第三話「生物観察」(1/4)

   1.



 アクアショップでのバイトが決まったのは、指田からの提案があったその日である。動くなら早めにということで指田によって背中を押され、そのままの足で店まで向かいバックヤードで面接を受けたのだ。


 指田はバイトがあるからとアパートに残り、二人でアクアショップに向かうこととなった。


 行きにヒメへの説明は済ませたが、実際に観賞魚たちが水槽を泳いでいるの見ると、ヒメはなんともいえない表情をしていた。


「なるほどねぇ、社会勉強のためにもかぁ」


 アクアショップの店長は腕を組みながら、少しだけ悩むのに時間をかけた。店長は赤い服を着た四〇代の男で、少しだけぽっちゃりとしている。


「ヒメちゃんは何が得意とかってあるの?」


 店長の質問に、ヒメはありのままを答える。


「魚の声が聞こえます」


 ありのままの答えに、ヒメの隣に座っていた唯斗は見事に吹き出してしまった。


「魚の声が聞こえるかぁ、それは良いことだ。魚の状態がわからないのに働かせる訳にはいかないしな。それに、ヒメちゃん自身も美人さんだし。看板娘としても活躍できそうだ」

「あの……ここアクアショップですよね? 店長。観賞魚じゃなくて、看板娘で客を引き寄せるんですか……?」


 幸いにも魚の声は良い意味に捉えられたようで、安堵の息を漏らしながらも呆れ顔で唯斗は疑問を投げる。


「美しいものに人は目を惹かれる。それは観賞魚も看板娘も変わらないよ。僕みたいなおじさんを店頭に出しておいても、集客が倍増する訳ないしね」


 正論を言われ、唯斗も納得する。ヒメは相変わらず多くを理解してはいなさそうであったが、実際問題魚の声が聞こえるのは悪いことでもなかった。


 店長の言っていることも一理あり。事実、ヒメの容姿は学校に居れば誰かに告白されていてもおかしくはないほどでだろう。唯斗は更に納得すると、店長は手を合わせて立ち上がった。


「よし! それじゃ、唯斗の入ってる日にヒメちゃんも入れよう。ただし僕はその時間店に居ないから、観賞魚たちとヒメちゃんのことはしっかり頼んだよ」

「ありがとうございます!」

「ありがとうございマス」


 あっさりとバイトが決まり、二人は頭を下げると一度店をあとにする。特に予定はないので、取り敢えず町を二人で散策してみることになった。


「どう? やれそう?」


 バイトが受かったのはいいが、海で魚たちと生活してきたヒメがあの場所で働くことに不安がないわけではなかった。指田に背を押されたことで流れに逆らえずここまで来たが、唯斗にとってはヒメのことが心配で仕方がなかった。


「唯斗が教えてくれるなら、多分。人間っていうのは残酷だな」


 そして案の定、ヒメにとってアクアショップはそう映ってしまっていた。もちろんヒメ自身も理解はしているし、唯斗自身も今更それを言ったところでどうにかなる話ではないことはわかっている。


 それでもヒメは、海に帰るとは言わなかった。たとえ人間が魚たちに対して残酷なことをしていようとも、釣り上げられたあの時からヒメの心は決まっていた。


 一度決めたことはしばらくやめない。イルカにも呆れられていた部分ではあった。しかし、好奇心は誰にも止められない。


「残酷だけど、綺麗だった」


 そしてその好奇心は、新たな視点をも生み出してしまう。それは決して、海側にとっては良いことではないのかもしれない。それでもヒメは、新たなものを求めて興味の向く方へ足を進める。


「そっか」


 唯斗も頷き、ヒメの行きたいところに付いていく。真夏ということもあって、しばらく歩けば唯斗は汗をかいていた。そこで気が付いたこともあった。


「ヒメって、暑さは大丈夫なのか?」


 店を出て一〇分くらいが経過していた。唯斗のシャツは汗で引っ付き始めていたのに対し、ヒメはあまり汗を流していなかった。


「ん……暑いと言えば暑いかもしれない。だけど、ユイトみたいに汗をかくことはないな」


 人間と人魚姫の違いだろうか、唯斗はまた一つ、ヒメの不思議な体について知ることができた。見た目は人間であるが、その中身はやはり別のものなのだ。


「不思議だな、ヒメの体って」


 唯斗にとっても不思議なヒメを、世間が知ればどう思うだろうか。考えるだけで唯斗は恐ろしくなった。少なくとも、ヒメの気が済むまでは守り続けなければならない。


「……そういえば、今日は取り敢えず家で寝てもらうけど。その服、指田さんのやつだよな」


 ヒメが今着ているのは、黒のウェットTシャツにジーンズというものであった。指田はあげると言っていたが、唯斗にとっては申し訳ない気持ちもある。


「俺もあんまり金はないから良い物は買えないけど……これから地上で少しの間生活していくのに、服とかは必要だよな。近くの商店街にリサイクルショップあるから、そこ寄ってこうぜ。せめて服とズボン、スカート? はもう少し買っておかないと困るだろ。……下着は流石に新品で見に行くけど」


 現状、唯斗の財布に残っているのはなけなしの二万円である。来月になれば、親戚からの補助金が口座に送られてくる。それまでは、なんとかこの二万円でやり抜くしかない。


「ユイト」

「どうした?」

「腹が減った」


 ◇◆


 ――苗島は届いたメールの続きを読み始める。それは、金が無いせいで色々詰んでいるといった話であった。どうやら食費がバカにならないらしく、朝がエッグトーストだけだと二時間後には腹が減る暴食の怪物の世話に手を焼いているらしい。


「すげえな……」


 苦笑いをするしかなかったが、親友に頼られてしまっては苗島も動かざるを得なかった。


 ショルダーバッグを身につけて、階段を下りながら家族にいってきますを伝える。


 玄関の開く音がしたと思えば、すぐに自転車のストッパーが外れる音が聞こえて、苗島は風のように家を出て行ってしまった。


 ――苗島が二人と合流したのは、商店街の中央に位置するリサイクルショップの目の前であった。


「よ!」

「苗島、来てくれたんだな」

「おう、必要そうなもんも買ってきといてやったぜ。ほらよ、ヒメちゃん」


 そうしてヒメに手渡されたのは、コンビニで買ってきたおにぎりであった。


「昼飯まではそれで流石に持つだろ。あと、買ってきといてやったぜって言ったけど、ほんとはそれ指田おにさんの奢りな。コンビニ寄ったら丁度バイトしてて、ヒメのためだって言ったら代わりに払ってくれたぜ」


 その話を聞いて、唯斗はまた指田に感謝の気持ちが芽生えた。


 対して苗島は、指田の優しさに感謝はしていたが、置いていった釣りの道具を取りに来いという強烈な圧をレジでかけられており、思い出すだけで寒気がしていた。


「ほんとにあの人は……また今度、お礼に行かないとな」

「オレには優しさを見せてくれないのに……」


 そうして涙目になる苗島に、唯斗は自業自得だと正論パンチを放つ。


 おにぎりを持っているヒメは、袋の開け方が分からず悪戦苦闘していた。


「あぁ、これな、こうやって開けるんだよ」


 そう言って苗島が開けてやると、袋の一部を残してヒメに手渡す。


「そういえば、何おにぎりなんだ? 魚とかにしてないよな……?」


 心配をよそに、ヒメは海苔で全体を覆われた三角おにぎりを一口頬張る。


「昆布だよ」


 ヒメは飲み込むと、ほっこりした顔で美味しいと言った。


「安心する味だ」


 ヒメにとってこれは食べなれた味であり、それどころか主食であるというのだ。


「ヒメっていつも、昆布を食べて生きてるのか?」


 唯斗の質問に、ヒメは小さく頷いて次の一口を頬張る。昆布のおにぎりにしたのは苗島の予想で、その予想はどうやら当たっていたらしい。


「やっぱ面白えな。普通の人間じゃ、海藻だけでは生きてけないぜ。栄養とかどうなってんだよ」

「ヒメはあまり汗もかかない。多分、見た目が似ているだけで根本的に違う生き物なんだと……思う」


 そのどれもは確証のないことではあったが、想像をするのは楽しくも思えた。


 おにぎりを食べ終わったヒメは、二人がジロジロと自身を見つめていることに気が付いた。


「変な物でも付いてるか?」


 きょとんとした表情で聞いてくるヒメに、二人はなんでもないと答えて首を横に振る。


 食べ終わったなら店入ろうぜ、とリサイクルショップを指差した苗島を合図に、二人は自転車を置いて店の中へと入っていく。ヒメも二人に続いて、リサイクルショップの中へと入っていった。

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