第3話 夜明け前の銭湯、あいつらが来る

 湾岸だ。九州の片隅の湾岸を、俺達は走っている。

 追いかけてくる奴らが居ればかえって警察を呼びやすいし、危険運転致死傷未遂くらいでしょっぴいてもらうことも可能だと考えたのだが、流石に堂々と来るまで追いかけてくる気配はない。


『しばらく走ったけど、逃げるったって、どこに逃げ込むん?』

「銭湯だよ。深夜営業してるし、開店は朝五時。今が午前三時だから、朝の開店準備をしているスタッフさんも居る。駐車場なら早めに来た朝風呂の客の為に解放していることもある」

『本当にそこで大丈夫か? 警察まで行かなくても街の外に逃げた方がいいんじゃない?』

「俺もそう思うけど、山の中で囲まれる可能性がゼロじゃないし、なによりタイヤがパンク寸前」

『ボロタイヤが悪いんや』

「行けると思ったんだよ、走れると思ったの、普通に駄目だった」


 夜中の道路はびっくりするほど静かで、ゴールデンウィークのど真ん中であることが嘘みたいだった。

 都市の静寂の中にいくつもの車のタイヤ音が吸い込まれていって、改造車のマフラーから出る下品な排気音が時々遠くから降ってくる。

 なにをやってるんだろう。

 金と時間をかけて人間不信の種を育んで社会参画しようとしているポーズをとって満足か? その挙げ句頭のおかしい連中に追われてる。悲しい。


「駄目だったんだよな、なんもかんも。終わりや、終わりや俺の人生」

『どうした急に、まだ何も始まってないだろ』

「何者にもなれず30を越えてしまった」

『どうして生命かかったタイミングで急に自己の実存について悩めるのかなあ? 文学でもやってた?』

軽くライトにね」

『せやな』

「俺は同じ年齢での年収と人生で初めて単著を出した年齢しか父親に勝てていない。ろくでなしの穀潰しだ」

『自慢のお子さんじゃないか?』

「こんなはずじゃなかった……こんな故郷から遠く離れた街で知らねえ奴らに理由もわからないまま追い回される筈じゃなかった……」

『前を向いて? 二重の意味で。運転中だよな?』


 自己の実存に悩んでも、夜更けの暗闇に己の人生に浮かぶ仄暗い不安を投影しても、それはそれとして俺のペダルワークとステアリングは一切狂わずファーストクラスの穏やかさで俺を目的地へと連れて行ってくれていた。

 海辺の町の少し大きな銭湯。

 地元の漁師さんや観光客まで幅広く人気でなおかつ同性愛者の皆様の情熱的な社交場にもされていないので大人気の銭湯だ。

 めちゃくちゃ熱くて笑っちゃうほど塩辛いお湯に十分も浸かると最高の一日が今から始まるって気分にしてくれる名湯。地元にも同じ名前の温泉があって、そこがお気に入りだったので、名前も気に入っている。

 錦湯という名だ。


「見えたぞ、このまま駐車場入りまーす」

『おう、入れ入れ。電波大丈夫?』

「大丈夫っぽさそう」


 もう誰も居ない時間の駐車場は、地域で広く愛されるだけあってなにかヤバい人がたむろしているということもなく、平和なものだ。

 そもそも住宅地のど真ん中なんだから、世間の目が容赦なく浴びせかけられるというもの。

 そうそうおかしなことも起こらない。


「というわけで無事到着」

『これで一安心か?』


 ここの駐車場は街路樹が多くて、パッと見ただけでは車が停まっているか分かりづらい。シンプルだが、見落としやすいし、開けていて咄嗟に逃げ出すにも便利な良い逃げ場だ。


「多分ね。もう寝てもいいよ、ここなら騒ぎなんて起こせないし、警察もすぐ来てくれる筈だから」

『用が済んだらポイか? ボク都合の良い男扱いだったんやね……』

「むつ…………」

『どうしてこんな時間に起きてるんだろうなボク、今日も朝から出勤や……』

「起こしてごめんて……でも俺の今際の際かも知れないぞ?」

良心の呵責を盾に取るのデスハラスメントやめろ』

「この程度でデスハラとはね、若者のデスハラ離れが恐ろしいよ。みんなもっと死を思メメントモって欲しい。俺は根の国からもう帰れない。幽霊のようなもの。現世を生きるみんなに怨嗟の声を上げ手を伸ばす」

『そんなメンタリティの持ち主が生き生きと婚活やってるのが怖いよ』

「仕方ないだろ実体が社会にあるんだから社会の中でなんかそれっぽくやっていかなきゃいけないんだよ。それに同じこと考えている人と出会えるかも知れないだろ。人はインターネッツのみに生くるにあらず。クソゲーとわかっていても程々に社会していきながら魂の解放をその社会の外に求めるんだ。社会の外onlyで生きてるのは……それはもうただのもののけだろ」

『特に毛皮も被らず人里に降りてきたもののけがよ……』

「幸せになりてえよ……幸せになれねえならもうとっとと死にたかったよ……幸せじゃないなら生きてないと一緒だからさ……少なくとも今は幸せじゃねえよなあ……追われているんだぜ、理由のわからない連中に。正気じゃない、日本語が通じない連中だ。捕まったら殺されるかもしれない」

『そうだな……』

「正直久しぶりに怖いよ……昔病気で死にかけた時以来だ……」

『大変そうだったもんな』

「一度死にかけて分かるワケ、夜に怪物なんて居ないし、闇にお化けなんて潜んじゃいない。世の中にはびっくりするほど何もなくて、救いだって無い。無い物づくしの空っぽの世界を手探りて生きていくしかないし、自分が存在する意味ってないよなって」

『まあつらい経験から虚無的になるのは……』

「ごめんうそ、めちゃ怖い」

『俺の同情を返せ』

「違うの、めちゃマッチョな人が車に近づいてきている。何だあれどっから来た」


 チャットに夢中になってたらかなり至近距離まで腕がゴン太のおじさんが近づいてきていた。

 あれが車バックドアバタバタカルトの一員だった場合は流石に生命の危機だ。車のバックドアどころかボンネットくらいは指一本でドッタンバッタンできそうだ。

 正直これはどうすればいいのか分からなかった。逃げ出すか? 逃げ出すにはあまりに近づいてしまった。

 無理に発進してひき逃げ犯にはなりたくない。

 怖い顔のおじさんが近づいてくる。

 俺を見ている。

 怒っているんじゃないか?

 ドアを開けたら一発で殺されそうだ。

 嫌だ。俺はただ幸せになりたかっただけなのに。

 なんで。


「すいません、そこでなにしてるんですか?」


 窓ガラス越しにそんな声が聞こえた。


「…………」


 やった!

 日本語喋ってる!

 しかも会話してくれそうな雰囲気だ!


「あっ、えっと、俺、観光でここのお風呂来てて、早く来すぎたので朝一番のお風呂を浴びる為に待機していようかと!」


 そこまで早口で喋ってから聞こえづらいかなと思って窓を少しだけ開けた。


「朝の開店まで待機しようと思ってたんですよ」

「ああ! でしたら大丈夫ですよ。音だけ気をつけてくださいね」


 マッチョなおじさんがニッコリと笑った。

 俺も一安心だ。


「開店って五時半でしたっけ?」

「五時ですね」

「ありがとうございます! じゃあ車で待たせていただきます」

「はい、それでは後で」


 良かった……考えてみれば俺だって大概不審者だったもんな。

 まあ仕方ないか。

 逆になにかあったら通報だってしてもらえるし、今度こそ大丈夫。

 鍵だけはしっかり閉めて、少し休もう。


「銭湯の人だったわ」

『良かった良かった』

「ごめん、あんしんしたら眠く――」


     *


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 目が覚めた。


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 右を見れば窓ガラスに顔。


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 左を見れば窓ガラスに顔。


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 人の群れの隙間、その向こう側には白い軽バン。

 そのバックドアを上げては下げる男女。


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 窓ガラスの向こうの顔は笑っていない。

 俺を見ている。

 睨んでいる。

 窓ガラスを叩き続けている。

 今にも窓ガラスを割って中に入ってきそうだ。


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 どうしよう。


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 どうしよう。


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ


 どうすればいい。


「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけ「あけ「けろ」「あけ「あ「あけろ「ろ」「あけろ」「あけ「あけ「けろ」「あけ「あ「あけろ「ろ」「あけ「あけ「けろ」「あけ「あ「あけろ「ろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけ「あけ「けろ」「あけ「あ「あけろ「ろ」「あけ「あけ「けろ」「あけ「あ「あけろ「ろ」「あけ「あけ「けろ」「あけ「あ「あけろ「ろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけ「あけ「けろ」「あけ「あ「あけろ「ろ」「あけ「あけ「けろ」「あけ「あ「あけろ「ろ」「あけ「あけ「けろ」「あけ「あ「あけろ「ろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」「あけろ」


「あけろ」

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