第二話「夏休みの過ごし方計画」(3/5)
3.
夜中の三時に体を起こしたのは、紛れもないヒメであった。
「トイレ……」
トイレの使い方は、晩御飯を食べた後に教えてもらっていた。そのおかげで問題なく用を足すことができたが、部屋に戻り布団の中へ潜り込むと、イワシのことが頭をよぎった。
「……イワシちゃん……心配してるかな」
地上を見てみたい気持ちはあったが、こうやって半日以上イワシちゃんや魚たちと離れたことは一度もなかったのだ。
「眠れないの?」
突然の声にびっくりして体を起こす。声の方向を見ると、指田は横になったままヒメの方を向いていた。
「サシダ……」
「イワシちゃんって何?」
しまった……ヒメはそう思った。唯斗との約束を果たすはずが、独り言を聞かれてしまった。
「えっと……その――」
なんとかして嘘をつかなくては、と慣れないことをしようとする。しかし、海の中では嘘をつくことがなかったので、ヒメはすぐに黙り込んでしまった。
「……記憶喪失じゃないよね?」
そしてまた、指田も勘が鋭いのである。唯斗が眠っている今、もはや逃げ場などないに等しかった。
「うぅ……そう」
諦めて本当のことを話すしかなかった。
「そっか……じゃあなんだろう。悪いことをされてたわけでもないんだよね? 体も綺麗だったし」
指田の問いに、ヒメはどう返そうか悩んでしまう。自身が人魚姫であることを教えてしまうか、しかしそれではイルカの怒りを買ってしまうだろう。それどころか、唯斗の言っていた大変なことが起きてしまうかもしれない。
「その……」
しかし、人間経験のないヒメにとって、これ以上のことはできそうにもなかった。結論として、ありのままを話すしかヒメにはできない。
「私……ニンギョナンデス――」
緊張でカタコトになってしまったが、その話を聞いた指田は苗島のようにはならず、えらく冷静に話を聞く姿勢をとっていた。
「……びっくりはしないのか?」
意外な反応に、ヒメも思わず聞いてしまった。
「うーん、びっくりはしたかなぁ。正直、それを信じろと言われると……なんともいえないかも」
指田の言っていることは当たり前の反応で、話だけでいえば嘘と思われるだろう。しかし、指田自身も噓をついているとは思っていない。どこか半信半疑であり、非日常的だということが認識を阻害しているのだ。
こうなってしまえば、ヒメにできることは残り一つであった。
「じゃあ――これならどうだ?」
確実にできるという保証もなかったが、あの時デブ猫に向かって行こうとしたら足が生えたように、泳ごうと思えば人魚の姿に戻れるのかもしれない。その可能性に賭けて、ヒメは海を泳ごうと気持ちへ心を切り替える。
その瞬間は、非現実が現実であることを指田の瞳に決定的に映し出していた。
人の足が引っ付いたかと思えば、瞬く間に一つの大きな魚の下半身となる。鱗を生やし、足首から先は尾ヒレに変わってしまう。その美しさは、作品や伝承で見るよりも遥かに上回る。
「どうだ」
ペタペタと尾ヒレを動かし、ヒメは指田の反応を伺う。ヒメは内心気まずく感じていたが、既に退くことはできない。
「あはは……これはすごいな。想像しているよりも実物で見た方がよっぽどいいや」
「人魚姫のことは、人間たちも知っているのか?」
「うん、世界的に見ても有名だし、日本でも全国で人魚に関するお話があるよ。特にこの地域は、人魚姫伝説が有名だから。中には、人魚姫は確実に実在する! なんて言っている人も居たけれど……まさか本当に居るとはね……」
困ったような表情で微笑む指田に、ヒメはとある疑問を浮かべていた。
「私が人魚姫であることがバレると、何か大変なことが起きるとユイトが言っていた。私はこれから大変なことに巻き込まれるのか?」
すると、指田は体を起こして真剣な表情で唯斗の話していたことの答えを語る。
「うん、百パーセントそうだね。全国で人魚姫のお話は存在すると言ったけど、ほとんどの人間はそれを信じてはいない。事実、私も信じてはいなかったし、唯斗も真司も信じていなかったと思う。そもそも生物学上はあり得ない話だから、間違いなくヒメの存在が世間にバレてしまえば、あらゆる研究機関に回されて、生かされるだけでも運が良い方かもね」
「つまり?」
「命が危ない。または、今まで通りの生活はできなくなる。海へ戻ることも、こうして私たちと会うこともできなくなるかもしれない」
それは困る、とヒメは訴えて。だよね、と指田も返してまた困ったように微笑んだ。
正直、指田自身もこれが酒に酔ったことによる幻覚や夢のようなものであると思いたかった。しかし、指田の酔いはすぐに覚めてしまうので、今は通常の状態である。
目の前のことが現実であるのならば、唯斗が必死に不自然な行動を取り続けていたのにも説明がつく。納得してしまえば早い話ではあった。
「ごめんね、海に帰してあげればよかったね」
気持ちを整理するためにも、まずはあの時の行動について謝るべきだと指田は考えた。
「なぜ謝るんだ? そもそも指田がその気なら、唯斗も真実を話せば済んだ話だろ」
「それができればこんなことにはなってないよ。私のタイミングが悪かっただけ」
そう言って指田は布団から離れると、眠り続ける唯斗を上手く布団に移動させて、上から薄い毛布を被せた。
「とにかく、それなら明日……日付変わってた。今日中には海に帰るのがベターかな。この事実を知ってるのは今のところこの三人……真司もか。まぁどちらにせよ、まだ間に合う」
「そのことなんだが――もう少しだけ地上に居たいんだ」
ヒメの提案に、今度は指田が首を傾げた。
「海に帰りたくないの?」
「海は退屈だからな。話し相手は居るけど、私と同じ存在はどれだけ彷徨っていても見つかることはない」
悲しげに下を向いて話し出すヒメを見た指田は、布団の上から一度立ち上がる。キッチンから氷を入れたグラスを二つ持ってきて、その中にビニール袋の中で常温放置されていた味わいカルピスを注ぎ、ヒメに一つ手渡した。
「なるほどね〜、寂しかったんだ」
「……」
アルコールで失った水分を補給するように、指田はグラスに入った味わいカルピスをゴクゴクと一気飲みする。
「確かに、自分と同じ立場の人間が側に居ないと、中々やってられないよね。私にもその気持ちはわかるわ」
「指田も寂しいのか?」
ヒメはグラスを持ったまま、同じ質問を指田に投げ返す。
「そうね、私も寂しいかな。だからこそ、放って置けない反面、どこかでそれを心の拠り所にしているのね」
指田はそれ以上を言わないが、その言葉はヒメにでもなんとか理解ができた。指田の目線が唯斗に向かっていたのだ。指田にとっての唯斗は、心の支えである。
「ユイトはすごいな。沢山のことを知っていて、他の人間の役に立っている。誰かに姫ともてはやされているだけの私とは違うな」
「ふふ、そうね。でも、ヒメちゃんにもすごいところはあるよ。人にはできないことができる。それって羨ましいことだよ」
ヒメは味わいカルピスを一口飲んでみると、これまた美味しいといった表情を見せる。
「私ね、昔は歌手を目指してたんだ」
「かしゅ?」
「歌を歌うの。いつか私の歌を、多くの人に聴かせてみたいなって」
「歌なら歌えばいいじゃないか」
「そう簡単じゃないのよね……。でも、こうして目の前にヒメが居るのを見ると、それだけで満足できちゃうかもしれない」
指田の言葉にヒメは首を傾げた。
「私は指田に歌を聞かせたことはないぞ」
「やっぱり歌うんだ、人魚姫って」
「その……なんで私と歌を被せるんだ?」
眉間にシワを寄せて傾げるヒメに、指田は天井を見上げて答える。
「私が歌手を目指そうと思ったのはね、人魚姫が原因なの」
「私が?」
「厳密にはヒメちゃんかわからないけどね。あるマーメイドの話で、うたを歌うの。その歌を聴いた人々が魅了されて、いつかしかその歌は、マーメイドが居なくなった後も人々の記憶と心に残り続け、愛され続けた。大まかに話すとこんな人魚姫の話もあってね。まだ小さかった頃、私もマーメイドみたいに人々の心に残るようなうたを歌うんだって。そうやって夢を描いていた」
指田の持っていたグラスの氷が溶けたことにより動き、カランっといった音を鳴らした。
「でも、夢の形はいつまでも維持することはできない。それどころか、夢を追うことすらも許されないことだってある。結局、私は大学にも行けなかった。でも、仕方のないことなのよね。だから、夢の始まるきっかけでもあった人魚姫が目の前に現れて、最初はどうしようかとも思ったけど。だけど、ほんとはちょっぴり嬉しい。夢の存在が、私の前に居るんだって。それだけで私の心にはずっと残り続ける。それも悪くはないなって」
指田の話すことを全て理解することはできなかったが、ヒメにとっては悪いことでもないような気がした。
「今度、私がうたを歌ってやろう。気が向いた時でいいから、私の歌ったうたを誰かにサシダが歌ってやれ。かしゅ? っていうのはよくわからないが、歌うことなら誰にだってできる。サシダが風呂で歌っていた鼻歌、今でも私の頭に残っているぞ」
指田はその言葉を聞いて、瞼を閉じて微笑んだ。満足したのか、グラスを端に避けてあるテーブルへ置くと、キッチンの方へと向かっていった。
少しするとすぐに戻ってきて、何やらバタークッキーを持ってきた。
「深夜に食べたりするものほど、美味しいものはないんだよ。ヒメちゃんも味わっていきな」
そうしてヒメの目の前に、一枚のバタークッキーが差し出される。カルピスとクッキーが無くなるまで、二人は他愛のない話を続けていた。
電気も付いていない。月明かりだけの部屋で、横で眠る唯斗を差し置いて二人だけの秘密の会話を繰り広げた。それはヒメの知らない恋の話であったか、職場の話であったか、魚の話であったか。楽しげに微笑み、小さく笑い合う二人は、明日のことなど忘れて会話に夢中になっていた。
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