には、無限も無欠も含まれているのだ。限りも無ければ欠けたるところも無い。夜空に落ちそうな恐さは、限り無いことから来ていた。それにしても、無なのに完全無欠なのか。
危険なスパイラルに陥りそうになったところで、準備が整ったので、医師の元へ向かった。
医師のいる部屋は、狭い空間に大掛かりな機械やデスクトップのパソコンが至る所に置かれており、部外者の居場所はほとんどなかった。
「お帰りになるのですね」
「はい。色々とお世話になりました」
「いえいえ。それより、今少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「ええ。構いません」
「ありがとうございます。まだいくつかお聞きしたいことがありますので、早速始めていきます。まず、心空についてですが、感情との違いはどのようなものがありますか?」
「そうですね……、感情は、虚無感や孤独感など、漠然としていて掴みどころのなさがありますが、心空は……、虚無感というよりは虚無で、孤独感というよりは孤独で、とにかく何か絶対的な力があると思います」
「なるほど。他に何か気付いたことなどはありますか?」
「ほかには……。限りない無が広がっているような気がします」
「そうですか……。では、感情が消えたことで、感情について新たにわかったことはありますか?」
「感情については……、自分の内側を、満たしているのだと思います。先ほどサンドイッチを食べた時、飲み込んだ瞬間、完全に消えてなくなったような感じがしました」
「自分の内側を満たしている、と……。わかりました。ありがとうございます。またご連絡しますので、その時はよろしくお願いします」
「はい。ありがとうございました」
「お気をつけて」
会釈した後、居心地の悪さに手を引っぱられて部屋を出た。そのままエレベーターに乗って一階まで下り、研究施設を出た。
外は、雲一つない青空が広がっていた。果てのない闇を覆ってくれていることに感謝し、歩き始めた。行きは偶然が重なって、車で送っていただいたので、この道とは二年ぶりの再会になる。
二年前にあった地面のひび割れは直されていなかった。一度気付いてしまったことだ。もはや知らないふりをして通り過ぎるなど、できるはずもない。
二分の二拍子の段差もそのままだ。動きを固定する力が完全に失われたのだろう、所々二分の三拍子になってしまった。
橋が近づいてきた。起こり得る全ての未来に堕ちないように、慎重にその上を渡った場所だ。
橋に一歩足を踏み入れた途端、その下が無の闇に変わった。しかしやはり、頑丈に造られた橋のおかげで堕ちることなく渡り切れた。
振り返らずにそのまま駅へ向かって歩き続けた。私と同じように、駅に行こうとしている人が少しずつ増え始めた。それに従って、道に流れを発生させる力も強くなり始めた。
人が生み出す力は感じるようだ。肉体はその手の力には極めて鈍感である。そうなると、やはり感じているのは心の穴になってしまう。
駅に入り、ホームで見知らぬ人々と電車を待った。
ここにいる多くの人は、終点までには降りるだろう。だから、終点がどんな所か知らないはずだ。知らない所から来た、知らない所に向かっている乗り物に乗って、それらを知らないまま途中で降りていく。知らないことや知り得ないことだらけで、自分の周り全てが少し暗くなったように感じた。
何分か経った後、それが当然であるかのような顔をして電車がやってきた。私達も、それが当然であるかのような顔で乗車した。
大学が歩いて行ける距離にあるから、朝の時間の電車に乗るのは久しぶりだ。久しぶりの、誰もが見栄の鎧を脱いだ空間には、安心感を覚える。しかし、私の内側にはもう、安心感を生じさせるものはない。孤独と虚無の苦しみしかないのに、私の脳は安心だと判断している。心は体だけでなく、この考える自我とも離れてしまったのか。
乗り換える駅に到着するまで、SNSのtwinkleでニュースを見ていた。
ここ十数年で景気の悪化が進み、特に昨年度は何も起きていないのに、災害が発生した時と同レベルの悪化が見られたらしい。素直に私の成人を祝えば良かったものを。
精神疾患患者の増加を食い止めるべく、一時的に感情を麻痺させる薬が発売されたものの、増加率がさらに上昇してしまった。感情が回復しないから、それを脅かすものに対して過度な潔癖症になっているのだ。その脅威を細菌に例えたら、私はその培養液に全身が浸っている状態になる。こんな私から逃げないで欲しい。
この二つの問題は、表から見れば前者が後者の主な原因だが、裏から見れば、普段偉そうにしているわりには小心者であるという、もっと根本的な原因が姿を現す。何にせよ、どちらの問題も、解決の鍵を握るのはこの私だ。だから一刻も早く、誰か私に手を差し伸べてください。
私の切なる叫びは、まもなく到着することを知らせるアナウンスによってかき消された。
電車が止まり、自分の目の前のドアが開いた。くだらないことを考えていたからか、先導者になってしまった。自分で動いているのか後ろの人に動かされているのかわからないまま階段を上がった。
地上に出て、改札が視界に入った時、思い出した。過去の過ちと、同じホームで乗り換えできることを。
改札に向かう流れを利用して横の壁に逸れ、反対向きに進むべく、そこで一旦止まった。少し前まで居心地の良さを感じていたのに、少し向きを変えただけで居心地の悪さに変わった。
人の流れが収まるまで、しばらくその場に留まることにした。その間も、異分子であることの疎外感を身に受け続けた。疎外感とは、孤独と根拠のない恥ずかしさが混ざったものだ。そのため、私は今、心の壁を刺す恥ずかしさと、心の穴から伝わる孤独によって、挟み撃ちにされている。
しばらく弱い者いじめが続いたが、そのおかげで重大な事実に気が付いた。私が今まで心の壁だと思っていたのは、肉体の事だったのだ。感情が少しでもある頃は、同じ場所にありながら、心は心、体は体という風に、無意識に分けて考えていた。ところが心と体は、感情によって繋ぎ目がなくなるほど、なめらかに連結されていたのだ。おそらく、自我意識も同様だろう。
人が少なくなってからホームに戻った。既に電車を待つ人の列がたくさんできていた。
数分後に電車は来た。私は列の最後の方だったが、ドア付近になんとか乗車できた。
「あれ?すごく久しぶりじゃん!」
声のする方を向くと、すぐ近くの手すりにもたれて青井さんが立っていた。
「本当に久しぶりだね。最後に話したのは一年以上前だよね?」
「そうそう!それぐらい振りだ!教室では見かけてたんだけどね〜」
「今はどこへ行こうとしているの?」
「就活のことで学校に行こうと思って〜」
「偉いね、もう始めてるんだ」
「まあね〜。これから始まる長〜い社会人生活の、スタートダッシュでつまずきたくはないからね〜」
「長い……のか。働くのは嫌じゃないの?」
「そりゃ〜できたら働きたくないけどね〜。まだましな仕事に就いて、趣味を充実させたいかな〜」
「嫌なのにどうしてできるの? ……まさか……」
「よく覚えてたね〜。ここでも思い切るんですよ〜」
そう言いながら青井さんの表情が放っていた空気は、通勤時間の電車内に、瞬く間に溶けていった。
「まさかまたその言葉が聞けるとは。それだけ好きな趣味があるんだね」
「そこまでではないけどね〜」
「そうなのか。じゃあ一体何のために?」
「う〜ん。突き詰めれば生きるためになるかな〜」
「生きるため……」
「その顔は、生きたいと思ってない感じ?」
「生きたい……。どうなんだろうね。わからないや」
その言葉を発した途端、心から見える景色が真っ暗になった。
「そっか〜」
……。
会話が修復不可能な途切れ方をしたのも束の間、電車が最寄り駅に到着した。おかげで、沈黙の原因を上書きできた。
青井さんはキャンパス内のキャリアセンターに行くようなので、途中まで一緒に行って、私はそのまま蓮の池に行くことにした。
「そういえば生き物で思い出したんだけど、ミドリムシのドーナツって食べたことある?」
「抽象的だな〜。ミドリムシはさすがにないよ〜」
「実は、少し前にミドリムシのドーナツを食べなければならない状況になったんだけど、食べて以来、あらゆる輪っかがミドリムシのドーナツに見えるんだよ」
「拷問でも受けてたの? てゆうか幻覚見えてるじゃん!」
「さっきの電車とか、ミドリムシのドーナツいっぱい吊るされてたよね」
「吊り革だよ!? じゃあ穴はどう? そこに立て掛けてある木材とか穴空いてるけど……」
「その周りが円で囲まれてなければ大丈夫みたい」
「そっか、じゃあ真ん中の何も無い所に反応してるわけじゃないんだね」
「あれ〜? 変ですね〜。普通、ドーナツと言ったら、リングの方に注目すると思うのですが〜、あなたは中央の空間に意識を向けました〜」
「洞察力に優れた刑事の真似しなくていいから! 何も起きてないんだし……」
「ごめんごめん。それで結局、なんで何も無い空間が気になったの?」
「実は最近、色々な企業のホームページを見てて、その中でドリルを製造してる会社のホームページに、ほら!」
見やすいようにこちらに向けてくれた携帯の画面を見た。青井さんが示した指の先には、『穴とは、空けられた物体を指すのではない! 何も無い部分を指すのだ! 我々は、無限の可能性を秘めた【無】を! 完全無欠な【無】を! この手でこの世に生み出すのだ!』と、習字のフォントで大きく書かれていた。
「強烈だね。この企業に入りたいの?」
「う〜ん。どうかな〜。ただ、就活生向けのページに、『私たちの会社は常に穴場でありたいので、あまり周りの人には話さないでください。』って書いてあったんだよね〜」
「その会社は大丈夫なの? それに、口止めされてることすら話してるけど」
「まあ変わってるな〜とは思うけど、穴場ってことは、良いところなんだよね?」
「穴場って言葉自体にはそういう意味もあるけど……。あんまり自分から言うことではないかな」
話しているうちに、キャリアセンターのある棟の入り口に着いた。
「それじゃあ私はこっちだから、またね! あっ、ドーナツにはお気をつけて!」
「ありがとう。君も、体に風穴を空けられないように気をつけてね」
「あ、ありがとう……」
青井さんは、辺りを気にしながら建物の中へと消えた。それを見届けてから、私はそのまま蓮の池へと向かった。
正門から広場までの道を飾るように花開く桜とは対照的に、あまり人の通らない道に寄り添うように咲く椿の横を通り、校舎の二階を繋ぐ渡り廊下と白い木蓮でできたアーチをくぐり、化け物の肋骨のような柵が開いている裏門を出て、レンガの道に案内されるように公園の中へと進んだ。
いつもの指定席は座られていたので、東屋の自由席に座った。机にもたれる形で外向きに座り、顔を横に向けて時々池を眺めた。蓮の残骸がいくつも池に顔を浸けていて、あまりの哀愁に時が静止しているようだった。
衰亡を嘆いているのではない。栄枯盛衰への冷たい虚無だ。
刑事の思考は犯人に似てくると言うので、あの怪しい会社と似たようなことを考えていたのには相当な危機感をおぼえたが、悔しいことに言っている内容には納得してしまった。
今朝、目覚めた時に驚いた。
穴なのだから、たとえ感情が消えても、何かしら中盤のビーフシチューホットパイらしきものが残ると思っていたし、その残り物が心の本体なのだとも考えていた。
ところが、蓋を開けてみたら何も残らなかった。穴の空間しか無かった。
そして、それをよく見た時、更なる衝撃を受けた。唯一残ったものなのに、そいつは無だった。
じゃあ一体、心はどこにある。そんな疑問を抱えながら帰っていた。
帰っている途中に、心の壁が肉体であるとわかった。確かなことなど一つもないのだともわかった。それでも心がどこにあるかはわからなかった。
その答えが、胡散臭い会社のホームページに書いてあった。
心の穴こそが、空虚な何かこそが、心の本体だったのだ。
心は無でできていた。
そう思いたくなかったから気付けなかっただけで、今考えたらそのチャンスはいくらでもあった。
極端な考えに陥らないようにしたり、蓋をされるのを拒んだりしたのがそうだ。
極めつけは、感情が減ってきていたはずなのに、何も感じなくなるどころか、そいつの存在が大きくなるにつれ、前より繊細に感じるようになっていったことだ。
自分とは無だったのだ。
そこに虚しさ以外、どんな意味を見出せばいい。
たとえそれの意味が見つかるとしても、あの会社で働くのは御免だ。
*
JUNさんにわかったことを伝えるため、携帯を操作しやすい姿勢にするべく、机の方に体が向くよう座り直した。
「先日は、細やかかつ力強いお心遣いをいただき、本当にありがとうございました。
その日以来、誠の人間の人格に触れ、また長遠なる熟慮の末、昨今話題になっている、ポジティブな感情によってネガティブな感情を排除するという実験を受けると決め、本日行いました。
ここからは、その結果判明したことを報告してまいります。
まず、空虚な何かの正体は無でした。
以前までは、感情が薄く残っており、ガムシロップの溶けた水を通して見るような不明瞭さがあったのでわかりませんでしたが、今回の実験で取り除かれ、はっきり見られるようになったため、それを知ることができました。
ただそれ以上は、穴の向こうに際限ない無が広がっていることぐらいしかわかりません。なぜ無が有るのか、その目的や意味が何なのかは全くもって不明です。
次に、その空虚な何かこそが、心の本体でした。
今まで、感情が薄くなっていくにつれて感じる力が高まっていったことから、感情以外に心を司るものがいると思っていました。空虚な何かが空洞や重りのように見えていた頃は、この考える意識とも言うべき自我がそうなのだと思っていましたが、重りが穴となってから、空けられているものがいると考えざるを得なくなりました。
そこで、感情が全てなくなれば、眼球のような姿をした、心の穴である空虚な何かとその周りを囲むものが残り、それこそが心なのだろうと予想して実験に臨みました。
ところが、いざ目覚めてみると、穴の内側の空間、空虚な何かしかいませんでした。他に残っているのは肉体と自我意識だけですが、その後、肉体は心の一番外側にあり、出口と入り口を担っている存在だとわかり、自我意識に関しては心で感じていることと相反する結論を出すことが増えたため、心の本体にはふさわしくなく、空虚な何かが本体であると認めざるを得なくなりました。
しかしこちらも、なぜ無であり止まっているようにすら見える存在が心の根源となれるのかはわかりません。
わかったことでよりわからなくなりましたが、もしや私はパンドラの箱を開けてしまったのでしょうか。箱の中身どころか差出人も書かれてなかったものですから……。
長文になってしまったこと、お詫びします。
ところで、そちらはお変わりありませんでしょうか?」
もし本当にパンドラの箱だったのだとしたら私は、ゾンビ映画で言うところの初めにウイルスに感染してその上それをばら撒く、ゾンビより悪い奴ということになる。そしてそういう奴は決まって凄惨な割に虚しい死に方をする。私はせめて死ぬなら、味方を逃がすためにしんがりを務め、主役よりも印象に残る偉大な死に方がいい。
開けた箱がサプライズ用のびっくり箱でありますように。ドッキリなら、もうネタバラシをしてもいい頃なのではないだろうか。
漫画版の[レ・ミゼラブル]を読みながら待っていると、ほどなくして返信が来た。
「ご無沙汰しております! 生きておられるようでなによりです!
そうでしたか! 長久なる熟慮の末決めたことなら、それは歩むべき道なのでしょう!
空虚な何かの正体は無で、それが心の核だったと……。
確かに、パンドラの箱を開けてしまったのかもしれませんね……。それでも、箱の中身や差出人どころか、開けるなと書かれていても、いつかは誰かが開けていたでしょうから、遅いか早いかの違いしかないと思います!
とにかく、開けてしまった以上は希望を見つけなければなりません! 引き続きオペレーション『一』を進めてまいりましょう!
私の方も、わかった事があります!
これからは、空虚な何かを心実と呼ばせてもらいますが、その心実と感情の関係についてです!
以前、心実と感情に主従関係があると伝えたと思うのですが、どうやら、心実の状態によって感情が変化しているみたいです!
例えば喜怒哀楽で言うと、喜は心実が認められている状態で、怒は心実が否定されている状態で、哀は心実が孤立している状態で、楽は心実が小さくなっている状態になります!
あなたは、心実は止まっているようにすら見えるのに、時々刻々と変わる心の根源であることに疑問を抱いているみたいですが、ダンスを踊る人間のように考えるのはどうでしょうか? 振り付けこそ変転極まりないですが、踊る人間はその人のままです!
それと、ダンスで思い出したんですが、感情はそれ自体にサインやコサインの波形のような、かなり正確な周期性がある気がします! それも心実が軸になっているのかもしれません!
少し話は変わりますが、実験後のあなたの状態はどうですか?」
ゾンビ化確定のようだ。早く私の側から離れろとの思いで周りを見たが、誰もいなかった。
それよりこの方は、できる限りネガティブを見ないようにしてポジティブだけを求める楽観主義ではなく、全てを受け入れてそれでも前を向く稀有な楽天主義の方だ。感情移植によって生まれた関係だが、海老で鯛どころか全てを釣り上げていたのかもしれない。
「心実と感情にそんな関係があったのですか。
だとすると、心は万華鏡に似ていますね。心実の姿によって感情が変わるのは、オブジェクトの配置によって鏡に映った像が変わるのと重ねて見ることができます。
そう考えると私は、鏡に映ったオブジェクトを取り除こうと、必死に表面の銀を剥がしていたことになります。今はただのガラスになってしまったのでしょうか。
私自身の方は、悲観主義に寄りかけていたのが、虚無主義に寄り始めている気がします。
心実という無の世界への入り口が常に開かれているため、既に無の世界と有の世界との板挟みに遭っています。中間管理職は大変そうです。
総司令の方はお体の調子はいかがですか?」
「万華鏡は良いモデルですね! そうなると周期性は、朝昼夕夜の日光がそれぞれ入っている感じでしょうか!
もう一度銀を張り直すことは出来ないものなんでしょうか……。こちらではなかなか心を治す術が見つかっていません……。
私の方は、忙しいですがなんとかやっていますよ!
それよりも、総司令呼びなんて、早速中間管理職が板に付いてるじゃないですか! あんまり無理しないでくださいね!」
やり取りを終え、そのまま本を最後まで読んでいると、昼食の時間帯になっていた。日の光が横から差そうが上から差そうが、蓮の池の時間は止まったままだった。
本をリュックにしまい、池を離れた。
木によって道が二つに裂けた場所まで歩き、行きと異なる方の道を進み、神社にありそうな階段を降りて、そのまま家に帰った。
*
実験の日以来、世界から意味と価値が消えていく速度が速くなった。もはや、踏んだ地面が落ちて消えていくステージで生き残るゲームをしているようだ。もちろん、そのゲームも既に、あるのかもわからない奈落の底まで、意味も価値も落ちてなくなった。そしてその現象は、昔なら決して行かなかっただろうという場所にまで、私を導いていた。
野外フェスだ。
三日前、突然青井さんから連絡が来た。その内容は、野外フェスに行けなくなったから、チケットを貰ってくれないか、ということだった。どうして私なのかというと、いつも一人でいて予定がなさそうだからだ。三日後に行われる野外フェスの、一人分のチケットに応戦できる人間はそういまい。
そういうわけで、白羽の矢が頭に刺さったまま、現地に向かうバスに乗っている。
自分でもわかっている。今の自分が、飛んで火に入る夏の虫と最も近い人間であると。それでも、踏める足場がもう残っていないのだ。
それに、感情が消えたことで、別な感じ方をするかもしれない。火の中で不死鳥として甦る可能性もゼロではない。
それでも、甦れなかった時のために、できる限り軽傷で済ませられるプランを組んできた。
まず、二時間遅れで会場に入る。今日のフェスは、人気の歌手が開幕の狼煙を上げるそうなので、大半の人は開始時刻の九時からいるだろう。そしてその後は、合計四つの競技場でライブが行われていくので、観客は各地に散らばっていくはずだ。なので、混雑による致命症は避けられる。
次に、着いてすぐに昼食を摂る。到着の時刻は、お昼ご飯の時間帯よりは少し早いのだが、それを逆に利用して、空いている屋台で安全に食料を確保する。火の中にいる虫にとっては、食事すらも命懸けなのだ。
そして、十二時から陸上競技場で行われるライブを見る。この会場は、四つの中では一番大きいし、何より日陰が多い。
一時間ほど見終わった後、近くの休憩スペースへ行き、そこから二時間ぐらい休息を取る。敷地内にある体育館や公民館などが、休憩スペースとして開放されているのだ。暑さで疲れた人間すら休むのだ。火だるまになった虫がそれをしないわけがない。
火によって上昇した体温がある程度下がったら、十五時半からのライブを見にサッカー場へ行く。日陰は少ないが、多くの人は暑さなどお構いなしにコートに下りるだろうから、虫一匹分のスペースぐらいあるはずだ。
そこで一時間見た後は、早めの夕飯だ。昼と同じ作戦を取る。鬼の居ぬ間にアタック戦法だ。
食事が済めば、物販でお土産を買い、帰宅の混雑を回避すべく、日が落ちる前に早めに退場する。行きと同じ、必勝の術、合変の形は、機における迅速果敢な行動にあり計画だ。
車窓から陸上競技場が見えてきた。ここが復活の地となるか、はたまた火刑場となるか。翅が小刻みに揺れている。武者震いだろうか。
バス停に到着した。外は、火の粉が見当たらないことに違和感を覚えるほどの熱風が吹いていた。
入り口で受付を済ませ、まずは大勢の屋台がある、中央広場へ向かった。
広場は、面積だけで言えば陸上競技場ぐらいあり、そこを屋台と食事スペースで半分ずつ分け合っている。特に屋台は、通路がアルファベットのHになるように並んでおり、その縦側から入るようになっている。
広場へ続く道の途中、私は驚きのあまり足を止めてしまった。広場とは別に散らばって出店している屋台の前に、既にたくさんの人が集まっていたのだ。ここに来る人は、昼食の前にチュロスを食べる風習があるのだろうか。
そこから数分歩いた後、広場に到着した。嫌な予感が的中し、食事スペースは既に、下手な人のテトリスの盤面みたいな埋まり方をしていた。
そのまま屋台のエリアに入った。暑い上に煙臭いので、ここは本当に燃えているようだった。人気の唐揚げや焼き鳥、フランクフルトやいか焼きなどは、店の前まで辿り着けない有り様だった。なんとかコロッケの屋台の目の前に来られたので、ノーマルコロッケとメンチカツを入手した。
その先は、ベビーカステラやわたあめ、チョコバナナやりんご飴など、甘いものが集まっていたので、曲がってもう一つのレーンへ向かった。
途中の、Hで言う横線の部分には、タコスやケバブ、ヤンニョムチキンなどの、変化球な店が並んでいた。その中に、夕飯の獲物を見つけた。牛肉ステーキ串だ。虫は虫でも、私は肉を消化できる虫なのだ。
もう一つのレーンにも、唐揚げや焼き鳥などの店があったが、鏡の世界に入ったかのように、ただ左右が入れ替わっただけだった。
最後のコーナーは、かき氷やラムネ、アイスキャンディやサラダバーなど、冷たいものが集まっていた。熱源から遠ざけるためか、冷気を渇望した客の財布を最後に絡め取るためか、色々な事情はあれど、皆の利害が一致した、奇跡の空間だった。私は、かき氷に警戒心を溶かされた。
食事スペースは、席がかなり埋まっていたが、自販機の下に百円玉が吸い込まれる時に発生する力と似た類いの引力に案内され、席に着いた。
コロッケをおかずにかき氷を食べるのは、遠目から見れば普通の食事と変わらないが、胃袋から見れば一つの悲劇なので、持参したおにぎりセットも食べることにした。
まず、コロッケを一口食べた。暑い上に熱い。感情が消えて以来、肉体が最も近い外の世界に変わったが、これは感情のある人でもあつさを混同して疑似体験ができるのではないだろうか。
かき氷は儚いので、急いで完食した。感情があれば、この瞬間は肉体を取り返せたのだろうが、私は取り戻せなかった。
昼食を終え、ほんの少し早いが陸上競技場へと向かった。
建物内を進んでいる時に、幾度となく座れる席が残っているか不安になったものの、なんとか座ることができた。
ライブが始まるまでほんの少しまだ時間があるので、観客席は休み時間の教室のようになっていた。どうやら、翅に火がつき始めたようだ。
エレキギターの轟音が、他の全ての音を黙らせた。その直後、のんきに自己紹介などせず、そのまま一曲目に入った。閃光をまとった竜巻のような曲だった。無数の言葉を集めるより、一曲の演奏の方が、雄弁に自己を知らしめられるということか。私とは全く別の世界の住人だ。
そのまま続けて二曲目が披露された。青春を感じさせる、弾けるレモンサワーのようだった。この方々は、未成年飲酒をしていたのだろうか。
二曲目が終わると、MCの時間に入った。先ほどまで鋭く激しい演奏をしていたとは思えないような、温和なトークだった。
その後、三曲目が始まり、続けて四曲目に入った時、自分の周りが透明なカーテンで遮られているような感覚に陥った。気付いたら、他の人々が自分には見えない何かで一体になっていた。
五曲目が始まると、心が冷たくなり始め、終わる頃には周りの大気が凍っているように見えた。
ここは『冷たいな……』
ライブが終わると、すぐに近くの体育館へ向かった。熱くなった体を冷まし、冷たくなった心を温めなければならない。
体育館の中はあまり混んでおらず、難なく観客席にありつけた。エアコンも空調も効いているので、神も感心する人工の楽園だった。
先ほどの現象を、頭の中で整理するのも兼ねて、早速JUNさんに報告した。
「今朝、悪夢から目が覚めると、飛んで火に入る夏の虫になっていました。
ここからは、火の中で体験したことを報告させていただきます。
それは、気持ちの昂りで場に一体感が生まれる瞬間に居合わせたために起こりました。
そういう時は、空間全体に高揚感が充満しているものですが、私はそれを全く認識できないため、全てが静止した真空のように見えて、臨場感も完全に喪失してしまいました。
無の世界の、絶対零度な孤独を見た気がしました。
それと、無の世界で思い出したのですが、前回疑問に思ったのに聞き忘れたことがありました。それを今送らせてもらいます。
無には、欠けているものが無い、無欠という概念もあります。そこで、無の世界に欠けていないものはなんだと思いますか?
暇な時にでも考えてみてもらえると助かります。」
休憩の時に読もうと思って持ってきた、『青春対話』を開いた。フェスの神よ、我にフェス中の読書を許したまえ。
一時間ほど経った頃、返信が来た。
「あなたはまた危険なことをしているのですね! あなたの心は今、防御力が全くない状態ですから、あんまり無茶しないでください!
絶対零度は全ての物質の動きが停止する温度ですから、非物質な無の世界が絶対零度なのは、言い得て妙かもしれませんね!
私もあれから無の世界について色々考えてたんですが、無の世界とは法が集まった世界なのではないかと……。
例えば三平方の定理で言うと、直角三角形が有る所では法が存在しています。
では、直角三角形が無い所ではどうでしょうか?
ここで完全に法自体がないとすると、困ったことが起こってしまうんです。
この世に完全に三平方の定理が無くて、教科書にも載っていないとすると、直角三角形が存在しないことにならないでしょうか? 法自体が無いのなら、そんな現象は起こらないからです。
だから、直角三角形が無い所では、無いけど有る状態、条件が揃っていないだけの状態なんじゃないかと。
これをあらゆる法で同じように考えたとすると、法が無欠の世界になるんじゃないでしょうか!」
無形の空を縦横無尽に飛び回り過ぎている。この方は、その空の存在を認めて何度も羽ばたいている方だが、どちらかというと外向きの精神の方だろうから、さすがにここまで自由自在に飛翔していなかったはず。前回から三、四ヶ月程度でここまで変化するものだろうか。
その手の力は心実を直視することで成長するものだ。心実があらわになるほどの何かがあったのかもしれない。私の異常に気付いた時から、既にそうなりかけていたのではないか。
「ご心配をおかけしました。安心してください。法には触れてません。
あなたのおっしゃっている無の世界とは、コンピューターで言うところの、プログラムとかソースコードみたいな感じでしょうか? ゲームなら、『Bボタンを押せばジャンプする』というコードが法で、Bボタンが押されていなくてソースコードに書かれているだけの状態が無の世界に当たることになります。
そうなると、この世のソースコードへの入り口たる心実は、同じ所に通じているのでしょうか。
それより、現実生活で何かあったのではないですか?
形の無いものに対しては、心実をキャンバスに、考えたり想像したりしたことを描く必要があります。
客観的に見て、その技術が短期間で上がり過ぎていると思います。
心実を容易く直視できるようになるほど感情が減る出来事があったのではないかと心配です。」
総司令の身が案じられる。しかし、今私は戦場にいるのだ。私は私の戦いで最善を尽くさねばならない。
サッカー場へ向かうべく、体育館を失楽園になった。
外は、出た瞬間から楽園が恋しくなる暑さだった。
少し遅れて到着したため、座れる席は既になく、壁際で立って見ることになった。遅刻して教室に入ったら、自分の知らない話題で全体が盛り上がっていた時の寂しさと同種の孤独を感じ、来て早々肉体は焦げ、精神は再び凍り始めた。
ステージでは、一人の歌手と、多数のダンサーが会場を盛り上げていた。曲の雰囲気も軽快で、共鳴しやすそうなリズムだった。
次の曲は、打って変わって荒ぶる龍のように激しくキレのあるパフォーマンスで、一方的に観客を魅了していた。鱗の一枚でも、虫の一匹など立ちどころに一刀両断してしまいそうな鋭さだった。
最後の曲は、音楽から隔絶された私にも大団円を表現しているとわかるパフォーマンスだった。そしてそれによって、私のバッドエンドも確定されてしまった。
それでもまだやり残したことがある。私は、なんとしても日没までにステーキ串を胃袋に入れなければならない。
これ以上体が熱くならないように気をつけつつ、急いで中央広場へと向かった。
広場には多くの人がいた。私は、ステーキ串だけを買って席に着いた。
一口噛むと、肉汁が湧き出てきた。まろやかな肉の脂と、塩と胡椒のシンプルな味付けは、口の中でゴム製のトゲトゲボールが転がっているような快感を生み出した。しかし、それは心実までは届かなかった。
今日一日通して、熱くて激しい現実世界と、冷たくて止まった無の世界が重なって見えた。そして、二つの間には、真空が音を全く寄せ付けないような相容れなさがあった。
どういうわけか、感情にはその二つの世界の仲を取り持つ力があるらしい。それを私は失ってしまった。
それでも、決して感情を完全に失ったのではなく、感情の(無い)状態なのだろう。
しかし、(有る)状態に戻るのはほぼ不可能だ。もし、それこそ移植で元に戻ったとしても、私には割り切ることができない。
それでも、今ここでこの串を目から脳に刺して楽になることはできない。それは何も、腕力が弱いからではない。
心は苦しみからの解放を願ってはいるが、死を以てすることを願っているようには、どうしても思えないからだ。
それより、無いのに有るとか、無いけどないわけじゃないとか、どうしてこの世はひねくれたことばかりなんだ。
もうすぐあふれそうなごみ箱に串を捨て、物販コーナーへ向かった。
物販コーナーは、入り口の近くの建物の一階にあった。マイク型の箱に入った飴と、ギターのピック型の栞を購入した。
近くのトイレで服を着替え、入り口から会場を出て、予定していたバスに乗った。
バスの窓から、夕日が沈む方向に陸上競技場が離れていくのが見えた。ここは、復活の地とはならなかった。外は焼け焦げ、内は凍りついた不審死体が出来上がってしまった。
携帯を見ると、返信が来ていた。
「法には触れてないって言われると、限りなく黒に近いグレーのように感じますが!
ソースコードとなると、もうそれが究極の真理になると思います。なので、同じかもしれませんね!
ただそれでも、その目的がわかりません……。コンピューターのソースコードは、何かしらの目的があって書かれるものですが、究極の真理の目的とは何なのでしょう……。
蛇の道は蛇ということでしょうか……。あなたの言う通り、色々ありまして……。我が部隊、壊滅の危機ですね……。」
やはりそうだったのか……。そんな状態でこれだけ気遣いができるとは。
因果の鎖はあまり揺れていない。心配する以外、何も力になれないのか……。
「法の話で法律の方の法を使って紛らわしくさせてしまい、申し訳ありません。でも、本当に法の目をかいくぐるようなことはしていないのです。
以前、意味や価値は自分で見出して、与えるものだと言われたことがあります。そして目的とは、意味と価値でできていると思います。
なので、目的も自分の中から出てくるのではないでしょうか。
それと少なくとも、私個人の現状ではありますが、他から与えられた意味や価値は、ほとんどが崩れ去ってしまいました。
やはり困難に見舞われておられたのですね。お力になれることがなくて申し訳ないのですが、これだけは伝えておきます。
長らく心実を見てきて、苦しみの源であることは確かですが、破滅を願っているようには思えないのです。
なので、その真意がわかるまで、お互い、とにかく耐えましょう。」
心実こそ究極の真理だった。だが、その目的がわからない。それがわからないなら、空虚なままだ。二人とも、耐えられるだろうか。
バスに乗って三十分ほど経ってから、駅に到着した。そこで、最寄り駅へと向かう電車に乗った。
今日は休日なので、帰宅ラッシュも甚だしくはなく、かろうじて座ることができた。
発車して五分くらい経過した頃、また返信が来た。
「わかってますから! もうこれ以上法律の話したら警察呼びますからね!
目的は自分で見つけると……。確かにそんな気がします。今の状況になってみて、あなたの身に起きた、確信を持てない現象の理由が、なんとなくわかった気がします。確かなことなんて、実際に全然ないんですね。すべては信じているだけ……。
それなら、なんとしても心の底から信じられる目的を見つけなければなりませんね! オペレーション『一』、次のフェーズに移行しましょう!
それと、今更かもしれませんが、心が少し回復する方法がわかりました!
それは、心の奥から出た想いに触れることです! 心実から出た想いなら、心実まで届くのだと思います。それでも、回復するのはほんの少しですが……。
それともう一つ、回復と言えるかはわかりませんが、無である心実が、そのまま原動力となることがあるようです。やはり、心実は何かを望んでいて、それこそが目的なのかもしれません。それが何かはわかりませんが……。
あと、これから毎週、生存確認のために、サインを送り合いませんか? 私が『?』と送りますので、あなたは『!』と返していただけると……。」
「全ては信じているだけ……。それなら、心実が誠実な振る舞いをさせようとすることにも納得がいきます。心実は、何かを信じたがっているのかもしれません。
誠の想いだから信じられて、心実が安らぐというわけですか。思い当たる節がいくつもあります。それでもやはり、自分の内から湧き出させなければならないのですね。
総司令の命令とあらば。ちなみにこれって法的拘束力はありますか?」
「!」
ここからが正念場というわけか。
三十分乗ったところで、最寄り駅に到着した。空は、夜を目前に控えているようだった。
天空を落ち続ける月のように、倒れ続けるように家まで歩いた。
時間はかかったが、なんとか完全に倒れることなく家の前まで来られた。
そのまますぐに扉を開けて、作用反作用の法則を利用して中に入った。
玄関に入り、荷物を置いた途端、体の動きが止まってしまった。
これは、疲れに対する麻酔が切れたからではない。
習慣が、完全に崩れ去ったのだ。感情が消えて以来、いつ壊れてもおかしくないという気配は感じていたが、とうとうその時が『来てしまったのか……』
『これは厳しいな……』
これからは、その都度自分で体に指示を出さなければならない。
いちいち体に命令して、シャワーを浴びた。入浴は最大の敵の一人だ。たとえ体を洗っている途中でも、一度止まれば、しばらくそのまま動けなくなる。逆に、ここを越えれば、今日を乗り切る可能性は格段に上がる。
いつもより時間がかかったが、汗の不快感が後押ししたのか、なんとか終えることができた。
髪が濡れていることへの不快感を利用してドライヤーで髪を乾かし、キッチンへ向かった。
『痛っ。後でこの荷物、片付けないと……』
今の状態は、全ての習慣を手動で行わなければならないため、余分にエネルギーを消費する。屋台のステーキ串だけでは不十分なのだ。
冷凍の唐揚げとほうれん草と焼きおにぎりを温め、ケースに入れたまま机に置いた。
『ぃただきま……』
また体が動かない。習慣が崩れたのとは別な感覚だ。体を動かせないというよりも、脳に体を動かす指令を出させることができない。
どうやら『これは』、価値がなくなったからのようだ。心の中で全く価値のないことに対して、体が動こうとしないのだ。
『どうしよう……』
しばらく色々考えながら止まっていたが、食べなければどうなるかを想像したら、なんとか体は動き出した。
肉体自体は空腹だったので、一旦動き出すと、そのまま止まらずに食べ終えられた。
ここで安心するとまた動けなくなるので、片付けの勢いのまま薬を飲み、歯も磨いた。
そのまま倒れるように布団に入った。
*
社会生活は、水を使った拷問のようだ。学校へ行き、少し休みがあって、また学校へ行く。それは、無理矢理顔を水に浸けて溺れさせられて、窒息する寸前に手を離されて水から反射的に顔を出し、呼吸が整わないうちにまた水に顔を入れられるのと同じだ。
雨の音で目が覚めた。外が明るいのはわかるが、今が朝と昼、一体どちらなのかはわからない。なんとか三年の後期を終えられたが、終わった瞬間に、地球の自転のリズムに合わせられなくなった。
それでもわざわざ体を起こして確認しようとは思わない。しばらくその周期性を忘れさせて欲しい。
この約半年で、色々なことがわかった。
悪魔の最大の誘惑は死であること。
この世界に漂う希望の多くは、悪魔が作ったレプリカであること。例えば休日や、夢の中は、それに触れた途端、私を殺さないための最低限の餌へと変わり、何度も同じ苦しみを味わわせる悪夢へと変わってしまう。
苦悩のどん底という言葉があるが、苦悩の底は、エレベーターの床のように、そのまま下がり続けること。
正念場とは、良くなる兆しではなく、敗れれば地獄へ落ちる関門であること。
こんなことなら簡単にわかるのに、心実の目的が一向にわからない。
『一体いつまで』待てばいい。
とうに限界は過ぎているというのに、感情が尽きているから諦めることもできない。
目を閉じながら同じことを何度も何度も考えていると、いきなり頬に、水滴が流れ落ちていく感覚がした。
泣いているのか。また体が勝手に水門を開けた『のか……』
しばらくそのままの姿勢でいたら、また水滴が流れた。
これは涙じゃない。不自然な落下の衝撃がある。私の目と頬の間にかなりの高低差が生まれたか、私の顔の上で誰かが泣いているか、それとも、涙ではなくよだれを垂らしているか。
そのどれでもないことを願って目を開いた。
雨漏りだった。レインボーローズから雨水が落ちていた。
大家さんはこれ以上雨漏りが起きないように、厳重に侵入経路を塞いだと言っていたが……。そちらは限界が来てしまったか……。
それよりも、水は一体何者なのだ。ラップをした皿の少しの隙間でも、パッキンをし忘れた水筒のほんの少しの隙間でも、少しでも通れる道を探して抜け出してくる。
これが可能性ということなのか。
そのまま当たり続けるのは気持ち悪いが、起き上がるのも面倒なので、枕に巻いてあったタオルを受け皿にして、落下地点に重ならないように体を横に向けた。
*
夢と現実の境界線を綱渡りするように歩いていると、携帯の通知が聞こえたので、それをきっかけに起きることにした。
外はまだ明るいようだったが、光の中に寂しさを見つけたので、今の時間が昼と夜の間だとわかった。
朝から何も食べていないので、体を起こせなかった。しかし、このまま待っていたら餓死してしまうので、冷蔵庫まで這って向かった。
なんとかたどり着いたものの、冷凍庫を開けるのが精一杯だった。
電子レンジは冷蔵庫の上にある。
「罪業深き人間なれども、我はかように思ふ。いざさらば同じく生を替へてこの本懐を達せん、と」
『あっ、そういえば』
本気で死を覚悟しかけたが、まだ中に常温ですぐに解凍されるドーナツがあったのを思い出し、中を漁って取り出した。
食べ頃まで三十分のようなので、手で持って冷蔵庫にもたれたまま待つことにした。
何度も手で柔らかさを確認していたら食べられそうになったので、時間に関係なく食べてしまった。
ひとまず飢餓を脱すると、雨漏りのことが頭に浮かんだ。バケツを買わなけばならない。大学の生協に売っていたはずだ。
かろうじて外に出られる格好に着替え、財布と携帯を持って外に出た。
外は、既に雨が上がっていた。それでもせっかく外に出たので、蓮の池を経由して学校へ行くことにした。
雨上がりの空気を鼻から吸い込み、濡れた地面を歩いた。
神社に続いていそうな階段も、滑らないように気をつけながら歩いた。
階段を上がり切って分かれ道の方を見ると、化学の教授らしき人が反対の方へ歩いて行くのが見えた。
『危なかった』
体力と気力があったら鉢合わせしていた。
濡れたレンガの道を転ばないように足元を見ながら池まで歩いた。
近くまで歩いて池の真ん中辺りを見ると、死んだままの蓮たちがいた。
『何を期待』していたのだ。毎年この時期はこうではないか。
理不尽な喪失感を抱きながら池を眺めていると、視界の上の方に白いレーススカートの裾のようなものが見えた。
一塵の下心もなく視線を上に向けると、スカートではなく、雲の隙間から光の線がいくつも出ているのが見えた。
薄明光線だった。チンダル現象の一つだ。これを見るために化学の教授は来ていたのか。
巷では神々しいともてはやされているが、私には苦しみという埃まみれの世界に光が差しているだけにしか見えない。
……。
まさか、幸福への道を示すために、苦しみをばら撒いているというのか。
なんというひねくれ者だ。
天邪鬼の証拠を写真に収めるために携帯の電源を入れたら、JUNさんから生存確認の合言葉が送られていた。
「?」
「大洋よりも、空よりも壮大な心実の目的を見つけました」
「!」
写真を撮って、天邪鬼さんと反対向きに歩き始めた。
自分の前に、薄く影ができていた。
そしてまたしても気恥ずかしい愛に気付いてしまった。
夕日は、孤独をフラッシュバックさせるためではなく、暗闇で自分の存在が不確かになる夜に向けて、自分という存在を思い出させるために影を見せているようだ。
どうしてこう揃いも揃ってひねくれ者ばかりなのか。素直にそう言えばいいのに。
茂みの影から、季節外れの蛙の鳴き声が聞こえたような気がした。
『そうだ。ついでにぬいぐるみ用の電池も買っていこう』
早く帰って伝えなければ。
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