第二話「夏休みの過ごし方計画」(2/5)
2.
唯斗たちがアパートに辿り着いたのは午後四時頃で、気が付けば太陽が段々と沈む準備を始めていた。
扉が開くと、スイッチを押す音の後に明かりがつく。ワンルームの一人暮らしを体現したかのような空間。古いアパートなため、床には畳が敷かれている。
指田も唯斗と同じで、両親は既に亡くなっている。指田を引き取った男は、十八になった頃に金だけを置いてここを出ていったらしく、唯斗はそれ以上の指田の過去については深追いをしたことはない。
ただ一度、サングラスをかけたガタイのいい男が一緒に居るのを見たことがあったが、あの男の正体がなんだったのかも今ではわからない。わかりたくないのだ。
「あなたはこっち」
いつも通りに部屋まで入っていくと、唯斗の後ろに居た人魚姫が突然、指田に引っ張られて脱衣所の方へと消えていった。
「タオルで拭いたからとは言え、海に落ちてたんなら体が冷えてるでしょ。お風呂沸かしといたんだから、まずは湯船に浸かってしっかりと体を温めなきゃ」
唯斗から見て脱衣所は扉が閉められており、こちらからは姿が見えない。聞こえてくる会話は普通で、本当に指田が善意で全てを行なっているのだと唯斗は安堵の息を漏らした。
やれることはないので、落ち着くためにも部屋の角に設置されたテレビを点けてテーブルを前に腰を下ろす。
指田のアパートは玄関から入って真っ直ぐに廊下があり、脱衣所、トイレ、キッチン、リビングがあるというシンプルなものだ。
唯斗は脱衣所の方から聞こえてくる話し声に耳を傾けようとしたが、流石に女性二人の風呂場に耳を立てるのもどうかと思い悩み、余計なことを考えないため、お笑い番組にチャンネルを切り替えた。
――一方その頃、服をされるがままに脱がされ、気が付けば人魚姫は風呂椅子に座らされていた。
「?」
「シャワーかけるよ〜」
指田がシャワーから出る水がお湯になったことを確かめると、人魚姫の頭の上から温か熱いお湯が降り注ぎ、わしゃわしゃと軽く頭をお湯と手で洗い流す。
その後、シャンプーで頭を洗われ、リンスも使われ、ボディシャンプーで体の隅々までゴシゴシと洗われ、泡だらけになった体を最後は全てシャワーで洗い流した。この間人魚姫はきょとんとしており、全て指田がヒョヒョイっとやってしまった。
「ほい、浸かる」
言われるがままに湯船に浸かる人魚姫。もはや人形も同然だが、唯斗の言っていたことを守って余計なことはしない、言わないを徹底していた。
「本当に何も覚えていないのね〜」
指田も人魚姫と同じように自身の体を洗い出すと、湯船に浸かる人魚姫を見ることもなく話し始める。
「キオクソウシツだからな」
「もはやそれは病院に行くべきではと思うのだけれど……今は目を瞑っておくよ」
シャワーで自身の体を洗い流すと、指田も湯船へと浸かり始める。あまり広くはないので、人魚姫の後ろから入る。人魚姫は背中に柔らかな感触が二つあるのを感じながら、指田に背を預けた。
「綺麗な髪ね〜。どこの子かな〜」
人魚姫の髪を触りながら、指田は鼻歌を歌い始める。実のところ、人魚姫自身にも自分がどこの子なのかはわかっていなかった。記憶がないというのも間違いではなく、気が付けば海に居て、魚たちに人魚姫と呼ばれるようになっていた。
湯船は温かく、冷たい海とは全く違った。温度も広さも、ここに居る生き物も。今まで人魚姫が生きてきた中では味わうことのない幸福な時間。退屈な海とは違い、その全てに興味が向く。
温かさと柔らかさに身を包まれ、人魚姫は海に居た時の自身の姿を思い出していた。
海という広く広大で、美しくも、虚しくも感じる寂しい空間。話し相手がいなかったわけじゃない。
「姫〜!」
朝、目が覚めるといつも隣には物好きなイワシちゃんが居た。沢山のことを知っているイルカさん、歌の上手なクジラさん、ダンスが得意なカニさん、恥ずかしがり屋のチンアナゴちゃん。
「姫! また姫に似合いそうな貝殻を見つけたよ!」
自分の群れを離れ、ある一匹の小さなイワシはいつも人魚姫の隣に居てくれた。孤立してしまえば戻れないかもしれないのに、イワシは人魚姫のことを姫と呼んでは、話し相手をしたり遊んでくれたりしていた。
海の中は広いが、人魚姫と同じ姿をした生き物は居ない。人魚姫にとってはちょっぴり寂しい海。
イルカからは、地上へは行くなと警告されていた。それは、人魚姫を守るためのことなのだと。人魚姫はなぜダメなのかを聞こうとしたことがあったが、取り返しのつかないことが起きるとだけ言われてしまい、話はそこで終わってしまった。
だからこそあの時、タイが人魚姫に助けを求めて叫んでいた時。いっそ地上をイルカに内緒で少しだけ見てやろうと、ちょっとした悪戯のような気持ちと好奇心でタイを抱きしめて大きくジャンプした。
あの決断のおかげで、地上が思っていたよりも面白いことが人魚姫にはわかった。面白い人間が居た、面白い生き物が居た。しかし、ここにはいつも隣で話しかけてくるイワシは居ない。
ちょっぴり寂しくも感じた。彼は今、どこで何をしているのだろうか。孤立している彼は、群れに戻ることもなく、どこかでひっそりと人魚姫を探しながら隠れているのだろうか。
申し訳ない気持ちがあった。だけど、もう少しだけこの場所に居たいとも思ったのだ。人魚姫は強欲な思いを胸に、気が付けばぽーっと天井を見上げていた――。
「――あれ?」
「大丈夫?」
天井がさっきまでと違った。湯船に浸かっている感覚もない。どうやら、人魚姫は脱衣所に出されて座らされていたらしいことに気付いた。
「のぼせてたみたいだけど」
「う……クラクラする」
「あはは……ごめんごめん。お水飲む?」
指田の提案に頷き、指田は体を濡らしたままタオルだけを巻いて脱衣所を出て行った。唯斗の変な声がした後、しばらくして水を入れたコップを持って指田が戻ってきた。
「ゆっくり飲んでね」
人魚姫は渡された水を勢いよく飲み干し、ふぅーっと大きく息を吐いた。
「サシダ、髪飾りはどこだ」
「ん? あぁ、これのことかな。綺麗な貝殻ね」
「私の友だちが見つけてくれた、大切な髪飾りだ」
人魚姫はそう言うと、髪飾りをいつものところへつけようとした。しかしその手は止められ、まずは拭いてからだと言われてしまい、体を洗われたようにまたタオルで体の水気を吸い取られてしまった。
ドライヤーの音に怯えながら髪を乾かし、歯を磨いて水を口に入れられ吐かされる。しかし全てが終わると、意外にもスッキリとしており、人魚姫は気分が良くなっていた。
白のワンピースを着せられると、やっと髪飾りをつけることが許された。
「何の貝殻だろうね」
「わからん」
ふふふっと小さく微笑んだタオル姿のままな指田に背中を押され、唯斗と一緒にゆっくりしてな、と言われて脱衣所を離れる。
右を向くと唯斗がテレビを見ており、唯斗が脱衣所から出てきた人魚姫に気が付くと、こっちへ来いと手招きされるがままに唯斗の横で腰を下ろした。
「なんで平面の中に人間が居るんだ?」
「テレビだよ。遠くの景色や状況を、水面や鏡のように映し出してくれる。だから、画面に見えてる人は目の前には居ないんだよ」
水面を鏡のように使ったことなら過去にあったので、その例え方であれば人魚姫にも理解ができた。
テレビの中に居る二人の人間は、人魚姫にとっては何やらよくわからないことをしてはみんなに笑われていた。唯斗に聞くと、芸人と教えられた。人魚姫はしばらく首を傾げていたが、昼頃の苗島と唯斗のおかしな会話を思い出して理解した。
おかしなことを話し合っているのを見ると、無性に笑いが込み上げてくる。芸人というのは、そうしてみんなに笑いを届けているのだと、人魚姫はまた一つ新たなことを覚えた。
「ユイト」
「どうした?」
「よかったらなんだが、もっと地上のことについて沢山教えてほしい」
人魚姫にとって、地上に出たこのチャンスを逃す手はなかった。自分と同じ生き物が沢山暮らしている不思議な世界で、唯斗からは沢山のことを得られた。海の中では味わえないことを、ドキドキもワクワクも。もっと沢山のことを教えてほしい。
しかし、唯斗にとっては嬉しいとも嬉しくないとも取れるものであった。それはあまりにもリスキーであるからだ。今は上手くいっているが、いつ、どこで人魚姫の正体がバレてしまってもおかしくはないのだ。できるならば今日中、できなくとも明日には海へ帰してあげたい。海へ返すと言えば、唯斗はあることを思い出した。
「そういえば、猫の時に言おうとしたこと。あれは結局なんだったん――」
なんだったのかを聞こうとすると、今回もまたタイミング悪く聞きそびれてしまう。
「よぉし、飯にするか〜」
聞こうとしたタイミングで、指田が着替えを済ませてリビングへ来てしまったからだ。
「指田さん、俺たち一旦家に――」
「何言ってんのさ。そもそも二人分の食費もないんでしょ?」
指田は唯斗のことを気にかけて定期的に家に来ていたので、生活が苦しいこともよく知っていた。
「……はい」
「じゃあ晩飯くらい食べていきなさい。なんなら久しぶりに三人も集まってるんだから、たまには部屋をぎゅうぎゅう詰めにして夜を明かしてもいいじゃん」
すると、指田が人魚姫にも向かって晩御飯を聞く。
「そっちもお腹空いたよね〜?」
「サンドイッチしか食べてない」
「おっけ〜。それじゃ、とびきり豪華で贅沢なオカズたっぷりの晩御飯で腹を膨らませましょう! コンビニのやつだけどね!」
そう言って指田はルンルンでキッチンへ向かい、コンビニの廃棄予定だった商品を取り出して、レンジに入れたり皿に盛り付けてみたり、既に調理をされているものをアレンジしたり、飾り付けでオシャレにしてみたり。工夫一つで、気が付けばテーブルの上には隙間がないくらいに豪華でそれっぽい品々が並んでいた。
冷蔵庫に冷やしてあった何本もの缶ビールを取り出して、テーブルの横に配置する。一本をテーブルの上に乗せて、唯斗によりキッチンから割り箸が調達された。
目の前に並べられたご馳走を前に、人魚姫も目を輝かせながらよだれを止められずに居た。
「さて! 手を合わせて――」
指田の掛け声と共に、二人も手を合わせる。
「いっただ〜きま〜す!」
「頂きます」
「いただきます」
机の上に並べられていたのは、酒の当てになりそうなものが多かった。元々、指田が今夜一人で酒を飲むために調達していたものなのだろうと、唯斗は推測した。
人魚姫は辛抱たまらんといった様子で、遠慮なく気になったものを手掴みで食べようとしたので、唯斗が慌てて止めに入って箸の使い方を教え始める始末であった。そんな様子を見ていた指田は大きく笑い始め、唯斗が指田の方を見ると横にはなぜか空き缶が一本転がっていた。
指田は普段こそ面倒見の良い常識人ではあるが、酒に関してだけは一般人もドン引きする早さで飲み干すことを得意としている。本人曰く、これが生き甲斐らしい。
「ぷはははは‼︎ フォーク持ってきてあげよっかー⁉︎」
「指田さん――どんなペースで飲んでるんですか⁉︎」
「あははー。あら、もう二本目無くなっちゃった」
「えぇ……」
「サシダの飲んでるそれは美味しいのか?」
「おっ飲んじゃう飲んじゃう?」
「ダメ! 姫――この子はまだ未成年なんですから!」
実際の年齢は知らないが、飲ませてはいけない気がした。それと同時に、姫という言葉を口走ってしまい唯斗も一瞬慌て出す始末だ。
「えー! この子ヒメって名前なんだ! かーわいー」
口いっぱいに頬張る人魚姫を変なテンションで撫で始める指田に、唯斗も、落ち着いて下さい! と止めに入る。さっきまでの静けさとは打って変わり、気が付けば騒がしい食卓で囲まれていた。
太陽は既に沈みきっており、星がポツポツと夜空のイルミネーションを飾っていた。アパートの窓からは海が見え、満月が海辺を照らしているのが見えた。
その内、アパートに住んでいる他の住人から苦情が来たことで指田を押さえることに成功して、なんやかんやで片付けなどをしていると、騒がしい夜は静かな夜に生まれ変わっていた。
畳の上に布団を二つ敷く。本当は三人だが、布団は二つしかないので仲良く分け与えることにしたかった。しかし、酔い潰れた指田が酷い寝相で布団を一つ占領してしまったのだ。
眠る前に一度外の空気を吸いに行くからヒメは先に寝とけ、と言って、唯斗はアパートから出て空を見上げた。ポケットからスマホを取り出してみると、時計は午後九時を指している。
「あいつまだ起きてるかな」
そう呟いて電話を繋げたのは、指田を前にして逃亡した共犯者であり、裏切り者であり、小学校からの親友でもある苗島であった。コール音が三回鳴ると、電話は繋がった。
「もしもし、唯斗か?」
「そうだよ。お前よくも逃げてくれたな」
恨み言を話すと、電話越しに苗島が手を合わせて謝ってくるのが容易に想像できた。苗島と初めて出会った小学校の時。ボールをぶつけられて、保健室で苗島が唯斗に向けて謝ったあの姿。今でもそれは変わっていない。
「悪りぃ! でも命の危機だったんだ。許してくれマイフレンド」
そしてそんな関係が、二人の通常運転だ。
「俺の命も危険だったんですけど……」
顔は呆れているが、心の中では笑っている。互いを知ってきたからこそ、本心は笑い合える。唯斗にとって友だちは多くはなかったが、苗島が居ればいいと思えるくらいに、二人には通じ合えるものがあった。
「それでさ、人魚姫の件なんだけど。実は今、指田さんのアパートで一夜を明かすことになっちゃってさ――ヒメも、もう少し地上のことを知りたいって言い出したんだ」
あの後何事もなく済んだことに驚いた声を出す苗島であったが、すぐに親友の相談を真剣に聞き始める。
「俺、どうすればいいと思う?」
「……オレは、唯斗のやりたいようにやればいいと思うぜ。だってさ、夏休みはこれからなんだぜ? なんなら、本格的な夏休みは明日からだ。言ったよな。勉強漬けで遊べなかった分、夏休みは楽しもうぜって」
苗島の方は、自室の窓から海を眺めていた。苗島の部屋は二階の右側にあり、家の前は雑木林だが、右側から見える窓の景色は海の見える構造となっている。
「オレさ、お前に楽しんでほしいんだよ。金とか気にせず、釣り以外でも遊べること。それこそ人魚姫なんて、非日常もいいところだ。それだけで夏休みを十分に過ごせる楽しみ方があるってもんだろ? こんなチャンス、二度と来ないと思うぜ」
苗島の話すことはごもっともで、唯斗も今回は苗島の話すことに同意することができた。
「……わかった。できそうならもう少しヒメの願いを聞いてみるよ。ありがとな」
「いや、オレは大したことしてねえよ。それこそマイフレンドを置いて行ってるし」
「道具もな」
ちょっとした迷いは、親友との会話で簡単に解けていく。そうして他愛のない話を少しだけすると、電話を切ってアパートに戻る。
布団の上でヒメは眠っており、ユイトの横になれそうな場所は壁際の布団も怪しいところであった。指田がもう少し横にズレてくれればしっかりとした布団の上で眠れたのだが、無茶を察してここへ泊めてくれたのだ。今更文句の言いようもない。
苦笑いと諦め、感謝とワクワクを胸に、指田の隣にある壁際に身を横にして眠りにつく。布団と畳の上で体を痛くしそうだが、これからのことを考えればそこまで気になるようなものでもない。
バイトまではまだ数日時間もあるので、ヒメのことをどうするかは明日決めることにした。
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