第2話(まとめて読みたい方用)

 大学が始まり、七週目の日曜日となった。報酬は振り込まれ、口座残高は潤ったが、感情が潤うことはなかった。


 薄々そんな気はしていたが、空洞が埋まることもなかった。私の中で、お金に目が眩むのは私だけだったようだ。もう少し庶民的になっても良いのではないでしょうか。

 結果的に、悪魔と契約した者の末路みたいな感じになり、少しナーバスになった。それを原因にして良いのか定かではないが、入学式の前にスーパーのアルバイトを始めたものの全然慣れることができなかった。


 もしかすると、少しずつ移植の反動が出始めているのかもしれない。


 入学式も色々と煩わしく感じ、出席を辞退した。行っても大して変わらないだろうと高を括っていたのだが、すぐにそれが過ちであると気付かされた。


 授業が始まる時には既に、友達の輪がたくさんできていたのだ。


 初めて教室に入ってそれを認識した時、戦う前から勝負は決しているという言葉が脳裏に浮かんだ。学生生活は戦争だったのだ。そもそも戦いとすら認識していなかった者を孫子はどう思うだろうか。


 式次第を見ても、誰かの話と合唱ぐらいしかなかったはずなのに。合唱がそれほどまでに盛り上がったのだろうか。

 今更後悔しても仕方ないのだが、未だに時々孫子に指を差されて爆笑される夢を見る。


 この大学では、私のような戦う前に負けてしまった者のための救済措置がある。


 「MOLE」というSNSのアプリだ。これは所属している学生限定で、学籍番号とセットでアカウントが一つ支給される。


 このアプリは少し変わっている。一対一のダイレクトメッセージしか出来ないのに加え、会話のやり取りが他の誰でも閲覧可能になっているのだ。そのため、たとえ友達作りに失敗しても、わからない事を調べたり聞いたりして解決できる。ちなみに、私も現時点で既に何度も命を救われている。

 アカウントから個人が特定できないようになっている上に、個人の特定につながる具体的な会話や直接会う約束に使うのも禁じられているので、友達を作るのは困難なのだが、一つだけ不思議な繋がりが生まれた。


 それは、私が色々質問をしている時に、誤って移植の件を口走ってしまったために起こった。


 移植について興味を持って質問してきた人が現れたのだ。それは「JUN」さんという方で、この方はどうしても心の中に空虚な何かがあるらしく、このまま社会人になるのが不安で悩んでいるようだった。個人がわかることは話せないので、可能な範囲で意見交換をしている。


 このような相手からの連絡で始まった。


「お忙しいところ突然失礼します!

 感情移植のドナーをされたと知り、詳しくお伺いしたくご連絡しました!

 移植の影響など、もう少しお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「ご連絡ありがとうございます。感情が減った影響としては、現時点で大きく分けて三つあるように思います。

 一つ目は、思いの後ろ盾が減った事です。五感から生じた思いだけでなく、考えた事、更には自分が存在しているという確信に至るまで、よく考えてみると根拠が不十分なわけですが、その穴を感情が埋めているのかもしれません。そのため、この仮説さえ自信がありません。

 二つ目は、ネガティブな感情が見えにくくなり、その代わりに心の痛みとして感じるようになった事です。精神をゴリラのいる檻だとすると、暴れているゴリラが半透明になり、攻撃を受けた檻の傷の感覚が強くなった、というような感じでしょうか。

 三つ目は、以前から感じていた心の中の空洞のような部分をよりはっきり認識するようになった事です。私は昔から、喜怒哀楽いかなる感情の時でも、心の中に空虚な、空洞のような何かがある感覚を抱いていました。そこで、移植を決めたきっかけの一つでもあるのですが、初めは感情が減れば空洞も小さくなるのではないかと思っていました。しかしながら当てが外れてしまい、逆に存在感が増す結果となりました。

 ちなみに、いくらか給付金が貰えたのですが、お金でゴリラの機嫌は取れても、色が濃くなるわけでもなく、空洞に至っては風穴の前の紙切れに過ぎないようです。せめて感情を受け取った方が回復されていれば良いのですが。」

「ご丁寧にありがとうございます!

 じつは私も、心の中に、空洞というか、空虚な何かの存在をいつも感じていて、このまま社会人になって生きていくと思うと不安で、どうにかできないものかと悩んでいるところで……。

 ところで、ゴリラをキングコングにまで育てることで、空洞を破壊するというような作戦は上手くいくと思いますか?」

「そうでしたか。

 私のゴリラは現在半透明なので、中々キングコングまで育つ想像ができないのですが、敵はゴジラより強敵かもしれません。」

「ご意見ありがとうございます、一度挑戦してみます!

 ゴリラが元に戻ることを祈っております!」

「お気遣いありがとうございます。

 検討を祈ります。」


 今のところ、これ以降の返事はない。


 医師が言っていた通り、空洞のような何かは誰しも抱えているのかもしれない。それは感情によって征服されるものなのだろうか。そんな光景を想像することができない。


 何はともあれ、大学生活のスタートダッシュには失敗してしまった。感情が戻らずエネルギー不足だったのもあるが、今考えると心の空洞が足手まといになっていたようにも思う。


 今まで上手く気持ちを切り替えられなかったのは、奴の仕業だったようだ。いかなる場面においても、どれだけ自分に鞭を打っても、ついて来られない自分がいた。


 だとすれば、自分を引きずって歩くことに疲れ始めたのかもしれない。


 敗者なりに、一応は授業で同じグループだった子と知り合いにはなったが、中途半端に面識だけあるのは赤の他人でいるより虚しい。なんとか表面だけでも友人であるように努めるために、かえって余計に他人であることが露見してしまう。外堀を少しずつ埋めていくことで、いつかは内側まで辿り着けるだろうか。


 明日は化学の授業で当てられる番だ。「MOLE」を見たら、教授は間違える人間に対して冷酷なようだ。今まで当てられた学生は全員答えられていた。


 失敗出来ないという空気が緊張の風船をパンパンに膨らませていた。


 受験のような長期的な緊張なら、自分でも気付かないほど緩やかに蝕まれていくが、短期的な緊張は激しくて変化がわかりやすい。そのため、体感的にはこういった緊張の方が大きく見える。


 それでも、感情があまり元に戻っていないために、飲み込まれずに済んでいるようだ。いつも無反応な空洞が、逆に緊張から自分を守る最後の砦になっている。

 狭い空洞の中で、大学始まって以来の予習をすることにした。頭に入るかわからないが、付け焼き刃でも丸腰よりはましだろう。切れない刀で華麗なるホームランをお見舞いしてやろう。


         *


 当日の朝が来た。寝転んだまま頭上のカーテンを開けると、朝日が爽やかな顔でこちらを見下ろしていた。目を覚ますつもりで開けたが、あまりに明朗快活な姿に心が閉ざされてしまった。あと五分は寝られそうなので、枕に突っ伏して目を閉じた。


         *


 後悔した。飲み干したペットボトルの振り絞った一滴を口に含んだ感じだ。欲望を増進させる前菜にしかならなかった。不安など種々の感情を眠気が包み込んでいる。そう思うと、自分の心があんまんに見えてきた。


 うつ伏せの体勢、正座して丸まった体勢、スフィンクスの体勢、掛け布団にくるまった十二単の体勢、四つの段階を経てなんとか羽化することができた。


 まず口をゆすいでから沸かしてあった浄水を飲んだ。感情の薄まった人間には水が合うらしい。味があると疲れてしまう。


 朝食はスティックパン二本だ。量で言えば一本でも良いのだが、六本入りなので消費期限までに食べ切れない。味はプレーンで、バターの香りと小麦の甘みが広がるのみだ。心にとっては内側から湧き起こるようなものが好ましいらしい。

 逃げる人を足場を食らいながら追い詰める怪獣になったつもりで、二本とも葬った。このパンには袋を止める凱旋門が付いていないため、開けたまま冷蔵庫に置いた。


 朝は電気を点けないので、カーテンから差し込む光で埃が姿を現す。今日の授業で扱う現象だ。引っ越してから毎日起きていたことだが、昨日の予習をするまであまり意識していなかった。


 埃の像がうっすら教授に見えたので、それを振り払って洗面台に行った。


 いつも通り眉毛を整えようとしたら、シェーバーの電池が切れて止まってしまった。嫌な事がある日は、こういう小さな災厄まで蝿のように群がってくる。機械的に電池を取り替えると、最大限の力が思いの外強くて驚いてしまった。少しずつの変化には、人間は中々気付けないのかもしれない。


 顔を洗って服を着替え、全身の身だしなみを整え、水筒に水を入れたら、いよいよ戦地に飛び立つ瞬間がやってくる。装備を確認して出発だ。


 いつもなら不安と緊張に飲まれていただろうが、やはり移植によって緩和されている。今までなら、昨日の予習から出したままだったテキストに気付くことはできなかっただろう。


 数秒前の私は何をしに行くつもりだったのだろう。誰が見ているというわけではないが、何食わぬ顔をしてバックパックに詰め込んだ。今度こそ出発だ。


 戸締りをしっかり確認して錆びた階段をゆっくり降りた。大学は歩いて十分もかからない距離にある。


 アパートの敷地から出て広い道路まで行くと、向かい側の右手にコンビニが現れる。

 全国チェーンだが、田舎の雰囲気に完全に溶け込んでいる。夜十時頃には閉店するし、全体的に都会特有の光沢がない。いちいち確認はしないが、触ったらざらざらしていそうな気がする。

 そういった生きている痕跡があるためか、変な愛着が生まれている。

 また、立ち位置が学校と反対側なので、帰り道の時は余計に二十歩程度寄り道しなければならない。少しの手間も、愛着のスパイスになっているのかもしれない。ただ、行きの時は単純に憎たらしい。

 感情がもう少し戻っていれば友達になれるのかもしれないが、少なくとも今は落ち着いた大人の付き合いになっている。


 普段なら昼食は食堂のランチを食べるが、念のために非常食を買っておくことにした。


 田舎だからなのか、陳列棚の顔触れが変わることはほとんどない。海苔が完全に湿っている昆布と鮭のおにぎりに、何の変哲もないメロンパンを選んだ。これといって目を引くことはないが、いないとしっくり来ないという、潜在的カリスマ性を有する方々だ。


 外部からの刺激に釣り合うものが自分の内側で作り出せないからだろう、こういった存在の方を好むようになった。

 外部に激しいものがあると、孤独や空虚さが際立ってしまう。鈍感になったのか、敏感になり過ぎて麻痺したのか、その両方か。いずれにせよ、あまり認識したくないことだ。


 コンビニを出て、伏魔殿の方向へ歩き始めると、魔のオーラとは無縁な田舎の空気に奇妙さを覚えた。嵐の前の静けさという奴だろうか。ゲームならば最終セーブポイントになるだろう。


 駐車場は、黄色と黒色のバーや駐車券を発券する機械もないし、地面は自由奔放な小石達の隙間に、独立独歩な雑草がまばらに生えている。住宅は、威圧感のない温和な空気を醸し出している。

 田舎と言っても、田畑があるわけでもないし、人の住めない木造建築があるわけでもないから、全体的に見たら都会なのかもしれない。


 以前住んでいた街とのギャップがそうさせているのだろう。相対的生物、ホモ・ランキングたる所以である。


 一方で、そんな生き物の内部に心の空洞のような絶対的なものの空気を放つ何かがいる。


 普通なら不安と緊張で失敗する未来を何度も思い描いているはずの時に、こんなどうでもいい抽象的なことを考えている。


 不安を紛らわせるために無意識にそうしているとも言えるが、恐怖の世界に落ちそうになるのを引き止められているような感じがある。


 食べ物やお金に反応しない、恐怖にも反応しない、一体あなたは何者なのだ。


 コンビニから道に沿って三分ほど歩いて、直交する道路まで出ると、キャンパスの入り口が見えてくる。道路を渡り、質素な入り口に足を踏み入れた。

 この入り口は正門ではなくマイナーな裏門なので、授業のある棟まで更に三分ほど歩かなければならない。

 ゲームで言うと、いくら直前のセーブポイントで万全の準備を整えようが、無傷でボスと対面させてくれない、非常に厄介な存在だ。

 これからの三分は先程の三分とは訳が違う。ここは敵の本拠地内だ。毒や溶岩、青春の一ページを刻んでいる学生達、お互いに譲り合ってぶつかりそうになる自転車など、骨太のギミックが盛りだくさんなのだ。一歩一歩、慎重に進まなければならない。

 外傷というよりは、こうやって神経質になるせいで体力が失われているのだろう。今回も客観的に見れば何も起こっていない。


 キャンパスと建物内は、質の異なる迷宮だ。キャンパスは地形を生かした迷宮であり、建物内は魔術的迷宮だ。一度建物に入ると、同じ光景ばかりが広がる。違う階に行っても同じ間取り、違う部屋に入っても同じレイアウト、マッスルメモリーの天敵であろう。コンピューターメモリーを駆使してなんとか到着できた。


 例の講義は二限目だ。一限目は、一般教養科目の倫理である。この授業は教授に銃口を向けられることはないが、前哨戦としては相手にとって過剰があり過ぎる。


 授業開始の五分前頃に、教授がゆっくりと静かにやってきた。

 この教授への第一印象は、どこにでもいる優しいご老人のような、柔らかくて、こだわりがない事にすらこだわらなそう、という感じだった。しかし、どこにでもいるとは言ったものの、こういった方はどこにでもはいない。一回でもこの教授の話を聞くと、その理由がなんとなくわかる。


「それでは……ええと、七回目の、講義を始めます。

 まず、第一回で話した通り、この講義は、一般教養科目なので、そこまでアカデミックな霧が、深い所までは行きません。大学生という時期が、青年期の回で出てきた、アイデンティティ確立の時期であり、ゆっくりと自分を見つめる、進路について考える、事の出来る最後の時期であるため、そのような思索に、少しでも役立つような、形の授業を行います。


 前回までは普通の、知識のための授業でした。


 一限目という事もあり、眠っている学生さんもいましたね。まあ安心してください。授業態度は成績に入らないので、名前を記録する事はありません。ただ、私の心の前科者リストに、一生刻まれるだけです。


 後半からは、その知識を生きる知恵に、生まれ変わらせる授業になります。第一回の時からこう言った方が、重要性が伝わりやすかったですかね。


 今さっき思いつきました。


 すみません、新しい体制に変わった最初の年なので、こういう事もあります。まあこれも人生の勉強という事に、しておいてください。


 というわけで、今回からは、前半で学んだ倫理の歴史や、思想から、人生について学び取っていきましょう。


まず、皆さんはどのようにして、この大学に進学すると、決断されたでしょうか。

経済的な事情、好奇心、理想の学生生活が送れそうか、あるいは学力的な事情など、様々な理由が絡み合っているのでしょう。


 その全てに共通して言える事は、過去と未来を繋ぐ線と、重なるように決断、行動しているという事です。

 全てと言いましたが、もしかするとこの中に、全力で勉強して合格したのに、入学するかどうかを、コインを投げて決めた人も、いるのかもしれません。その人は運がいい、私と出会える未来を引き当てたのだから。まあいないでしょうが。


 過去と未来と言っても、現在から一、二年の範囲よりは、十年、二十年の方が良いでしょう。人生設計などはあるに越した事はないですからね。音楽でも、前後の音符だけを見るよりは、何小節分か見据えている方が、良い演奏が出来ます。


 そうすると順当に行けば、十年、二十年よりは、永劫の視点である方が良い事になってしまいますね。


 困りました。


 私達は、生まれる前の記憶はないし、死んだ後の事などわかりません。また、それを知る技術などもありません。


 そうなると、誰かの考えを学んだり、自分で考えたりする必要が出てきますね。


 というわけで、今回は未知のベールに包まれた、生と死について、色々な人達の考えを、見ていきましょう。


 まず、現代の私達の社会では、唯物的な考えが主流ですから、生と死は、有と無で捉えられています。有る時が生であり、無い時が死である、という事ですね。そのため、生と死によって、連続性が切られてしまいます。


 次に、西洋にいきましょう。有名なのは神に創造されて生まれ、死んで神の世界に帰るものですね。授業で出てきたものでは、プラトンの現象界とイデア界、アリストテレスの現実態と可能態、などでした。こちらは逆に、連続性は維持される可能性が出てきました。


 東洋ではどうでしょう。因果と縁によって、仮と空の状態を現すとされました。生物では、仮が生で、空が死になりますね。因果ですから、こちらははっきりと連続性を意識しています。


 ついでに科学でも見ていきましょうか。例えば運動エネルギーの場合、速度の二乗と質量の積ですから、速度があれば公式に則ります。止まっている時は、速度ゼロとして公式通りとも言えますが、止まっている状態だけで公式を導き出す事は出来ませんし、本領発揮ではないですね。

 という事は、人間が確認出来る時が生で、確認出来ず、何かしらの法則としてだけ存在する時、言い換えれば定義外や条件外の時が、死になるかもしれません。

 ニュートンも、お皿に乗ったアップルパイから、万有引力を見つけたわけではありませんし、ケプラーも、天体を見ずに法則を導き出してはいないでしょう。

 こちらは、人間をただの物質に過ぎないと見れば、連続性はありませんが、個々人を構成する法則があるとすれば、連続性がある事になりますね。


 こうやって見てみると、生と死を超えた、それらを繋ぐ何かの存在が、予感されますね。そして、その存在無くして、過去、現在、未来と、連続的に捉えられない事がわかります。


 じゃあ、その何かについても、見ていきましょうか。


 何かと言っても、現代では、究極の真理という呼び方が適切でしょう。その方が、イメージしやすいですね。科学が目指しているものもそれですし。


 私達の授業では、どんな風に出てきたか、思い出してみましょう。


 まず西洋では、神として、人間を離れた絶対者として、登場しました。その後、ヘーゲルが絶対精神と名付けました。そして、十九世紀にはニーチェが、神の死を宣言し、ニヒリズムの象徴として永劫回帰としました。無意味に繰り返すという事です。私は今までもこれからも、永遠に授業で居眠りをされてしまうという事ですよ……。永遠なんだから、たまには成績に入れようかしら。


冗談です。


 次に東洋にいきましょう。西洋の神と対になるものとしては、妙法でしょう。こちらは、我々を離れた絶対者と言うよりは、遍く存在する法として捉えていますね。近代になると、西田幾多郎が絶対無の場所として、哲学に登場させました。


 色々と登場してきましたが、その究極の真理を何と捉えるかで、人生の流れを認識出来そうですね。


 しかし、どれも科学的にはまだ証明されていません。いつどんな風に証明されるのかもわかりません。それどころか、証明出来るのかどうかさえわかりません。

 そのため私達は、ただ信じる事しか出来ないのです。


 ですが、これだけは言っておきましょう。意識的であれ無意識的であれ、心の奥底で、それをどう信じるかによって、どんな人間になり、どんな人生を歩むかが決まると。


 それは、人間の浅知恵で太刀打ち出来るようなものではなく、小手先の誤魔化しで、だまくらかせるものでもありません。宇宙の五線譜に描かれた旋律から、上手く立ち回ろうという要領の良さで、逃れられるとは思わないで下さいね。人生にとって、人生を甘く見ている人間ほど、転がしやすいものはありません。


 まあだからと言って、今すぐに決める必要はありませんし、そんな事は出来ないでしょう。


 究極の真理をはっきりと意識するのは、心の底から苦しんでいる時だと思います。


 そして、八方塞がりになってどうしようもなくなり、自分の思い描く真理に、命を預けるしかなくなった時、初めて心の底から信じられるようになるわけです。またその時こそ、第三の誕生の瞬間であると、言えるかもしれません。


 という事で、皆さんには大いに学び、思索し、自分の心と向き合い、磨き続ける事を願います。


 今日の授業で人生の必勝法を聞けると思った方にとっては、物足りない結論になってしまったかもしれません。しかし、残念ながらそんなものはないのです。

 でも、この授業の必勝法ならありますよ。教えてあげませんけど」


 チャイムが鳴る少し前に授業は終了した。


 授業の内容は、前半が教授の話で、後半が質疑応答やディスカッションという構成であった。

 質疑応答では、身近な例えを用いて、抽象的な話題を現実的に感じさせていた。また、論破して力で押さえつけようとする人には、掴めないスライムのように、のらりくらりと戯れていた。


 全体を通して、昨日の予習を吹き飛ばすほどに重厚な内容だった。飛んで行った知識が、窓から差し込む光を散乱させて輝いている気がする。


 私にとっての真理とは、一体何なのだろう。それよりも、心の前科者リストに載っている者は、どうなってしまうのだろうか。


         *


 次の教室に移動している時にチャイムが鳴った。私は一刻も早く辿り着かなければならないのだ。

 先ほどの教室から三つ上の階だったため、まもなく到着できた。この授業は必修なので、比較的お馴染みの顔ぶれだ、向こうからそう思われてはいないだろうが。孤独なほど、認識の範囲は広くなるのだ。


 私は、一番廊下側の列の、中央の席に座った。そして、急いでリュックからテキストを取り出し、最終確認を行った。


 この教室にいる人は、皆同じ学科で、一応はクラスメイトなわけだが、お世辞にも親しみのある間柄とは言えない。そのため、失敗を愛嬌だと捉えてくれはしない。(何かしら性格に異常がありそう)や、良くて(頼りなさそう)と思われてしまう。

結局のところ、失敗した所でゼロがマイナスになるだけなのだが、そんな勘定で、孤立するかもしれないという恐怖に打ち勝つことはできない。


 静かに大慌てしながらテキストの表面を目で優しく撫でた。文字の内側に入っていくことはできなかった。


 しかし、完全なるパニックではなかった。心の空洞はこんな時でも平穏なのだ。

 感情は慌てているというのに、ここまで落ち着かれると、もはや自分とは別のもののように感じてしまう。


 テキストを開いて二、三分経った頃、「おはよう〜」と、すぐ後ろから声が聞こえた。数少ない知り合いの一人の青井さんだ。

 横を通り過ぎ、目の前の席に座ろうとしたタイミングで、私も「おはよう」と静かに言った。私の前に、同じ友達グループが固まって座っていたようだ。


「社会学の中間レポート終わった?」


 椅子に横向きに座って話しかけてくれた。


「やってしまった。忘れてまだやってないや。まだ間に合うかな?」

「紛らわしいな〜。う〜ん、まだギリギリ間に合うんじゃないかな」

「なら良かったよ。もしかして、もう終わってるの?」

「あとちょっとかな〜」

「この私より進んでるなんて偉いよ」

「まあね〜。徹夜だけはほんとに出来ないから〜」


 そう言うと、友達の輪の中に帰っていった。

 どうしても課題やレポート以上の話ができない。ゲームのシナリオ風に、私が課題を終えれば次の会話に進めるのかと思ったこともあったが、どうやらそういうわけでもないようだった。


 既に居場所があるから、私は時々つまみ食いする程度の間柄で十分だということだろうか。だとすると仲良くなるのは一気に困難になる。戦においても、安全が確保出来て、何一つなびかなくなってしまった相手には、いくら攻めても勝つのは難しい。孫子もうなずいているはずだ。


 一体どうして平凡な関わりにさえ、駆け引きが必要になってしまったのか。


 もし、駆け引きが必要なのは私だけで、それを周りに投影しているのだとしたら、鏡に映る自分に驚く動物と同じだという事になる。そうなるとクラスメイトは、そんなにもキュートな生き物を見向きもしていないことになる。それはおかしい。


 やはり駆け引きが必要なのだ。そして、私の陣営は現在、駆け引きに全く関わろうとしない心の空洞が主力となっている。それは、他人が仕掛けてくる駆け引きなど歯牙にも掛けないが、私が駆け引きしようとしても、一切手を貸してくれない。


 つまり、私は駆け引きとは別の戦い方をしなければならない。そしてそれが何かは、今のところ全くわからない。


 脳内作戦会議が終わり、予習に戻ってから数分経った頃に、教室の前の扉から一人の学生が入ってきた。一軍グループの中でも中心的存在の人だ。「アライ」さんと言うらしい。


 この方はクラスの中でも一際異彩を放っている。それは何も、目立つ格好をしているとか、賑やかに振る舞っているとかいうわけではない。むしろ無頓着で、どちらかといえば穏やかな方だ。

 しかし、それでも際立っている。この方が現れると、教室は水を得た魚のように、自然と笑い声が生まれ、明るい雰囲気になるのだ。何の話をしているのかは知らないが、そういう空気を生み出せる人のようだ。


 このような人の心の中はどうなっているのだろうか。笑顔の源泉と空洞が、仲良く同居しているとでも言うのだろうか。


 気が付くと、視線が空中でホバリングしていた。私は、すべき事以外になら頭が働くのだ。


 セルフハンディキャッピングの準備が整ったところで、開戦の法螺貝が鳴った。既に教授は教壇に陣取っていた。私達から見て、教卓の右側にパソコンを置き、パソコンが体の前に来る位置に座っている。この教授は右利きなので、マウスが使える範囲がかなり広い。マウス自由主義者というわけだ。


「それでは講義を始める。今日はチンダル現象について教える。今日答える学生は……学籍番号が1100番の学生だ。

 今まで生きてきた中で、暗い部屋に日光が差し込み、ほこりによって光の道ができているのを一度は見た事があるはずだ。それが、日常的に見られるチンダル現象の一つだ。

 そしてこれを科学的に捉えれば、チンダル現象とは、分散系に光を通した際、光が散乱される事によってその道筋が見える現象と説明できる。

では、分散系とは何か」

「一ナノメートルから千ナノメートルの大きさの粒子が、気体、液体あるいは固体に浮遊または懸濁している状態のものです」

「という事はつまり、光を散乱さ     好調な出だしだ。頻繁には聞いて来

せない小さな物質の中に、光を      ないから暫くは安全だろう。この授

散乱させる比較的大きな物質が     業は、初めに前提となる知識を提示

散らばって存在しているという事     してから論理的に説明していく形式

である。ここで、諸君にして欲し      ではない。初めに結論から注目して

くない事が、分散質しか意識しな     わからない事が出てくる度に、その

い事である。例えば、この教室には    解説をする、という形態だ。推理系

全国から学生が集まっているわけ    の作品の、刑事と視聴者が同じ情報

だが、ここで回転焼きの呼び方を     量で始まる正統派の進め方という

聞いていけば色々な呼び方が出て     わけだ。初めに犯人と犯行の過程が

くるだろう。その時、自分と同じ     わかるような進め方だと、予習が必

呼び方の人だけ注目するのはやめ    須になってしまう。大学で学ぶ内容

てもらいたい、という事だ。全体観    を予習で理解するのは難しいだろう

というものを失ってはならない。話    というのと、そもそも予習なんてし

を戻すが、分散系の中でも、百ナノ以下のものを特に何と言うか」

「コロンボです」

「すまない、うまく聞き取れなかった。もう一度言ってくれ」

「……コロイドです……」


 起こってはならない事が起こってしまった。緊張で変に頭が回り、余計な事を考えてしまっていた。緊張が恥ずかしさに変わった。最も大きな危険は勝ったと思い込んだ瞬間にあることを忘れていた。


 その後は授業も滞りなく進み、質問にもなんとか全て答えられた。恥で頭が真っ白になるところを、心の空洞を拠り所に乗り越えていた。無反応なくせに、未だに新しい顔を見せるとは。


 授業が終わり、他の学生が少しずつ教室を出始めたのを見計らって私も教室を出た。周りを見ても、何も起こらなかったようにいつも通りだった。他の学生にとっては対岸の火事に過ぎないが、私にとっては我が家の火事だ。


 恥ずかしさが鎮火されると、心の中には喪失感漂う、荒涼たる焼け野原が広がっていた。その風景には空洞が実によく似合っていた。


         *


 昼食の時間が始まったが、人の沢山いる食堂には行く気になれなかった。念の為に買っておいた非常食が役に立つとは思わなかった。いや、非常食を買ったために、必要な状況になってしまったとも言えないだろうか。


 キャンパスの近くにある、小さな蓮の池に向かった。今は花が咲く時期ではない上に、正門と真反対の方向にあるので、ほとんど人が寄りつかない。


孤独な人間にとっては、ベストシーズンでない時もベストシーズンである。パフォーマンス用の装いではないからこそ、心と心の対話ができる。大学の近くに住む学生は、家を溜まり場にされやすいと言うが、ここも似たようなものだろう。


 側に東屋があったが、全ての角に蜘蛛の巣が張られていたので、近くのシンプルなベンチに座った。私は三半規管が弱いので、たとえ蜘蛛に噛まれたとしてもヒーローにはなれない。


 まず、鮭のおにぎりを食べた。感情が弱まったことによって味をはっきり認識するようになった。自己主張をあまりしない味も、鮮明に見える気がする。しかし逆に、意識的に美味しいと思わなければならないのが、面倒になってきた。


 他の外界から得られる情報についても同様だ。リアルタイムでその場にいるという体験の感覚で言えば、どこに居ても、何もない部屋に居るのとあまり変わらない気がする。


 そのせいか、考える事が増えたように思う。そして考えるということは主観から離れるということでもあり、私が私から離れていくのと、あまり変わらない。


 この体に戻ってくる方法を忘れないようにしなければならない。


 続いて昆布味の方も口に運んだ。こちらは初めから味が濃いので、凝視しなくてもわかる。


 最後の一口を飲み込んだのと同時に、先ほどの嫌な記憶が逆流してきた。思い返してみると、完全に、一人で盛り上がって一人で自滅した、物静かなピエロだった。難しい問いで間違えるならまだしも、簡単な問いで間違えるなんて、不真面目なのが丸わかりだ。


 そもそも、気付いた時には既に手遅れだったが、あの授業は特に難しい質問なんかされない授業だ。

 授業の形態からしても、あの教授はあまり高度な知識を求めてはいない。せいぜい高校卒業レベルに毛が生えた程度だろう。だから答えられない学生には厳しいのだ。

 胡散臭い錬金術で情を知性に変えたような人間だと思っていたが、色々な学生の事情を考慮しての事なら、存外学生思いなのかもしれない。


 しかし、これほどまでに空洞にお世話になるとは思いもしなかった。


 緊張している時に失敗すると、雪道でスリップした車のように、強制的に止められるまで止まれない。そんな危機的状況において、人ならざる力によって軌道修正されたように感じた。


 自分の中の一部ではあるが、自分とは全く別基準で動いている。重症は負ったものの命は救われたので、今日は私の好物の焼きプリンをお供えした方が良さそうだ。

雲が太陽を隠し始め、明るさの中に液晶画面のノイズのような不穏さが募り始めた。メロンパンはアルバイトが始まる前に食べることにし、少し早いが次の授業の教室に向かった。


         *


 三限目の教室は、一限目と二限目の教室の狭間にあった。幾つかのグループが既に集まっており、反発し合う磁石のように、お互いのグループ単位のパーソナルスペースを侵さないように、絶妙に距離を取り合っていた。


私もできる限りその均衡を崩さないように席を選んだ。先客達は教室の後ろや窓側に集まっていたので、入り口側の後ろ寄りの位置に落ち着いた。


 三限目の授業は、今年から全学部で必修科目となった[省治学]という科目である。

現代はあらゆる分野で行き詰まりを迎えている。この大学では、その原因を、人間の外側からしか解決しようとしてこなかった点にあると見たようだ。自分の内側からより良くしていくということが困難を極めるために、今までは見て見ぬふりしてきたが、これからはそれをしなければならない時代に入ったらしい。


 そこで新たに、自己を顧みることに重点を置いて研究するプロジェクトを立ち上げた。キャッチフレーズとして、ゲーテの言葉『いかなる政府が最上の政府であるか。我々自身を治めることを教える政府がそれだ。』を借りている。


 つまり、内なるフロンティアに本格的に足を踏み入れたわけだ。そしてこれこそが、私がこの大学に進学を決めた五番目くらいの理由である。


 本を読みながら待っていると、少しずつ学生が集まり始めた。どのグループを見ても、そこに自分が馴染んでいる想像が出来ない。今の状況はなるべくしてなっているのかもしれない。


 いつも通り笑顔の化身アライ殿も、着地の瞬間から笑顔を発生させている。


 授業開始が近づく時、少し騒がしい教室に、音も立てず講師が入ってきた。年齢はおそらく壮年期ぐらいで、偽りでなさそうな勤勉さをまとっている。


 ほどなくしてチャイムが鳴った。鐘の知らせるものが授業開始の合図だけなのが、これほどありがたいことだったとは。


 「それでは七回目の講義を始めます。前回までは、人間がよくする振る舞いや、考え方の癖、性分といったような、良くも悪くも人間の人間らしい一面を学んできました。


 様々な心理学用語や、先人達が遺してきた人間への考察が出てきましたが、根本的には苦を避け楽に流れようとする本能の成し得る技である、という事でした。


 そして私達が最終的に達成したいのは、自身の内なる苦に向き合えるようになる事です。


 そこで、これから学んでいくのは、苦と向き合うとはどういう事か、についてです。


 まず、誤解してもらいたくないのが、楽を排して苦だけを追い求めようという苦行を強いているのではないという事です。そこまで行くとあまり人道的とは言えませんし、人間の弱さや醜さを完全否定する、ある意味楽であるとも考えられます。


 私達が目指すのは、もう少し詳しく言えば、向き合うべき苦に向き合えるようになるという事です。


 逆に、向き合わなくて良い苦まで背負う事はしてはいけないと言っても良いでしょう。そんな事をしていたら人間は壊れてしまいます。


 私は少し肥満気味ですが、もしドーナツを断つような事をしたら、しなかった時より早く死ぬでしょう。というのも、私の心と体はドーナツの鎖でかろうじて繋がっているので、ドーナツが無くなれば、たちまちただの肉塊となってしまうのです。より善く生きるためにドーナツ欠乏症で亡くなるというのは、本末転倒でしょう。


 そういうわけで、向き合うべき苦を見定める必要が出てきました。つい目を背けてしまう事なら何でも良い、というわけにはいかないのです。


 では向き合うべき苦である要件とは何か。


 それは、自分を自分たらしめる苦であるかどうか、この一点だけです。


 嬉しい時も悲しい時も、いついかなる時でも手放せない苦。あらゆる言動、思考、感じ方を決定している、自分の中の公理のような存在。それこそが向き合うべき苦であるという事です。


 どうしてそれに向き合うべきなのか。


 それは人間が幸福になるために生きているからです。具体的にどういったものが幸福と言えるかは人それぞれでしょうが、ただ表面的にいい気分である状態よりも、幸福が自身の命の底まで貫いている方が正しいのは疑う余地もないでしょう。


 また、自分そのものと言えるような苦であるだけに、決して逃げ切る事が出来ません。高い家具に囲まれた部屋に居ようと、放蕩三昧な生活をしようと、地下シェルターに逃げ込もうと、もしかすると死をもってしても、逃れる事は出来ません。


 さらに、逃げれば逃げるほど、その苦しみは大きくなります。なので、手を付けられなくなる前に、少しずつ向き合わなければなりません。要は、虫歯になったら早く歯医者に行かなければならない、という事です。ドーナツが噛めなくなってはいけませんからね。


そして次に、苦と向き合うとどうなるかについて話していきましょう。


 先程も話した通り、自分が自分であると確定させる苦であるだけに、出来る事と言ったら、向き合うか逃げるかしかありません。


 つまり、どうなったら幸せか、どういう状態が幸せかというイメージを具体化出来なくなるのです。


 そうなると、色々な問いが生まれてしまいます。どうして私は生きているのか、生きる事にどんな意味があるのか、どうしてドーナツのある時代に生まれ合わせたのか、と。そして最終的には、この世の理がどういったものかという問いにぶつかります。


それら全ての問いに共通して言える事は、何も確実な証明がなされていないという事です。


そうなってしまうと、自分で学んで、考えて、信じるしかありません。


 ここから先は、私自身も未踏のステージで、私の師匠の言葉を借りる事になりますが、『悩み抜いた末に、何らかの姿をした(この世の理は苦と向き合い続ける事で幸福になっていくものだ)という希望が自分の内から現れる。そして、その希望に命を賭ける事になる。そうなると苦は愛に変わる』のだそうです。加えて、そうなると、その希望を基に思考が再形成されるそうです。


 また私達は、ソクラテスの善く生きる事、カントの自律、デカルトの高邁の精神、ニーチェの超人、福沢諭吉の独立自尊などは、このように生きる人々の生き方を指すのではないかと考えています。


 という事で、これからの授業は、苦と向き合うために必要な、ものの考え方、様々な思想、信仰について、ユーモアについて、偉大な人間の人格について学んでいきます。


 私自身もまだ発展途上でありますし、もしかするとこの中に、既に愛の段階に入っている人もいるかもしれませんので、共々に高め合っていきましょう」


 昼食後にフルコースを頂いたようだった。


 この方も既にドーナツに命を賭ける段階に入っている気がしてならない。


 レクチャードーナツの話からすると、私にとっての苦は心の空洞という事になるのだろうか。しかし、空洞は誰しも抱えているものであるとも聞く。空洞といっても、人によって姿や振る舞いが異なるのだろうか。今はまだ悩み足りないのかもしれない。


         *


 この後も、四限、五限と授業があり、十八時過ぎに大学を出た。辺りは夜になる寸前で、出てきた校舎と向かいの校舎の間に上手く太陽が見え、反対側には自分の影がどこまでも伸びていた。


 この時間帯は、最も自分の影を意識する時間だろう。自分の影の輪郭を見る事は、人間は孤独であると再認識する事を意味している。そんな事は辛いので、早く夜になってしまえとやけくそになるが、夜になったらなったで、今度は自分が存在しているのかわからなくなる恐怖に襲われる。

 だからといって、昼に帰ろうとするのは間違っているのだろう。夕方と夜に向き合わなければならない。


 家に帰ると、まずメロンパンを食べた。午後の授業で頭は満腹になったが、お腹は空になっていた。


 アルバイトは家から自転車で十分ほどの距離にあるスーパーで、掃除や品出しなど、比較的お客さんからは遠い業務を行う。そのため、従業員を含め人と全く話さない日も多い。


 人と関わらないという事は、精神的疲労が少なくなるという利点があるが、一方で自分はこの世界にいるのだという帰属感も少なくなってしまう。

 他人は自分の鏡だと言う。しばらく鏡を見ないと、自分が実在しているという確信が無くなっていく気がする。


 しかしながら、感情の希薄化以前に、帰属感ややりがいなどが、そのために受けなければならない苦しみの対価としてふさわしいのか、わからないでいた。単純に損得で考えるのは野暮なのだろうが、心の空洞を引きずって歩かなければならない身として、心のエネルギーは可能な限り温存しておきたいものなのである。


 私は素より人間らしさが少ないのかもしれない。幼少期から、子供らしくない、素直じゃない、可愛げがない、何を考えているのかわからないと、周りから言われ続けてきた。もしかすると私は、メロンの入っていないメロンパンなのかもしれない。こんな事しか考えていないのだから。


 気持ちは急ぎつつ、ゆっくりと、大学の荷物を出し、作業着などを入れた。焦りは、心の中では野次を飛ばすだけの外野のようなポジションなのかもしれない。うるさいだけで、何の役にも立たない。対して首脳陣は、満場一致で行きたくないらしい。


 では、何が体をスーパーに向かわしめているのだろうか。


 家を出て、水色の自転車に乗って出発した。理由はないが、リュックサックはかごに入れる気になれないので、背負ったまま乗っている。


 序盤は住宅街を二、三度曲がって通り抜ける。どの方向に曲がろうが、いつも向かい風が吹いている気がする。地元の子供達は、人生の縮図としてここを遊び場にしているのだろう。

 住宅の密度が下がってくると、まもなく踏切を渡らなければならない。この踏切は、私がバイトの始まる時間に遅刻しそうな時だけ、遮断機が降りるようになっているらしい。だから今日はスムーズに通れるはずだ。


 しかし予想に反して、踏切のある道に出る角を曲がる前にサイレンが鳴った。間に合わなかった。という事は、思ったより遅刻寸前らしい。もう少し我が肉体に鞭打つべきだったようだ。


 電車を待ちながら心を覗いている時、体をスーパーに向かわしめている存在が何かわかった。残る可能性は一つしかないので、薄々そんな気はしていた。鞭を握っているのは私ではなく、空洞のようだ。もちろん、手が生えていてその手で鞭を振るっているわけではない。


 因果の鎖だ。過去の私の行いが、空洞から伸びた因果の鎖として、杭を通して肉体に打ち込まれているのだ。そして、どうやらその鎖を手綱代わりに私を導こうとしているらしい。


 通過していく電車の揺れが、鎖をして「自身で決断して引き受けた責務には、誠実さをもって果たさなければならない」と鳴らしめていた。


 遮断機が上がると、安全運転に気を付けながら、強めにペダルを踏んだ。スーパーの位置は、踏切を渡ってしばらく直進し、大きな道路に出た所にある。


 ただ真っ直ぐ進むだけなのだが、間に一つ十字路があり、どうしてもそこで一度止まらなければならない。というのも、いつ通っても、止まらずに進めばどう考えても中央で轢かれるだろうという、絶妙なタイミングで車が顔を出してくるのだ。どのようにスピードを変えても、どう考えても轢かれるタイミングで車が現れる。そのため、どれだけ急いでいても、必ず一度は止まらなければならない。場所が十字の中央であるから、止まらなければ、生け贄か、良くて憑依の入れ物にされるのだろう。


 今回もやはり車が現れた。白い軽自動車だ。血を見て品質を確認したいのだろう。残念ながら売り物になるために来たのではなく、売り物を並べるために来たのだ。


 従業員用のスペースに自転車を停め、バックヤードに入った。


 二階の荷物置き場で作業着に着替え、出勤の記録を済ませた後、床の清掃のためのほうきを取りに行った。お客さんが居るので、あまり無意味に動き回ってはならない。そのため、できる限り最短経路で掃除を終わらせる必要がある。


 ここにも、感情が薄くなった変化があるように思えてならない。端的に言えば、作業を効率化できないのだ。効率化した所で別の作業が増えるので、不死の敵と戦うようなものなのだが、アルバイトとはいえお金を貰っている以上は可能な限り立ち向かわなければならない。


 効率化するには無駄が発生する問題を見つけて、解決しなければならないのだが、そのためには根幹となる前提条件がある。


 それは、ある程度動きが固定される必要があるということだ。実行する度に何もかも変化していたら解決しようがない。ゲームでも、プレイする度にステージも敵も操作するキャラクターでさえも、何もかも変わっていたら、クリアしようがない。


 このバイトの場合、お客さんの動きや商品の売れ行きなどは固定しようがないが、自分の動きは固定できる。作業の順番や、各作業の手順程度なら予め決めておけば、後はそれを実行すれば良い。


 その固定がどうしてもできない。毎回どころか毎秒変化している感覚がある。自然な体の動きなら問題ないが、作業レベルの規則的で不自然な動きとなると、毎秒新しいゲームをプレイするような、未知のものと向き合っているように思えてならない。

 これがもしロボットなら、感度の高い性能の良い部類に入るのだろうが、おそらく私は人間のはずだ。人間ならばガラクタの部類に入ってしまうかもしれない。


 ほうきを持って売り場に出ると、前回とは違う世界に冒険に来たようで、新しいものへの不安が生じた。


 床を掃きながら思ったが、やはり、ほぼ間違いなく感情の減少によるものだろう。記憶違いでなければ昔はもう少し全知全能だったはずだ。色々思いつく仮説はある。


 感情には意識を外に向けさせる力があって、その力が弱まったせいで、外の監視が疎かになり、変転極まりなく見えるのか。実感として、空洞がよりはっきり見えるようになった事で、そちらに意識が向く頻度が高くなった気がする。そうなると必然的に、それより外側のものへはあまり意識を向けられない。自分の体ですら少し不自然な動きをするだけで、親戚の子供のような距離感が生まれる。見る度に何かしら変わるのだ。


 または、感情には自分の陣地を作り出す力があり、その領域が自身よりも内側まで後退してしまったために、体の動きが自然と同類になってしまったか。自分の体が、体験する当体というよりも、環境のような観察する対象になってしまっている。環境は、自分の意思とは無関係に変化してしまう。


 あるいは心の空洞が明瞭になったために、橋を渡った時に感じたような、人知を超えた何かの予感によって、所有という概念に亀裂が入り、割れた皿のように収容力が激減したのか。自分の中の自分の占める割合が、かなり小さくなってしまっている。他は得体の知れない何かだ。自分の認識の中を世界で例えると、そこではゾンビが蔓延っており、その世界で自分はその日暮らしの根無し草になってしまっている。その世界でどれだけのものが所有出来るだろうか。


 このまま元に戻らなければ、就職先は怪物の胃の中かあの世になってしまう。


 ほうきの次はモップで同じことをする。つい先程までしていた事だが、モップを持って売り場に出たら、やはりもう別の世界に迷い込んだように思える。次の世界も平穏であるといいのだが。


「あの、すいません、薄力粉の詰め替え用ってありますか?」


 野菜売り場付近で床を拭いていると、仕事帰りだと思われる、スーツ姿で片肘に鞄と買い物かごを掛けた人が声をかけてきた。


「それなら、小麦粉や片栗粉のコーナーに、ケースと同じようなデザインが描かれた袋があると思います」

「ありがとうございます」


 疲れた顔で定型化されたような所作をして去っていった。

 感謝が形骸化するのは本当なら良くないのだろうが、疲労困憊な時でも繰り出せるほど、身体に染み付くまで繰り返したのだと考えると感謝の名人なのかもしれない。今の私は定型化すら出来ないので、表には一切出さないように畏怖の念を抱いた。


 ティッシュペーパーや文房具など、日用品のあるコーナーに移ると、口を動かしながら雑に何かを探している人がいた。足が大股で開かれている事から見ても、ぶっきらぼうな印象を受ける。


 人と関わるのが苦手でレジの業務を断って品出しの担当になった私にとって、天敵が立ちはだかった瞬間だった。武者震いか戦慄か、どちらにせよ、ほんの少しでも接触しようものなら、どちらかはこの場から姿を消すことになるだろう。

 このコーナーを後回しにすると、経路がもつれて時間が足りなくなってしまう。そのため、気難しい芸術家の雰囲気を出して、丁寧に床を拭くことにした。


「ねえねえ、この店って自動でカレー作れる鍋とかないの?」


 近寄りがたい雰囲気など意に介さず、最短距離で懐まで迫ってきて、声の方向をこちらに向けてきた。


「申し訳ありませんが、そういったものはこちらの店では取り扱っていないんです」

「なんだよないのかよ……」


 目当てのものがないとわかると、声を連れて帰っていった。音量の変化から見て、声量が下がったというよりは音源が遠ざかっただけのようだった。自動で生きている人なのかもしれない。


 私は手動で生きている。自動で生きる人々からは、私はどのように見えているのだろうか。少なくともこちらから見ると、人間の内に入っているべき何かが入っていないように見える。


 経験則から、自動化には感情が不可欠なのだろうが、どうして感情がある相手に欠乏感を覚えるのだろう。


 私に感情が不足しているからそう感じるのか。安定感や当たり前の確かさが弱まっているので、それは認めざるを得ないだろう。


 それか、相手がさも心の空洞がないかのような振る舞いをしているからか。


 空洞なのに、それがないと足りないように思うのだとしたら、裏の裏は表のような屁理屈を体現していることになる。私は屁理屈を除いたら空洞しか残らないような人間だが、屁理屈にも流派があるのだ。現実的過ぎる派閥とは一緒にされたくない。それなら、空洞とは別の何かで例えたくなる。


 それ以降は何事もなく掃除を終えられた。


 次は、飲料の補充だ。売り場でなくなってしまいそうな商品を確認して、バックヤードから運んで補充する。


 まずは冷蔵のコーナーから。冷えたものは外でも常温にできるが、常温のものを冷やすのは外では出来ない。不可逆性は希少価値の母だ。冷たさ自体に価値があるわけではない。南極のスーパーでは、冷たくない飲料の方に希少価値がある。

 しかしここは南極ではない。その上少しずつ暑くなり始めているので、特に優先して補充しなければならない。


 商品の種類は炭酸飲料や清涼飲料水が大半を占める。私は昔から味のついた飲み物はあまり口にしなかったが、移植後はほとんど完全に飲まなくなった。刺激物の権化のようなものだからだろう。心の空洞の方が目立ってしまうのだ。

 目立つために激しく変化するもの達がひしめく所では、逆に毅然としたものだけが目を引く。その者が放つ光は、不気味さすら覚えてしまうほどに冷たくて暗いのに、どんな明るい光よりも強く目に焼き付けられてしまう。光なき光は不滅なのだろう。


 というわけで、毎回違いがよく分からないものの違いを気にしなければならない。ビビッドな個性を放つだけに、誰かの好みを確実に掴めるのだろう、売れているものは良く売れている。そして、売れないものは全然売れないので、次の勤務日にはいなくなっている。

一番厄介なのは、売れているからといって少し変えた仲間を戦場に呼ぶ事である。飲み物の世界は世襲制が流行っているのだろうか。水分を多く含むものは、皆が通る道なのかもしれない。


 今日補充する飲料も、割合で言えばいつも通りだった。


 それでも、これから始まる、ダンボールの山から必要なものだけを探す工程も、慣れることができないので、初めてのように手こずってしまう。毎回違うお城でかくれんぼしているような感じがする。しかし、いつも鬼ばかりなので、もはや楽しさは微塵もなく、惨めな気持ちで歩き回る時間になっている。


 普通なら、心のスイッチを切り替え、割り切ってロボットになれば良いのだが、心の空洞という不変の存在のせいで、オンにもオフにもできない。そのため、真剣にかくれんぼの鬼をしなければならない。

 変にロボットになろうとしなければ、多少の時間は短縮できそうな感じはある。今日も、他の人と比べたら遅いのだろうが、初めの頃の私よりは速くなっているだろう。


 見つけた飲料は台車に乗せてまとめて運ぶことになる。


 かなり重いので、力を入れても中々動き出さない。動き出しさえすれば、もう少し楽な力でも押せるようになる。

 それでも、曲がろうとしたり止まろうとしたりして、動く向きを変化させようとすると、またもや簡単には変わらない。強い力がいるし、そうしてもゆっくりしか変化しない。そのため、丁寧に運ぶ必要がある。


 今は揚げ物などのお惣菜に値引きシールが貼られる時間なので、その付近は少し混雑している。特に注意が必要なエリアだ。もしも轢いてしまうようなことがあれば、私の給料に値引きシールが貼られてしまうだろう。

 止まってしまわない程度に慎重に運び、今日もなんとか怪我人を出す事なく通過出来た。決まった動きができない分、繊細な動きは得意なようだ。夏になったら運び屋のインターンに応募するのも良いかもしれない。


 お惣菜のエリアを通り抜ければ安全だ。


 ところで、重いほど変化が遅くなるならば、最も重いものは止まっているように感じるのだろうか。この世で最も重いものは宇宙全てである。

 もし、宇宙全てが心の中にあったとしたら、それは絶対的なにおいを漂わせ、泰然自若とした振る舞いを見せるのではないだろうか。


 生鮮食品のエリアを曲がると、目的地はすぐそこだ。たとえカーナビが音声案内を終了しようとも、最後まで気を抜いてはならない。勝ったと思い込んだ瞬間が最も危険なのだ。

 今日は運良く冷蔵棚の近くに停められた。


今回の運転は、六十一点くらいだろうか。私はスピードが遅いらしい。バイトを始めて最初の頃、全速力だったにも関わらず、店長に怠けているのかと怒られたのだ。履歴書の職歴にレーシングドライバーなどと書いた覚えはないにもかかわらずだ。


 これ以上スピードを上げるには、安全性を犠牲にしなければならない。この国では、金銭の対価に労働を捧げる時、知らない間に健康や身の安全まで道連れになる事が多いらしいが、社会に出る前にその洗礼を受ける事になるとは思わなかった。知らず知らずのうちに悪魔のワクチンを受けてしまったようだが、免疫ができるかアナフィラキシーになるか、その結果は神のみぞ知る。


 ここからの、ダンボールから飲料を取り出して棚に並べる作業には、慎重さは足手まといになってしまう。人間と違って、炭酸飲料でさえ相当乱暴に扱わない限り、怒りで噴火するようなことにはならないらしい。

 奥にあった飲料を手前に出しつつ、運んできた全てを並べた。そして、残ったダンボールを畳んで台車に乗せ、すぐ近くの常温のコーナーに向かった。


 常温のコーナーの方では、いつもただの水が一番売れている。最も何者にでもなれる可能性を有しているからだろうか。それに、その可能性の中には飲む以外の事にも使えるという、飲料の本質をも超越する力すら秘めている。

 何者かになった方々も、決して大差で負けているわけではない。比較的根源的な炭酸水や、堅実で地に足のついたお茶も、危なげなく売れている。そして、水とは逆に特化した存在である炭酸飲料などもターゲット層の心を確実に掴んでいる。


 しかしながら、君達が売れれば売れるほど、忙しくなって私は油を売れなくなるのだ。どうしてそこまで混ざり合わない。私がキューピッドになるしかないのか。先端にマヨネーズを塗った矢を私に打たせないで欲しい。


 バックヤードに戻り、ダンボールをゴミ置き場に置いて、冷蔵の時と同じ手順で補充を終えた。今回は、かくれんぼというより、犯人を捜す刑事のような、鬼気迫るものがあったように思う。


 次は、賞味期限が近い商品に値引きシールを貼る作業だ。


 この作業より平和的な活動がどれくらいあるだろうか。商品は捨てられるのを回避でき、お客さんは少し安く買え、店側は本来売れなかったはずの商品が売れ、私はあまり体力を使わないで済む。


 私は主に乳製品の担当である。乳製品といっても、牛乳やスイーツなど、腐敗する速度が異なるものがあるので、日数や値引きの割合が商品によって変わる。

 そのため、固定された動きのパターンを幾つも使い分けなければならない。固定せずに作業しなければならない私にとって、固定された動きが一つだけなら他の人より少し遅くなる程度で済むが、複数になると歴然とした差が生まれる。平和的活動はかたつむりの速度で進むのだ。


 この作業をする頃には店内が、残業で遅くなったのであろうサラリーマンや、サークル帰りに宅飲み用のお酒を買いに来たのであろう学生達が、まばらに物色する姿だけになる。

 この光景を見ると、一日が終わる喜びと、また新たな一日が始まる憂鬱さが混ざり合い、カフェラテが出来上がる。感情が薄まったために、鼻詰まりの時に飲むように味気ない。


 スイーツの値引きは、ご褒美を前におあずけを食うようなもので、スイーツ好きにとっては拷問になり得るだろう。私自身も甘いもの好きで、昔のままなら国家機密くらいならすぐにでも話しただろうが、今は心の中で宇宙じみた空洞の存在が大きくなっているので、忍耐が身についたようだ。正確に言えば、我慢強さというよりは、諦めに近いのかもしれないが。


「すいません」


 スイーツの賞味期限を確認している時、背後から少し乾いた声が聞こえてきた。


「はい、どうかされましたか」

「新発売のわらび餅コーヒーゼリーパフェってありますか」

「もしかしたら裏にあるかもしれないので、確認してみます。少々お待ち下さい」

 ここはアルバイトならよく新しくなるが、商品はそんなに変わる事がないので、裏にも無いような気がするが、暗い表情の奥に消えそうに震える光を感じたので、念の為に店長に聞いてみることにした。

 店長という生き物は、居るはずの所に居て、居ないはずの所にも居る。だからすぐ見つかるはずだ。


 近くの冷凍食品のコーナーで発見した。


「すいません、わらび餅コーヒーゼリーパフェってありますか」

「ない」

「わかりました、ありがとうございます、失礼します」


 一縷の望みに賭けてみたが、目を合わせる事なく放たれた二文字の言葉で簡単に断ち切れた。

 これから重病を宣告する医師のような気持ちを抱え、急いでお客さんの元に戻った。


「申し訳ありません。当店では取り扱っていないみたいです」

「そうですか、わざわざ聞いてくれてありがとうございます」

「いえ、お力になれず申し訳ありません」

「とんでもありません、では失礼します」


 振り絞った笑顔が月のように欠けていくのを見た時、心から伸びた因果の鎖が揺れた。


「あの、代わりになるかはわからないんですが、抹茶わらび餅風のコーヒーゼリーならあって、そちらはいかがでしょうか」

「そうなんですか、じゃあそちらを頂こうかな」

「強要していたらすみません」

「いえいえ、ありがとうございます」


 商品を手に取ると、会釈しながら去っていった。

 コーヒーゼリーが光を灯す電池となることを祈り、作業に戻った。


 スイーツのコーナーが終わり、パンのコーナーに移った所で閉店の時間が来た。


 この値引きシールを貼る作業が閉店までに終わった事は今までで一度もない。そして、本来の私の勤務時間は閉店までである。という事はつまり、私は残業をしている。

 バイトだからと言って残業代が支払われないなら、平和じゃないので途中であろうと切り上げるのだが、正確に支払われるので、平和のために最後までやり遂げる。ちなみに、時間稼ぎなどは因果の鎖に繋がれているのでできない。


 そう思った時、心の空洞から、「鎖に繋がれていなくてもするな」という声が反響して聞こえた気がした。


 少しずつ暗くなる店内で、お泊まり会をしているような錯覚を起こしつつ、可能な限り急いで最後まで終わらせ、荷物を取って、一人で残る店長に挨拶し、眠たそうな店を出た。


 辺りはすっかり暗くなっていた。まだ深夜と言えるような時間ではないが、田舎なので店が軒並み閉まっており、人の気配もなくなっているので、容姿は深夜そのものだった。

 音を立てないように自転車の鍵を開け、スタンドを蹴ったが、悪目立ちした響きが広がり、罪悪感と共鳴した。


 自転車に乗って、人のいない歩行者天国のようになった車道に出て、家の方向へ走らせた。

 大通りは歩道がかなり細く、行きの時間帯は車が沢山走っていて、致死率がほとんど崖と変わらないので別の道を通るだが、帰りの時間は車も全然いないので、こちらの道を使っている。


 少し傾斜のある道を下っている時、目線が夜空に向かった。


 夜の空は、どこまでも続いていそうな無限の闇が広がっている。その闇は、たとえ室内に居ようと、人に囲まれていようと、自分の周りの存在全てが仮初のもので、自分しかこの世にいないような思いを抱かせる。

 それだけでなく、その闇が自身の内にも存在していると、否が応にも認識させてくる。外であろうと内であろうと、逃げ場は無いのだ。人間は爪先立ちのやじろべえに過ぎない。無限の闇に取り囲まれた最も不安定なものである。しかし、それは考えるやじろべえである。


 無限の闇をスクリーンに、様々な想像が目まぐるしく移り変わる。無であるが故に、何者をも存在させられるのだ。独りぼっちな自分の姿、誰かに愛されている誰かの姿、嫌な過去の記憶、不運な未来、薄ら笑いを浮かべた孫子の顔、コロンボ警部の顔。

 誰に命令されたわけでもないのにネガティブなことばかり想像してしまう。このスクリーンにポジティブなことが映し出される瞬間はあるのだろうか。少なくとも短絡的なポジティブ思考など、花火のように輝くこともなく露と消えるのは確かだ。


 現実の空には北斗七星が見えた。昔学校で習った北極星発見法を、目分量でそれっぽく用いて北極星を探し出しながら、ゆっくり坂を下った。


 途中で曲がり、しばらく道なりに進むと、踏切が現れた。今回は止まらずに渡ることができた。時間に追われていないからだ。


 そこから少し直進し、アパートの敷地内に入った。誰とも顔を合わせることなく自分の部屋に到着した。


 暗闇は十分堪能したので、すぐさま照明を点けた。明かりでさえも、誰のものでもない雰囲気を吹き飛ばすことはできないようだ。


 部屋に入ってリュックを置くと、まずユニットバスのお風呂場に向かった。もし帰宅の勢いでお風呂に入らず、先に夕飯を食べるなどして流れを止めると、再びエンジンをかける事叶わず、二度とお風呂に入る機会は訪れない。家に帰るまでが遠足だと言うが、私にとっては家に帰ってお風呂に入るまでが戦なのだ。


 しばらく硬直してシャワーを浴びてから、髪を洗い始めた。バイトの時に感じた固定ができない現象の近縁種がここにも居る。習慣という固定された動きが少し溶解しているのだ。いままでは無意識に流れるように行えたことでも、時々詰まってしまう。その度に意識して考えなければ動き出せない。お風呂で行うことは、一括りにしていいのかと思うほど詰まる頻度が高い。そのため、気力というモーターを酷使する時間となってしまう。一方でそのおかげか、シャンプーをしたか忘れてもう一度洗うなどというようなおっちょこちょいは減った気がする。

 全身を洗い流してバスタブから出た。少ない置き場にバランス良く積んでおいた着替えを身に着け、一日の終戦を告げるかのように威厳をもって扉を開けた。


 コップ一杯の水で喉を潤し、冷凍庫に入れておいた白米をレンジで温めた。お米は解凍するのに時間がかかるので、その間に冷凍食品のお弁当のおかずシリーズのうち、唐揚げとほうれん草の煮浸しを取り出した。


 お米は一度のレンジで全体が温まることはない。確率は均等ではないのだ。灼熱の砂漠みたいな場所もあれば、凍てつく極寒の地もある。


 一度目の温めが終わり、お米を取り出した。外側は温まっていたが、そんな見せかけだけの温かさに私は騙されない。外面は炊きたてご飯でも、内部は凍った泥団子のようになっている事も少なくないのだ。だからといって、外面が凍った泥団子の時に中身が炊きたてご飯になるわけでもない。事はそう単純ではないのだ。外が冷凍泥団子なら中身は絶好調な時の保冷剤のようになっていることも多い。

 実際に中身を確認するまでは真実は決してわからない。火傷しないようにラップを剥がし、箸で割って中身を確認した。今回は偶然経験則が活きたようだ。


 私は内部に熱源を持つ人間になると意気込んで、もう一分ほど温めた。

 お米が温まったので、次に冷凍食品も温めた。皿洗いは面倒なので、お米はラップに乗せたまま、冷凍食品はケースに入れたまま机に並べた。

音を立てないように椅子に座り、心の中でいただきますをして、唐揚げを口に運んだ。


 味がする。


 疲れもあるのだろうか。味がする以上の感想が出てこない。唐揚げは好物の一つなので、好みの味なのだが、美味しいという感想にはならない。好みの味がするという味覚の次元ならはっきり認識できるのだが、美味しいという感情の次元には何も存在しないように思える。美味しいと思うように努力しても、心に力が入らない。

 どうやって美味しいと思えば良いのかど忘れしてしまった。こういう時は無理矢理思い出そうとしても、決して思い出せない。ど忘れとゲシュタルト崩壊と運動会当日の天気だけは、人間の手ではどうすることもできない。どれだけ雨よ降れと念じようと、自分の顔にしか降らせることはできない。


 食べ物達には申し訳ないが、生命維持のためだけに摂取し、夕食を終えた。


 お腹が落ち着くまで、台所にもたれてぼんやりとスマートフォンでSNSやニュースに目を通した。学習量で言えば、ただ無心で川を眺めるのとほとんど変わらなかった気がする。


 少し身動きが取れるようになってから、洗い物と洗濯の予約と歯磨きを済ませ、寝室に入った。入ったと言ってもワンルームなので、部屋の呼び方が変わっただけである。


 名前は変わったが、変化したのは周りではなく自分自身である。逆に、たとえ環境が変わろうと、自分が変わらなければ世界は同じように見えるだろう。

 もしこの部屋で料理をしている時に、ひとりでに布団が敷かれたとしても、自分の中では部屋の名前はキッチンのままだ。もしかすると怖がりの人はお化け屋敷という名前に変えるかもしれないが、それも自分の心が恐怖に変わったためである。

 私なら動じない。この部屋を一目見た時から、至る所に刻まれた年季によって、既に微かに恐怖心を抱いていたからだ。


 大学に入って、住む所も暮らしも人間関係も変わった。自分の外だけでなく、内側の感情までもが変わった。うっすら認識していた心の空洞も少しはっきり見えるようになった。

 それでも、私自身は根本的には何も変わっていないように思えてならない。周りの物や人が違っても、この世界に対して抱く意味や価値は同じままだ。


 今までの人生はシャトルランのようなものだった。たとえ心が目的地まで追いつかなくとも、タイムリミットが来れば違う方向に走り出さなければならない。大学入学も、タイムリミットによって決められた方向の一つに過ぎない。そして、自分が変わらなければ、就職しようが結婚しようが子供が生まれようが、死のうが、おそらく同じだろう。


 それでは変わる自分とは一体何だ。外見や肉体の変化はほとんど関係がない。感情だと何か物足りない感じがする。心の空洞はそもそも変わる気配がない。


 わからないので、とりあえず今日はこれくらいにしておいてあげる事にした。


 隣接する部屋から僅かに漏れる生活音をバックミュージックに[夜と霧]を少し読み、ぬいぐるみをいつもより近くに置いて目を閉じた。

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