第四話「囚われのものたち」(2/6)
2.
アガっていた気分が変わったのは、陽が落ちてから家に帰った時であった。
「ただい――」
唯斗の表情が変わった。玄関のドアを開けて、いつも通り誰も居ない家に帰りの言葉をかけたつもりであった。しかし、今日は違った。家には一人、いつもは居ないはずの人物がそこには居た。
「……」
無言のまま、唯斗の居る方へ顔を向ける人物が廊下に立っている。鼻を刺激するほどに強い香水の匂いと、悪態ついたような顔。髪は少しだけ乱れており、イライラしているのが伝わった。
「誰、そいつ」
ぶっきらぼうに聞いてくる姉に、唯斗は暗くなった表情で答える。
「……俺の知り合い。理由があって、しばらく家に泊めてる」
玄関のドアが閉まり、ヒメは唯斗の後ろで空気の違いを感じていた。物理的にも空気は違い、ヒメは思わず自分の鼻を摘んだ。
その様子を見た姉は、二人に聞こえる音量で舌打ちを打った。
「私、人を泊める許可なんて出してないんだけど。帰ってくれる?」
この家の絶対権は私にあると言わんばかりに、姉はヒメに近付いてくる。唯斗は右手で、ヒメを守るように姉との間に壁を作る。
「ふん、常識も知らなそうな田舎娘って感じね。どうせ、唯斗を誑かしてお願いしてきたんでしょ。ゲロ吐きそう」
客人であっても容赦のない言葉に、唯斗の暗い表情は、明らかな怒りへと変わっていった。
「てか、そいつどこに泊めてんの? リビングに泊めてたなら、臭かった理由もわかったわ。私の香水高いんだから、余計に使わせないでよね。他の部屋にも入れてないでしょうね?」
姉の言葉に、唯斗は込み上げる怒りを抑えながら答える。
「……二階の部屋」
「は?」
唯斗の返答に、姉の態度は更に悪くなるどころか、その表情もまた怒りへと変わっていた。
「あんたまさか、お母さんの部屋使わせたんじゃないわよね?」
それは姉にとっての地雷であり、唯斗もそれを理解していた。しかし、嘘をついたところで部屋を見てしまえばバレてしまう。
ヒメは理解こそしていないが、状況が良くないことはなんとなく察しがついていた。
唯斗が固唾を飲み、真実を語る。
「母さんの部屋に泊めさせた――」
その瞬間、姉は左手をあげる――そして、あろうことか、その手のひらは客人の方へ向けて大きく振りかぶっている。
次の瞬間、パンッ――という大きな音が、家の中を響き渡った。
「ユイト……?」
「ッ……」
ヒメに向けて放たれた力強い手のひらは、唯斗によって防がれる。しかし、唯斗の右頬はそれによって赤く腫れ上がる。
「邪魔よ、退きなさい! こいつがお母さんの部屋を汚したんだ! 私のお母さんの部屋をッ‼︎」
姉の表情を醜く歪んでおり、自身を愛した母を異常なまでに愛していた。現実を受け入れている唯斗とは違い、姉は今でも母の死を受け入れられていなかった。
姉は狂ったように、力付くで唯斗の体を退けようとする。愛しい母の部屋を汚した邪魔者を、その手で叩かなければ気が済まないのだろう。唯斗は危険を感じて、ヒメへ急いで逃げるように伝える。
ヒメは戸惑った表情をしていたが、やれることがないことに気付くと、仕方なく玄関のドアを開けて外へと出る。
「出ていけ――! 私の家から出ていけ! お母さんの部屋を汚すなクソヤロウッ――‼︎」
暴言は次々と飛び出してくる。何が彼女を変えてしまったのか、元からその素質があったのか、唯斗にはわからなかった。しかし今、唯斗にできることは姉を少しでも落ち着かせ、ヒメを守ることだけであった。
「悪かった、俺が悪かったから。だから落ち着いてくれ姉さん! ヒメは何も悪いことをしていない!」
「あんたが悪いのは当たり前だ! だけど、その前にあいつを叩く――‼︎」
癇癪をやめない姉に体を叩かれたり、蹴られたりしながらも、唯斗は決して玄関を開けない。こうなってしまえば、姉を止められないことはよく理解していたからだ。
ヒメが家の前で待っていたとしたら、間違いなく姉はヒメを探し始めて見つけた彼女を叩くだろう。叩くだけであればいいが、姉の暴力がそれだけで収まらないことは知っている。
「姉さんッ――‼︎」
唯斗も出せるだけの力で、暴走する姉をなんとか止めようとする。
――奮闘は長く続き、終わりが見えることはない。
姉の体力も力も相当で、これ以上続けば唯斗の方が力負けしてしまう。それどころか体力に限界が来ており、その理由は格闘時間であった。気が付けば二〇分ほどもこんなことを続けており、姉の執念も恐ろしいものがあった。
遂に限界が来てしまい、唯斗は玄関のドアに押し付けられ、姉はそのまま玄関のドアノブへ触れようとしていた。
その時――姉が触れる前に玄関のドアが開かれる。それによって唯斗を支えるものがなくなり、後ろへと大きく倒れかける。
バランスを崩して倒れる唯斗の背中を、何かが受け止めて唯斗の目の前を右手が通る。
パンッ――という音が家の外まで響き渡った。その音は、先ほど姉の発した音と同じものであった。しかし、鳴らしたのは姉ではない。姉の左頬は赤く腫れ上がる。
「いい加減にしなさいッ‼︎」
二人の争いを止めたのは、姉にとってはかつての友人でもあった女である。血の繋がった姉よりも、唯斗が姉だと感じている人。今日もまた、その人に唯斗は助けられる。
「……らなッ――」
◇◆
唯斗の指示で玄関を出たヒメは、数十秒玄関の前で立ち尽くしていた。しかし中から唯斗が出てくるどころか、玄関のドアは一切開かずに二人が争っている音がドタバタと漏れ出していた。
気が付けば空は曇りとなっており、不穏な空気が流れている。ヒメはどうするべきか、混乱していく頭で必死に考えていた。そして、最終的には一つの結論に至る。
ヒメはその結論を頼るために、記憶を頼りに走り始めた。今の唯斗を救える、たった一人の存在。ヒメはそう信じて、自身の体力なんて忘れて全速力で走り続ける。
最短ルートはわからないが、記憶を頼りになら向かうことができる。海沿いに辿り着くと、あの時辿ったルートを走り抜ける。
少しの間坂道を駆け上がり続けると、古いアパートが見えてくる。もし、アパートにあの人が居なかったら――そんな不安は、首を横に振って取り消した。
この時点でヒメの体力は限界を迎えようとしており、息切れを起こしそうになっている体を、唯斗を助ける一心の気持ちで走らせる。
そして辿り着いたアパートで、あの時の記憶を頼りにあの人の部屋を見つける。インターホンの存在を知らないヒメは、ドアを必死で叩いて呼吸も怪しい声で伝えた。
「サシダ助けて、ユイトが――ユイトが――‼︎」
涙も流しながら、残っていた力を振り絞ってヒメの頼る人物に助けを求めた。何度も叫び続け――その声はアパートの外に届いた。
「ヒメちゃん――⁉︎」
それは――バイト帰りのあの日と同じ、買い物袋を片手に持った指田であった。
「サシダ――」
ヒメはバランスを崩しながら、なんとかサシダの体に両手で抱きついて訴えた。この時点でヒメは何が何かわからなくなっており、訳のわからない感情で涙を流し、その言葉は指田の耳に半分も伝わっていなかった。
しかし、指田の耳に入ったいくつかの単語は意味を成し。その意味を察すると指田は、買い物袋をその場に置き、すぐにヒメを連れて自転車のあるところへと向かった。
「乗って!」
自転車の二人乗りは本来ダメだが、今はそんなことを言っている場合でもなかった。自転車の後ろにヒメを乗せると、両手でしっかりと掴まるようにと言って、指田は力一杯にペダルを漕ぎ始める。
ヒメは指田の言葉を守り、両手で指田の体にしがみつく。涙の止まらないヒメに対して、指田は「大丈夫、大丈夫だからね」と言って、少しでもヒメを落ち着かせようとしていた。
――そうしてしばらくすると、唯斗の家の前に自転車のブレーキ音が響いた。
二人は急いで玄関に向かうと、ヒメにドアを勢いよく開けるように言って指田は構えた。
玄関のドアが開けられると、開いたことで体勢を崩した唯斗が後ろへ倒れようとしていた。そこへすかさず指田は左手を回してしっかりと支え、そのまま目の前に居る旧友を右の手のひらで力一杯に叩いた。
旧友は指田の名前を呟きながら、叩かれた勢いで玄関の靴箱に頭を打ちつける。
唯斗の体はボロボロになっており、アザや腫れている部分が多くあった。
「ユイト――」
ヒメはすぐに唯斗の体を指田に変わって支えると、指田は家の中へと入っていく。
「ヒメちゃん、唯斗をよろしくね」
そう言って鍵を投げ渡し、指田は玄関のドアを閉めてしまった。
雨がポツポツと降り始める。
唯斗はこの時点で気絶寸前となっており、咄嗟にスマホを開いてもう一人の頼れる人物へ電話をかけた。そこで唯斗の意識は落ちており、スマホは地面へと落下する――。
◇◆
――次に唯斗が目を覚ましたのは、指田の住むアパートのリビングであった。
「唯斗!」
目を覚ました唯斗に、苗島は声をかける。
「大丈夫か⁉︎ オレのことはわかるか⁇」
苗島の呼びかけに、唯斗はしっかりと名前を呼んで答える。
「よかった……」
苗島の必死な顔は落ち着くと、涙を浮かべ始め安心した顔を見せた。唯斗は何があったのかを聞こうとする前に、ヒメのことを苗島に聞いた。
「それなら――ほら、横」
苗島に言われるがまま、唯斗はキッチン側を見る。唯斗の横で、ヒメは体を丸めて眠っていた。
「ヒメ……」
「唯斗が起きるまでここに居るって言ってさ、さっきまでずっとそこで座ってたんだよ。だけどさ、突然バタンっと倒れた音がして、見てみたら横になって眠ってやがんのよ。余程疲れてたんだな」
唯斗は少しだけ安心すると、苗島に対してやっと何が起きたのかを聞き始めた。唯斗もまだ少し意識が朦朧としており、体を起こすのは難しい部分があった。
「オレもヒメちゃんから聞いた話だから、詳しいことはわかんないけど。唯斗がヒメっちを助けた後、ヒメっちは指田さんのとこまで一人で走ってきて助けを求めたらしいんだ。それで、指田さんがたまたまバイトから帰ってきたところで、自転車に乗って唯斗の家まで二人で来たらしい。あとは想像通りだと思うぜ」
苗島は自分の家に連れて行こうとしたらしいが、雨が降り始めていたので、仕方なくヒメに渡されていた鍵で苗島の家よりは近い指田のアパートに連れてきたそうだ。
唯斗が繋げた電話は、幸いにも苗島に届いており。落ちたスマホをヒメが拾って、苗島にも助けを求めたらしい。唯斗は状況を知ると、苗島に感謝を伝える。
「ありがとう」
「いいってことよ。むしろ頼ってくれて嬉しかったし、ヒメっちも頼ってくれて感謝感激だぜ?」
苗島はさっきまでの表情とは違い、にこやかな笑顔で唯斗にそう言っていた。姉と共に家に残った指田のことも唯斗は気にしていたが、その心配は一〇後に解消されることとなる。
――指田がずぶ濡れのままアパートに帰ってくると、すぐに唯斗を抱きしめて話し始めた。
「ごめんね、やっぱりここに居させてあげればよかった……」
指田は雨に濡れている以外は幸いにも無傷で、抱きしめる強さは離さないながらも唯斗の傷を労り優しいものであった。
「いえ……ありがとうございます――」
そうして感謝をしたつもりが、唯斗自身も緊張の糸が切れたのか、涙を流して抱きしめ返した。
「取り敢えず、
指田がそう言うと、唯斗も素直にそれを受け入れて答えた。苗島は頭を掻きながら、邪魔だろうと思ったのか立ち上がってアパートを去ろうとする。
「帰っちゃうの? 大雨だよ」
指田が体を起こして苗島に声をかけると、苗島は振り返って話す。
「実は晩飯の途中に抜け出しちまって、早く帰ってやんねえと母さんに叱られる。てか、スマホにめっちゃ通知来てる」
笑いながら言うと、苗島は玄関のドアを開けてアパートを出て行ってしまった。
「もう……仕方ないなぁ」
指田は仕方なさそうにスマホを開き、苗島の家に電話をかけ始めた。唯斗もそんな様子を見て少しだけ落ち着いたのか、体を横にして顔を天井へ向けながら毛布を肩までかけ直す。
唯斗が横を向くと、ヒメは何やら寝言を言っていた。その内容はわからなかったが、時々唯斗の名前を呼ぶこともあった。
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