第二話「夏休みの過ごし方計画」(4/5)
4.
唯斗が目を覚ましたのは、二人の会話から五時間が経過した朝の八時であった。
窓から差し込む太陽の光が、仰向けで眠る唯斗の瞼を直撃したのだ。昨日は色々あったからか、体がドッと重い。なんとか瞼をあげて、体を起こそうと顔を自分の体に向けた時であった。
「は?」
自身の体の重みを理解したのだ。それは疲れではなく、物理的な重みによって感じ取っていた。クーラーの効いた部屋で毛布もかけずに唯斗の上に乗り、すやすやと眠るヒメが居た。
「え? え?」
昨日の夜の記憶がない。いや、存在はしているのだが、ここに至る経緯がわからないのだ。唯斗は頭を抱えた。あの日横になった後、自分はとんでもないことをしてしまったのではないかと。しかし、しばらくしてその悩みは解消されることになる。
「ん、おはよ」
歯ブラシを咥えた指田が脱衣所から現れ、何事もないように朝の挨拶をしてくる。
「あの、これはどういう……」
「唯斗あったか〜いって言って、ヒメちゃんが唯斗を抱き枕にしたまま眠り始めたんだよ。私じゃダメかと聞いたんだが、酒臭いと言われてしまった」
「でしょうね……いや、うん。取り敢えず何事もなくてよかった」
不要な心配を捨てて、唯斗はヒメを起こし始める。優しく手で体を叩いて名前を呼ぶ。しかしこの娘、眠りが深いのか中々起きないのであった。
「あーもう!」
肩を掴んでブンブンと前後に振り回し、無理やりヒメを起こそうとする。勢いに任せて垂れてきたよだれが、唯斗のシャツに付着する。それはまるで蜘蛛の糸のようで、くっついて離れない。
そんな状態を遠目に見ていた指田は、笑いを堪えながら脱衣所へと戻っていった。
「うぅ……」
無理やり起こされたヒメは、そのままの足で脱衣所まで向かわされる。眠気で動きのないヒメに、仕方ないなぁといった表情で指田が洗顔を手伝い始める。
唯斗の方は昨日風呂も入らずに眠っていたことを思い出し、シャツによだれも付いていたので二人が脱衣所を出るタイミングで風呂場を借りる。
お湯は抜かれておらず、追い焚きをしながらシャワーで体を洗い流す。晩御飯の時の二人もそうであったが、指田一人で住んでいるためシャンプーもどこか良い香りである。
体を洗い終わると、湯船に浸かり昨日の疲れを落とす。まだ時間が足りないのか、唯斗にとってはぬるい温度である。冬場であれば地獄であろうが、幸いにも今は夏。ゆっくりとヒメのことを考えるために、ほんの少しだけいつもよりは長風呂をしてみることにした。
「いつまでもここに居るわけにはいかない。今日中にここを出て、俺の家に連れて行くのがベターだろうか。姉さんも滅多に帰ってこないし……空き部屋もある」
となると問題は生活費になる。現状、親戚からの補助こそあるが、それでもギリギリの生活。ヒメの食べ方を見るに、少ない量で済ませることは難しいだろう。
「魚が食えれば釣りでなんとかなるんだが……あの感じじゃ食わないよなぁ……」
顔を半分湯船に沈ませ、ブクブクと泡を出して音を鳴らし始める。呼吸のために湯船から顔を出して、今度は天井を見上げる。
「苗島の協力を要請するか……。でも、何度も苗島だけに頼ることはできない。俺がバイトを多めに入れたとして、ヒメが一人で生活する時間が増える……増える……」
そもそもヒメを一人置いてバイトに行けるかといえば、それは不可能であった。
「どうすればいいんだ……」
一番良いのは、ヒメを一度海に帰して定期的に会っては遊びに出るという方法だ。退屈が理由なだけであれば、少しくらい海で待たせても問題はないと考えたのだ。事実、ヒメは何年も海で過ごしてきたはずだ。
「よし、一旦ヒメを説得してみよう」
そう思い立ち、風呂場を出てまずは体を拭こうとした。扉を開けた時、目の前には指田が居た。
「ごめんね、タオルが切れてた。新品の汗拭き用タオルでいいかな?」
全裸の唯斗に構わず、指田はタオルを差し出してきた。
「あ……はい――」
反応がないのがかえって恥ずかしい。唯斗は渡されたタオルで前を隠すと、指田は微笑みながら脱衣所を立ち去り、去り際に朝のパンは何がいい? と聞いてきた。
「……なんでも――」
「食パンの上に乗ってて嬉しいものは?」
「……たまご……です」
「おっけー」
先ほどまでヒメのことに悩んでいた唯斗は、一瞬のことで頭を白紙に戻されていた。汗拭き用の白いタオルには柄が描かれており、トマトが吹き出しで「とまと」と話している謎の柄であった。
◇◆
部屋に戻ると、ヒメと指田が仲良く話しながら朝食となるパンに乗せるたまごの焼き方を教わっていた。
「目玉焼きならこのまま焼いたらいいんだけど、スクランブルエッグはこうやってかき混ぜながら作る。私はふわふわよりも焼きが強めの方が好きだから、形が多少しっかりするまではフライパンで焼き続ける。出来上がったら――」
丁度いいタイミングでオーブンが鳴り、指田はヒメに向けてトーストを取り出すように言った。言葉の通り取り出すと、すでに敷かれていたキッチンペーパーの上にトーストを置く。そこへ指田がスクランブルエッグを乗せていく。おまけにマヨネーズを少しかけ、胡椒を振る。
出来上がった二人分のたまご乗せトーストを持って行くように指田が言うと、ヒメはキラキラとした表情で朝食をテーブルへ持って行く。
キッチンの横でその光景をぼーっと見ていた唯斗に指田は、先に食べて、と言った。どうやらオーブンに三つも食パンは入らなかったようで、今からもう一枚自分の分を焼くらしい。
感謝を伝えると、唯斗はお言葉に甘えてテーブルで待つヒメのところへ行き、共に座ると手を合わせていただきますをした。
「はむっ」
ヒメが大きく齧り付くと、キラキラとした目は更に輝きを増した。
「う――」
「う?」
「う――」
一口目を飲み込むと、ヒメは溜め切った言葉を吐き出す。
「うま〜い!」
「よかったね」
一つ一つが大袈裟で、しかしその反応を見るのは唯斗にとってはとても楽しく、面白かった。
「うん、美味しいです。指田さん」
「それならよかった。スクランブルエッグになったのはヒメの提案だ」
どうやら昨日食べたたまごサンドが気に入ったらしく、同じようなものを作れないか指田に聞いていたらしい。
「そういえば、ヒメと指田さんいつからそんなに喋るようになったんですか?」
キッチンに来て呆然としていた理由は、昨日よりも二人の仲が深まっているように見えたからだ。唯斗にとってそれは悪いことではないのだが、きっかけがわからないのは気になりもした。
「あぁ、実は昨日……というか日付的には今日なんだけど。深夜に二人して起きちゃってね。一時間くらいだったかな、少しだけお話ししてたんだ」
キッチンに居る指田によって説明がされると、唯斗は目線でヒメに向けて質問をする。
「……話したぞ」
「はぁ⁉︎」
チンっとトーストの焼けた音がした。
絶対に話してはダメだと堤防と路地であれだけ注意したというのに、唯斗にとっては頭を抱える事案であった。
「いやぁ、私も驚いたよ」
「指田さ――いや、そのこれは――」
「大丈夫だって、心配してることはわかってる。誰にも言わないよ」
指田の言葉に、慌てた表情の唯斗は少しだけ安心する。実際、指田に本当のことを話しても下手なことは起きないとは理解していた。それだけ信用はしていたが、事が事だけにそれでも言い出せずにいた。
「そう……ですか。よかっ――た……」
縛り付けていた何かが切れたように、唯斗の肩から力が抜けていく。これでヒメの正体を知る人間は三人となった。
「ヒメ……あれだけ言っただろ……」
「すまん……」
しょんぼりするヒメに、唯斗も溜め息を一度だけ吐いてエッグトーストに齧り付く。
「まぁでも、話した相手が指田さんでよかった。他の人には絶対にダメだぞ」
「おう」
本当に大丈夫なのかと、唯斗にとっては心配が止まらなくなる。事実、指田には話してしまっている前科がある。徹底的に側に居ないと、かえって危険な事がわかる。尚更唯斗だけバイトなんてもってのほかだ。
「なぁ、ヒメ」
「なんだ?」
指田はキッチンでエッグトーストを食べ始めており、二人の会話を静かに聞いていた。
「地上にもう少し居たいって話なんだが……俺たちも常時ヒメのそばに居れる訳じゃない。今みたいにヒメの正体を知っている人が居ない中で、誰彼構わずに正体をバラしたら困るんだ。それこそ、堤防で話していた大変なことが起きてしまう。そうなったら俺たちも止められない。だからヒメ、一度海に帰ろう。そして、俺たちが行ける時に海から出てこい。そうすれば正体を気にしなくても、地上を出歩くことができる。誤魔化しが効く」
現状できる最善手がこれであった。そして、最善手はとても簡単に却下されてしまった。
「やだ」
「なんで⁉︎ 命に関わることなんだぞ?」
「海に帰ったら……多分イルカさんに怒られる」
突然に海の生き物の名前が出てきて、唯斗は思い出したかのようにあることを聞きたくなった。
「その……ヒメって、魚とかの声が聞こえるん……だよな?」
「うん」
「イルカさんはいつも、どう言ってるんだ?」
「地上に出たら大変なことになる。二度と海へは帰れない。だから海から出るな。出たら怒る」
「すごいなイルカは……確かにその通りだ」
唯斗は感心していると、ヒメが困り顔で続けてこう言った。
「イルカさん、怒ると怖い」
「まさか――」
その言葉で、唯斗は海に帰りたくない理由を容易に想像することができた。
「イルカさんに怒られたくないから、海に帰りたくない……と」
指田がキッチンの方からそう言って、ヒメは気まずそうに頷いた。自ら陸に上がったというのに、ヒメは今更、海に帰るのが怖くなっていたのだ。
「えぇ……」
「これは中々……唯斗もすごいものを釣り上げたね」
「指田さん……俺どうすればいいですか……」
頼みの綱であった最善手は消え失せ、話は振り出しに戻ってしまう。
「ヒメを一人で居させる訳にもいかないし……。俺だってバイトもあるし……」
そんな唯斗の悩みごとに、指田はあっけらかんと答えた。
「一緒のところで同じ日に、同じ時間バイトすればいいじゃん」
指田の提案は、唯斗の想像を覆すものであった。
「ヒメをですか⁉︎ いや、これでバイトって――」
「バイトしてれば知れることもあるだろうし、実際社会経験は必要でしょ。学校に行ってるわけでもないから、人間関係もわからないだろうし。これも勉強の一つだよ。唯斗にとっても、誰かを育て上げる良い経験になる」
「いやいや、でも――」
「いいじゃん、夏休みなんだし。それもきっと楽しくなるし、素晴らしい夏休みの過ごし方計画だと思うよ?」
指田の提案は無茶でもあったが、一理もあった。しかし唯斗が悩む理由はもう一つあり、それは唯斗のバイト先のことである。
それこそ指田の掛け持っているバイト先の一つであるコンビニや、何かの手伝いであれば唯斗にもなんとか理解はできる。しかし、それを満たした上でもヒメを働かせるのには抵抗のある場所が一つだけあった。
「いや、その――俺のバイト先、アクアショップですよ⁉︎」
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