無杖無詠唱の無双夢想

有機栽培無機質

第1話 偶然と屈辱の邂逅


 技術とともに時代は進歩する──。


 どんな人間でも呪文を詠唱すれば、さながら大魔法使いのように魔法を使える。そんな夢のガジェット「魔法の杖」の発明は、世界に大きな変革をもたらした。


 当初こそ文明の最先端、超高級品だった「魔法の杖」が一般に普及し長い長い年月が経過した。今や「杖」を持たない者などおらず、魔法は「杖」で使うことが常識となり、やがて「杖」なしでは魔法を使うことすら、今の人類には不可能となっていた。


 そんな中、はるか昔は魔法の使い方を伝授する場であった魔法学園もその在り方を変容させる。魔法とともに一般へと普及した魔法による戦闘競技……『ウィザーズ』の選手育成が、いまのその主たる役割である。





 ──聖アヴァラルド魔法学園。


 この学園が「かつての名門」と呼ばれることはない。長年にわたり強豪選手を世に送り出し続けるこの学園は未だ最前線。今日においても疑うことなき名門校である。


 そんな聖アヴァラルドではウィザーズの勝敗が如実に成績へと反映される。アスリート育成施設なのだから当然だが、それでも過剰というべきほどに。


 試合の勝敗は公式・非公式、学内外での実施問わず報告の義務を課され、勝ち星の数が成績全体の配点に「上限なく」加算される。極端な話、勝ちさえすれば授業に出なかろうが素行不良であろうが卒業できるシステムだ。


 かなり大味だが、強くなる最短ルートこそがこの学園の授業を受けることだと、学園生たちはすぐに理解する。それ故に名門は名門足り得る。『強者こそ正義』。弱者が淘汰され、強いものだけが卒業していく。それが聖アヴァラルドが優秀な人材を輩出し続ける理由だ。


「来てしまった………」


 はるか昔の時代、ひとりの賢王が築いた白亜の城塞にも似た宗教施設。それが現在の聖アヴァラルド魔法学園の校舎だ。


 改築を経ても当時の風情を残す校舎の外観は、ツアーにも組み込まれる観光の名所でもある一方、この学園、あるいはここでの学園生活にものに対しては並の建造物で持つこともできない厳格さを放ち、威圧する。


 この日は聖アヴァラルド魔法学園入学式の日……といっても、時刻はまだ早朝と言える頃。午前9時10分の開会まで、あと3時間もの余裕がある。


 そんな時刻に校舎を前に佇む青年がいた。青い顔をして、胃のあたりを押さえながら校舎の圧と戦っている。


 新入生である彼はさまざまな恐れと不安で一度は背を丸くするが、すぐに振り払うように頭を振り、姿勢を正す。こちらを睥睨する学び舎を彼──アルト・ラインはキッと真っ直ぐに見つめ返し。


「……………ッ」


 また胃のあたりを擦った。








    ✣







 

 開会まであと20分。会場へ向かう新入生たちの数はピークに達していた。


 例年通り父兄たちの参観は不可。新入生たちは見送られることもなく、自分たちのその足で会場である講堂へと向かう。期待に胸を膨らませ、あるいはこの先への不安を抱えながら、真っ直ぐに、着実に歩みを進めていく。


 中庭を通り抜ける真新しい制服たちが陽光を受け輝く。上が白のブレザー、胸元には重なり合う2枚の羽根をデザインしたエンブレム。シャツは白、タイは赤。下は黒のスラックスであったり、ホワイトのラインが入ったスカートであったり、様々。


 皆が皆、ぱらぱらと好き勝手にまとまりなく進んでいく。しかし統一感のあるその服装と、進んで行く同じ道とが、彼らはこれから苦楽をともにする仲間であり、また同時に己が強さを誇示するべく倒すべき好敵手であることを示していた。


 ──そんな中。


 白い制服のなかにポツンポツンと、黒のブレザーを纏った生徒が片手で数えられるだけのごく少数、混じっている。心做しか白い制服のものたちからは若干距離を置かれており、色だけではない異質さが醸し出されていた。


 その黒ブレザーのうち、ただひとり白い制服と並んで歩く少女が居る。


 目を留めるなというには無理がある容姿。万人が見れば万人が美少女と評するであろう彼女は……やや不機嫌そうに腕を組みかえ、首を横に振った。


「えっ、クローニャさんが新入生代表じゃないんですか」


 同じ1年生であるはずにも関わらず「さん」付けで呼ばれた彼女は、ちょうど指先あたりに降りてきている黄金色のツインテールの片方を、人差し指と親指とで擦るようにいじりはじめた。


 彼女の機嫌が悪いときの癖である。それを見た横の白い制服の女子は、

「あっ、すみません、意外で、つい」

 ……とぶつ切りの単語で謝罪を述べた。


「ワタシも意外だわ。想定外ってのが的確かしら」


 右の瞳が夕焼けのような橙色。左の瞳は髪色に似た実った小麦の色。長いまつ毛を不機嫌そうに瞬かせ、猫目の奥のオッドアイを横を歩く友人……というより付き人に向けて、少女・クローニャ・ミスタリアは口を開く。


「筆記は満点」

「はい……」

「実技試験もまあ、悪くなかったわ。他所の会社の杖を使ったにしては上出来だった。事実、試験官相手に勝利してる」

「はい………」

「『黒服』も貰った。特待生に選定されたってことにもなる」


 選ばれて当然だけど、と付け加えるクローニャの態度は高飛車ではあったが、ここまでで彼女が口にした内容に一切の虚偽も虚飾もない。すべて事実で、だからこそ付き人の少女・セクレタは


「はい……………」


 と人より太めの眉をハの字にしたまま、元より愛想の良い顔に愛想笑いを浮かべるしかできない。


「でも代表じゃなかった」


 柔らかな毛先をいじるのをやめ、クローニャは顔をしかめる。


「ワタシが一番では無かったってこと」


 彼女の高い自尊心は、毎年学年成績上位5名にのみ送られる特待生の称号、そしてそのことを示す黒のブレザーを得てもなお満たされなかったらしい。


 胸の下で組んだ腕。細い指が神経質そうにトントンと動く。


「まあ逆に。家柄だけで評価する学校じゃないってのは分かったから、そこは安心かしら」


 ふぅーーーー、と深い息を吐き、再度クローニャの視線は横へ向かう。そこにいるのは叱られる前の子どものように縮こまってしまったセクレタだ。


 ──またやってしまった。


 少々短気でキレ性。彼女の悪癖だ。


「ごめんね、ちょっとピリピリしちゃってたわ────」


 気を静めたクローニャが、セクレタに向かってはにかんだ瞬間。


 するん、と。

 何者かが引っ張り下げ……彼女のスカートが……………脱げた。


 一瞬にしてその場が凍りつく。


 あられもなく周目にさらされる、形で良い臀部を覆うかなり攻めたデザインの黒の下着。そこから伸びるすらっとした白い太腿。黒のニーハイソックスと下着と肌とが織りなす完璧なモノクロのコントラストが現出する。


 あるものは状況を理解できずただ立ち止まり、またあるものはその光景をしかと脳裏に焼き付けるべく、立ち止まった。


「痛ぇ……ごっ、ごめんっ、急いでて………転んで───」


 そう声がしたのは彼女の背後。


 たまたま入学式会場に向け急ぎ焦り走っている中、たまたま何もないところで躓き、たまたまその拍子に前にいた女子生徒のスカートを脱がせた男が、そこにいる。


 それが………アルトだった。


 身を起こしながらクローニャの゙あられもない姿、美少女が生み出すこの世の絶景を見上げた彼は、


「────ありがとうございます」


 わけがわからなくなり感謝を述べた。

 

「……………ッ、~~~~~~~~ッッッッ、、ッ!?」


 状況を理解したクローニャは耳まで真っ赤になりながら地に落ちたスカートを目にも止まらぬ速さで履くと、完璧なフォームから繰り出されるローファーでのトゥーキックで、アルトの顎を見事に蹴り抜いた。


「~~~~~~ッ、死ねッ!」


 叫ぶように吐き捨て、そのまま今にも噛みつきかねない鋭い視線をあたりに飛ばす。


 硬直していた周囲の新入生は威圧されると同時にそそくさと距離を取り、ついでにセクレタも小さな悲鳴を上げ走り去ってしまった。


 その場には彼と、彼女だけとなる。


「………マジでごめんなさい……わざとじゃ………わざとじゃないんです…………」


 謝罪とともによろよろと立ち上がるアルト。


 あろうことか彼も『黒服』。彼女と同じく特待生。


 クローニャはわなわなと怒りと羞恥に震える。脱がされたことだけではない。眼の前の阿呆な人間が自分と同じ色の制服を着ていること……それに蹴りを受けながら平然と立ち上がったこと、そのどちらもが頭に来るのだ。


 くまの目立つ目元と黒縁のメガネ。ボサボサの髪。見るからに頼りない雰囲気で、それ以外取り立てて言い及ぶところのない冴えない男。


 そんなものと同列で。

 

 ……そんなものに辱められ。


 ………気絶させるつもりで入れた蹴りを、耐えられた。


 既に沸点は超えている。やかんが音を鳴らすように。


「わざとじゃなかったら!! あんなことなるわけ無いでしょ!! 恥を知りなさい! 阿呆!!」


 怒りに任せ、目くじらを立てて怒鳴り散らす。当然の権利であるし、何ならもっと言ってやっても構わない。


「本当にごめん……」

「ごめんで済むわけ無いでしょ!?」

「はい…………」


 一度は去っていた周囲の人間も、今度は野次馬となって二人の問答を見物しはじめた。


「その……腹が痛くて…………。トイレ、籠もってて。しかもこの学園、教室とか多いし、迷っちゃって。そのせいでリハーサルに遅れててさ」


 ぴくり、クローニャが反応する。


「それで焦って転んで。ごめんっ、本当に悪気はないんだ、脱がそうと思ったわけじゃない」

「………リハーサル?」

「? ああ。入学式のリハーサル。俺挨拶しなきゃいけないらしくて」

「………………新入生代表挨拶?」

「それだよそれ。こんなの人生始めてでさ、そのせいで緊張してて。ッ、腹が……」

「─────」



 ぶちっ



「────お前みたいなのに……負けた?」


 千切れた。


 クローニャの、人より脆い堪忍袋の緒が。


 徐ろに、彼女は腰に携えていたケースから一本の棒を取り出す。


 オーケストラ演奏で指揮者の振るう指揮棒に似たそれが、彼女の「魔法の杖」だった。持ち手に描かれた金の猫の装飾がきらりと光り、それは狂気の色を纏いつつ彼女の瞳にそのまま宿る。


「なっ!? おいまさか」

「………ウィザーズ。ワタシとしなさいよ。【宣戦布告】するわ。『防御展開』。さぁ、3……」

「だからっ、俺時間がっ」

「2………逃げれば敗北扱いだけど。1……いいのかしら。早々に黒星つけて」

「……………あーもうっ」


 やむなく身構えるアルトだが、出遅れる。


「0。『上がれ』」


 彼女が言葉と同時に「魔法の杖」を振るうと、まるで見えざる手が彼の体を摘むようにしてアルトの体は宙空に浮いた。


 困惑する暇すら無いうちに彼の体は重力に従って落下し、べしゃりと石畳へと叩きつけられる。


「『燃やせ』、『強く』」


 すらすらと連続して行われる次の詠唱によって、「魔法の杖」に記憶された魔法がそれ自体により指し示された座標で実行される。


 アルトの周囲は瞬く間に、荒々しく燃え盛る紅蓮の炎に包まれた。


 物体が宙を浮き、純粋な炎が火種もなしに出現する……これが魔法。


 駆け巡り立ち上る灼熱は轟々と音を立て、その威力を目にも耳にも知らしめる。わずかに残っていた野次馬たちが一斉に2、3歩後ずさった。


 たった二言。極めて単純かつ簡略化された詠唱から、これほどまでの魔法の火力。それを実行できるだけの「杖」の性能はもちろんだが、何より恐ろしいのは。


「いっつ、あっち、いっ、いきなりお前っ、俺を殺す気かッ!?」

「…………いいえ」


 怒りの中でなお研ぎ澄まされる、クローニャの冷静さ。


 殺す気だったらとっくに殺せている。それが魔法という、自然法則を無視した超常の力。当然「杖」にも安全装置セーフティは組み込まれているがそれでも、だ。


 怒りに飲まれ力を振るうだけなら子供でもできる。それをしないのみならず、やや乱暴ながらも【宣戦布告】という「正当な手順」で魔法戦闘競技ウィザーズを開始した。彼女は、既に一介のアスリートとしての(本当に必要最低限ではあるが)責任や倫理を持ち合わせているのだ。


 生来のものか、もしくは教育の賜物か。根が短気かつキレ性なのは確かだが、クローニャは今日学園に入学するばかりの年端も行かない少女であることも確か。にも関わらず、一時的な感情に流されず力に溺れないその精神性。弱い自分に腹を立て、それすらエネルギーに変え上を目指す向上心と克己心。クローニャ・ミスタリアにはそれがある。


 あるからこそ、戦いの中の彼女は魔法とは対極、冷え切った氷河のように冷静だ。魔法でアルトを持ち上げたのは数メートル。折れても骨の数本程度。燃やしたのはアルトの周囲。アルト自身ではない。スポーツなのだから、怪我は負わせても命を奪うことはしない。


 それにここまでの二撃は小手調べに過ぎない。彼女の中にふと湧いた推測の検証のためのものだ。護身術を身に着け、それなりの破壊力を誇る彼女の蹴り。それを耐えてみせたアルトの防御力が、クローニャの目には不自然に映ったのだ。


 思考の中、仮説がひとつ立証される。


①蹴りを耐えたこと、またその寸前に詠唱がなかったことから、相手は既に何かしらの防御魔法を展開している可能性がある


(………防御魔法。やっぱり張ってるとしか考えられないか……。)


 アルトは落下後すぐに立ち上がり、常人なら悲鳴を上げる熱に耐えている。何らかの方法で防御しているのは確実。


 自分に害を及ぼす衝撃や温度変化などを遮断する魔法は、クローニャもいくつか知っている。ウィザーズ開始前の3秒で展開するのが定石であり、ルールでも奨励されているが……それを常に発動しておくというのも、彼女は己の身を守る術として教わったことがある。


 クローニャは怒りながらも思考は決して止めない。むしろ、頭に血が上ることが冷静さを加速させる起爆剤ともなり得る。キレればキレるほど頭もキレる……そんな厄介な性質を彼女は持っていた。


「一応は特待生、黒服なだけあるわね。でも」


 もし防御魔法を展開していた場合。


②はじめから戦闘を想定していた可能性がある

 更には、

➂怪我を防ぐ目的ならまだしも、温度変化まで防いでいる場合、はじめからウィザーズをふっかける前提だった


 ということになる。


 点と点が線で繋がり、クローニャは奥歯を噛み締め眉間にシワを寄せる。


(こいつのすべてが演技、打算──!)


 彼女のスカートをずり下ろしたのも、彼女が短気なのも、激昂し戦いを挑むのも、眼の前の男の計算のうちで、すべては仕組まれた戦い。


 おおよそ自分の出自を知り、喧嘩を売りに来たのだろう──怒りの中クローニャは冷静に、しかしほぼ根拠はなく勝手に結論を導き出した。


「いいわよ……その挑戦、乗ってあげる」

「何の話!?」

「『勝てば正義』なんだもの、そうやって潰そうとしてくるやつだっている……恥をかかせてくれたお礼、味わいなさい」


 沸騰しいっぱいになった蒸気を吐き出すように、彼女はふぅーーーーーっ、と息を吐く。


「だから、何の何の何?!」

「『燃やせ』、『もっと強く』!!」


 質問への回答はなく、再び「杖」が振るわれた。火勢は増し、空気が熱され景色が揺らぐ。燃え揺らぐ炎はやがて繭のようにアルトを包みこんだ。


「『輝かしく』ッ」


 炎は次第に明るいオレンジ色から赤色へ、そして地に近いところから青色へと変化していく。


 炎の隙間、確かに苦悶の表情を見せる彼がいた。


「謝っても許してあげないっ」


 握りしめた拳を震わせ、彼女は言う。


「アナタにはワタシ以上の恥をかいてもらう。入学式前、史上最速の敗北! 最弱の黒服、いいえ最弱の1年生として、歴史に刻まれなさい!!」 


 ──勝った。クローニャはそう思った。


「全面的に俺が悪い……だから何されても文句は……あっちぃ、いいや、だけど……」


 アルトの呟きだった。


「これもウィザーズ、なんだよな……………」


 呟きだったゆえに轟炎にかき消され、クローニャの耳には届かない。


「ごめん、知らない人。俺───勝たなきゃ、だから」


 灼熱の向こうで彼が手をかざした気がした。


 その手に「杖」はない。


 そもそも、クローニャはアルトに杖を持たせる時間は最初の「【宣戦布告】からの3秒」……ルールで定められた最低限しか与えていない。


「もう終わらせる。『特に強く』『燃やし』『終われ』ッッ」


 最後の一手、杖を振るうために右足を踏み出そうとして、彼女は気づく。


「───つ、めたい……?」


 凍結している。


 右足が。


 左足も。


 石畳から氷が「生えて」、彼女の下半身の動きを完全に封じている。見ている間にも氷は覆う面積を少しずつ広げる。


(氷魔法、いつの間に?!)


 気を取られた瞬間のこと。


「『杖』を地面に捨てて。降参するんだ」


 そう聞こえたかと思うと、炎の繭、つまりアルトの直上にいつの間にやら形成されていた……莫大な体積の水の玉がすっぽりとクローニャが放った炎の魔法を覆う。


「っ、しま………っ」


 そうして、爆発する。


 水の玉は炎とともに霧消し、爆風があたり一面に白色の水蒸気を運ぶ。クローニャは目を開けてすらいられず、立っているのがやっとだ。


「くぅっ、うう……」


 暫くして吹き抜ける風が水蒸気をさらい、視界が開けると──彼は既に目の前まで来ていた。


 水を被りずぶ濡れのアルトは、どこか不服そうな顔で、ぴったり張り付いてしまった髪を両手でかきあげながら立っている。


「『燃え』──っ」


 詠唱しかけるクローニャだったが、状況の不可思議さがそれを止めさせた。


「なんで」

「ごめん、俺氷魔法得意だから、咄嗟で。女の子だから……痕とか残ったら……だし。すぐ解くよ、だから『杖』を捨てて、降参してほしい」

「なんで……

「降参してくれ」


 何かを制すように、アルトは手のひらを前へ掲げた。


「しないっ。『上が──」


 ──ガツン、とクローニャの手首に氷の礫が勢いよく衝突した。しっかりと握りしめられていた彼女の大切な「魔法の杖」は、乾いた音を響かせて石畳に落ちる。


「…………え……、え……?」

「気高いんだね、君は」


 混乱したクローニャはついに冷静さすら欠き、再び起きた不可思議に最早恐怖した。


 夜の闇の中にある得体のしれない恐怖を見つめる、幼児のような怯えた瞳を、アルトへ向ける。


「…………詠唱、は?」

「………」


 アルトはポリポリと頭を掻き、

「してない」

 とそっと告げたあと、クローニャの足元の魔法の氷を解き、そのまま彼女に足をかけてすっ転ばせた。


 悲鳴すら上げず前のめりに倒れた彼女は、当然の反射でその姿勢になる。「杖を手放し両手を地につく」姿勢──ウィザーズの降参条件を、彼女は満たしてしまった。


 近づいた石畳の隙間。そこに詰まった砂粒すら数えようと思えば数えられる距離。動揺と混乱が過ぎ去り、クローニャの中にはたった二文字が思い描かれる。


 敗北


 彼女の耳を音が通り過ぎる。


「あの……スカート、わざとじゃない、です。これは本当だから。またあとで……ちゃんと謝るから。ごめん」


 通り過ぎて、それだけ。


 一方的にそれだけ告げて、アルトはまた胃のあたりを押さえながら駆け足で入学式会場の講堂へと消えていった。


 四つん這いで体を支えるクローニャの左腕で時を刻む腕時計は、開会15分前の時刻を示していた。


「たった……」


 たった5分。

 その間に繰り広げた攻防と、第三者が見ても明らかな勝敗。


「…………負け………………」


 彼女が立ち上がれるのは、もう少し、時間が経ったころのことだ。



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