第一話「夏の始まり」(2/4)

   2.



「ただいま」


 唯斗の言葉に返事はない。家の中には誰もおらず、電気も付いていない。それもそのはずで、父と母は二年前に亡くなっていた。今、この家に住んでいるのは唯斗とその姉だけであった。


「姉さん、居る?」


 諦め気味に姉を探してみるが、唯斗の想像通りで家には居なかった。というよりも、長らく家には帰ってきていない。連絡もよこさない。


 遊び癖の悪い姉は、今日もどこかのろくでもない男の家に泊まっているのだろう。もしくは、ホテルにでも泊まっているのかもしれない。そんな予想は容易にできた。


 生活の金は、遠くに居る親戚が口座に振り込んでくれている。最低限ではあるため、唯斗自身もバイトをして生活費を稼いでいる。


 姉も働いてはいるらしいが、唯斗や家に金を使うことはない。それどころか、帰ってきたかと思えば香水臭いかゲロ臭い。水道代を無駄に使うだけであった。


 机の上に置いてあった自身の財布を手に取り、蓋を開いて中身を見る。


「うっ……残り二万ちょっとか……」


 いつもギリギリの生活。だからこそ、苗島の誘いは嬉しい部分もあった。道具は苗島が持っているので、実質タダで魚が手に入る。


「今月……魚だけで食い凌げるかな……」


 先のことが思いやられるが、考えても仕方がなかった。とにかく、釣りのための日焼け止めを買いに行く。今はそれだけを頭に入れて、着替えるため二階にある自身の部屋へ向かう。


 制服から白シャツと短パンの軽い服装へ着替えて、汗をかいていた顔に水道の水を両手で受け止めて勢いよくかけた。さっぱりした顔をタオルで拭き、余計な荷物は置いて家を出た。


 ――近くのドラッグストアで日焼け止めを買い終えると、自転車で苗島の家まで向かう。信号待ちの中、スマホが示す時計は十二時であった。


 空は澄み切っていて、アスファルトも焼けるように熱い。そういえば水分補給をしていなかったな、と思い出したが、余計な金も使いたくないので苗島の家まで我慢することにした。


 汗を垂らしながらも、唯斗は苗島の家まで辿り着く。目の前は木々が生い茂っており、塀の中にはそれなりに大きめな民家がある。二階建ての家で、瓦屋根や柱がその古さを感じさせる。家の左奥には、苗島の話していた倉庫がある。


 自転車を止めると、音に気が付いたのか右側にある縁側の障子が開く。中から顔を見せたのは、苗島の祖父である兵吉へいきちじいさんであった。


「おぉ、唯斗か」

「兵吉じいさん、こんにちは」


 頭のてっぺんには池ができており、周りに白い髪の毛が生えている。身長は唯斗や苗島と同じくらいで、一七〇に届くか届かないかである。


「そうか、もう夏休みか」

「はい、苗島〜来なかったですか?」

「真司なら、倉庫の方に何やら探し物探しに行っとったわ。その内戻ってくるやろ」


 兵吉じいさんとは、小さい頃によく遊んでもらっていた。唯斗が生まれる前に祖父も祖母も他界していたので、唯斗にとっては兵吉じいさんが祖父のような存在であった。


「釣り行くんか?」

「久しぶりに釣りに行こうぜ、と誘われまして。テスト勉強で死んでましたから、良い気分転換になるかなと」


 兵吉じいさんは頷くと、縁側に出てきて座り始めた。


「今日はようけ海の声が聞こえる」


 兵吉じいさんはポケットからタバコを出すと、一本取り出し咥えて、おもむろにライターで火をつけた。


「海の声……?」

「あぁ、海の声。儂が漁をやってた時はな、ようけ海の声を当てにしとった」


 兵吉じいさんも元は漁師であり、今は現役を引退している。


「勘……みたいなものですか?」


 不思議な言葉に質問を投げると、兵吉じいさんは首を小さく横に振ってタバコを吹かした。


「海の声は海の声や。昔っからこの地域は、海に魅入られる言うてな。海の声を聞けるもんが何人かおったんや。聞こえてくる声を当てにして漁をするとな、ようけ魚が取れたんや」


 海に魅入られる、この言葉に唯斗は聞き覚えがあった。


「人魚姫伝説……ですか?」


 ――人魚姫伝説とは、この地域に伝わる昔話であった。それは昔。世が、まだ江戸と呼ばれていた時代。この地域は、その頃から漁業が盛んに行われていた。


 今でも漁業がこの町のメインとなっているのは、この時代から受け継いできたものであった。


 しかし、何事もなく今日という日までこの町が続いてきたわけではない。その年、この地域は不漁に悩まされていた。作物も実らず、大飢饉が間近に迫ろうとしている。


 明日の心配をする人々を見た漁師たちが、ある提案をした。それはとてもシンプルで、いつもよりも遠い場所まで漁をしに行くというものであった。


 しかし、翌日には嵐が来るという。危険はあったが、食料も残りわずかだ。選択の余地などなかった。


 漁師たちは三隻の船を動かし、大海原を進んでいく。ある程度のところで網を撒いたりしてみるが、やはり魚は取れそうになかった。


 嵐が来る前に戻らなくてはならないが、このまま戻っても意味がない。船員たちは焦りを感じていた。


 太陽が沈み始める前に、三隻の船は港へ帰ることを余儀なくされた。夜になる前には港に着く予定だった。しかし、ここで想定外のことが起きたのだ。予定していた日を前倒しにして、大海原を進む船に嵐がやってくる。


 強風が船を押し、雨が降り始め、波は荒れ、船内に水が入り込んでは溜まっていく。船員たちも負けじと樽で水を掬っては船外へ放り投げる。港まではまだ遠く、終わりのない戦いに絶望する船員も居た。しかし、絶望はまだまだ序の口である。


 ガコンっと大きな音が、ある一隻の船から聞こえてきたのだ。直後、その船からは大声をあげる船員たちが、慌てた様子で何かを始めた。


「船が――‼︎ 船に穴が――‼︎」


 荒波の影響か、運悪く岩に船をぶつけてしまったらしい。二隻の船から見ても、浸水していく船を止められる様子はなかった。


「早く乗れ! 乗り移れ!」


 沈みゆく船に近付き、二隻の船は船員たちを助けようとしていた。だが、荒波がそれを許さない。接近しようにも波に押され、船が離れてしまう。


 ダメだ、お終いだ。船員たちは全てを諦めた。穴は塞がらず、塞ぐようなものもその船には乗せられていなかった。


 膝まで水に沈み出した頃、船に空いた穴から魚が一匹迷い込んできた。


「なんだ?」


 顔を下に向けたまま、穴の方に近付いた。その時――突如、空いた穴から大量の魚が噴き出てきたのだ。


「なんだ⁉︎ なんだ――⁉︎」


 大小多種多様な魚たちが、船に空いた穴を埋め尽くすように侵入してくる。船は重さに耐えきれず沈みそうになったが、魚たちが穴に集中したことで水の侵入口が無くなったため、ギリギリのところで船は持ち堪えた。


「水を外へ出せ!」


 一人の船員による掛け声で、呆然としていた船員たちは大急ぎで水を船外へと排出し始めた。排出中も、空いた穴は魚たちによって塞がれており、最終的に他の二隻の船に積んであった板を使ってすぐに修復がなされた。


 死と隣り合わせの中、船員たちが必死に船を直していると――気が付けば、嵐は過ぎ去っていた。


 先程までの慌ただしさも何もかもが嘘のように、一隻の船の船内には、溢れんばかりの魚がピチピチと跳ねていた。


 こうして命拾いした三隻の船は、無事に港まで辿り着くことができた。その道中、一人の船員が不思議なことを言った。


「声が聞こえなかったか? 女の話し声と……よく分からないけど、子供みたいな……。それも海から――」


 船員に女は居ない。不思議に思ったその船員は、声の聞こえる方を見た。


「あれは……人魚姫……? ――後に、そう語った船員の若者は人魚姫伝説を後世に語り継がせ、今でも人魚姫はこの町を守ってくれている。でしたっけ?」


 唯斗の話した人魚姫伝説に、兵吉じいさんは何度か小さく頷いた。


「そうや、人魚姫が儂ら漁師のことも、町のことも救ってくれた。それからはな、海の声が聞こえる言う輩が何人か出てきおった。そのどれもが必ず、魚をようけ獲ってきた。儂にも経験があってな。今でも時々、海の声が聞こえるんや」


 現実味のない話ではある。唯斗も話半分で聞いているが、兵吉じいさんが嘘をついたところを見たこともなかった。


「不思議ですね」

「江戸よりも昔から、なんていう言葉がある。儂みたいなもんを、海に魅入られた人やと、漁師の間ではよう言っとったんや」


 へぇ〜、と唯斗が頷く。兵吉じいさんの話が終わると、兵吉じいさんの後ろの襖から苗島が道具を両手と腕に挟んで現れた。


「唯斗、すまん待たせたか?」

「いや、兵吉じいさんが相手してくれてたから大丈夫だよ」


 唯斗が釣り竿などの道具を受け取ると、苗島は急いで靴を履き替えるために玄関の方へ向かう。


「まぁなんや、楽しんできい」

「ありがとうございます。兵吉じいさんも、熱中症には気を付けて!」


 手を振りながら、自転車のある方へ向かう。前のカゴに乗せれるものを乗せると、後ろから苗島も現れる。真ん中に柄の入った黄Tシャツに、グレーの短パンと、これまた派手さでは勝っているが唯斗と同じような服装だ。


 クーラーボックスを肩に引っ掛け、行くぞ〜! と意気揚々に歩き出す。クーラーボックスを肩にかけたまま自転車を漕ぐことはできないので、唯斗も苗島に合わせて、自転車には乗らずに横に並行して動かしながら歩き出した。


 後ろからその姿を眺め、塀で二人が見えなくなると兵吉じいさんは立ち上がり、襖を閉めて家の奥へと消えていく。


 人の居なくなった縁側では、風鈴が風に揺れてセミの鳴き声を背景に美しい音色を奏でていた。

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