みずたまりダイブ
やまこし
みずたまりダイブ
小さい頃から、とにかく雨が苦手だった。濡れると寒いし、なんだかうざったい。作ったてるてる坊主となくした傘の数は知れない。なのに、お姉ちゃんだから、小学校高学年だから、中学生だから、高校生だから、と大きくなるにしたがって「我慢する理由」ばかりが増えていく。だからいつのまにか、我慢することを身につけてしまった。言いかけた言葉は飲み込むし、ほしいものを聞かれても「ない」と言うようになったし、雨の日も歯を食いしばって出かけるようになった。
ほんとうに、そんなこといつから覚えたのだろうか。
二十七歳になって数週間経ったある日、季節外れの大雨が降り続いた。
テンションを上げるために購入した、キラキラと光を反射するような素材の傘と、大好きな色である晴れの空色の雨靴を履いて会社に出かける。朝起きた時は低気圧で体が重く、20秒だけ会社を休む言い訳を考えたが、同時に頭によぎった積み残しの仕事が体を布団から引き摺り出した。結局、いつもより3分くらい早く玄関の鍵を開けて外に出ることになった。扉を開けると風がびゅーっと吹いた。改めてゲンナリするくらい、大雨が降っている。
下を向いて、大きなみずたまりを踏まないようにそっと歩く。大きな車が脇を通り過ぎるとき、水をはねて服にかかる。いつもより腹が立つ。なぜだろう。わからないけれど、駅までの道をひたすら歩く。右足を出して、そのあと左足を出して、もう一度右足を出して、そして左足を出すと、不思議なことに前に進んでいる。ああ、こうやっていつのまにか会社に着いてしまうのだ。そんなつまらないことを思いながら歩いていると、ぐずぐずしている小さな子どもと父親の二人とすれちがった。子どもは朝が苦手なのか、大きな声で泣きじゃくっている。父親が懸命に理由を聞く。怒りを抑えて、感情的にならないようにしているのがこちらにも痛いほど伝わってくるくらい、とても丁寧に、目を見て聞く。
「何が嫌なの?どうしたいの?」
「雨がほっぺにあたるの!」
たしかに、雨がほっぺにあたるのは、自分だって嫌いだ。
二十七歳の自分だって嫌いなのに、「雨がほっぺに当たるからいやだ」と口にしたことは一度もなかった。
はたと立ち止まる。
自分は気付いたら大人になっていた。心が追いつかないくらい、社会的には大人になっていた。
雨がほっぺに当たらないように、大きくてキラキラの傘を買うことができるようになった。
足が濡れて冷えないように、雨靴を買うこともできた。しかも、大好きな晴れの空色のやつ。
おでかけの予定をずらすこともできるようになった。
言い訳を考えないで会社を休んでもよくなった。
自分は、なんでもできるようになったのに、そのかわりにと我慢ばかりしている。
雨がほっぺに当たるのは、嫌なんだよね。
雨がほっぺに当たるのが嫌で、
雨がほっぺに当たらないようになってほしいの。
体がだるい日は、積み残した仕事のことは忘れて休みたい。
甘いものをいっぱい食べたい。
あたたかいお布団にくるまって、恋人と一日中ハグしていたい。
泣けるドラマを一気見していっぱい泣いて、好きな具材だけが入ったカレーを作りたい。
食べきれなかったカレーは明日の昼用にタッパーに詰めておきたい。
そしたら恋人が明日の昼はカレーうどんにしようって言うんだ。
いいね、とカレーうどん二回分くらいの量を取り分けるの。
そうして気づく、明日も仕事を休むってこと?
恋人は笑う。そういうことだ。
自分は、ただそんなことがしたいだけだったのに、なにを会社にてくてくとむかっているのだ。
振り返って、ちいさな背中を見つめる。
なあ、少年か少女。
よく聞いてほしい。
おとなになっても、雨がほっぺに当たるのは嫌なんだ。会社にいきたくなくなるくらい嫌なんだ。
でも、なぜか我慢ってやつを覚えてしまうんだ。たまにめちゃくちゃ邪魔なやつ。
今日、大人なのに、我慢は邪魔だと思ってしまったんだよ。
ポケットからスマホを取り出して、仕事で使用しているメッセージアプリを起動する。まだ始業の一時間以上前だというのに、昨日から未読が二十四件も溜まっている。しったこっちゃない。上司とのトークを表示させ、勢いで入力する。
「すみません、本日体調不良のためお休みいただきたいです」
送信ボタンを押した瞬間、既読がつく。そして「OK」という文字と、ネコのキャラクターが指でOKマークを作っている絵柄のスタンプが送られてくる。
こんなもんなのだ。仕事というのは。
なあ、少年か少女。
いっぱいの我慢はしなくていいんだぞ。来年も、再来年も、十歳になっても、二十七歳になっても、ほっぺに雨が当たるのが嫌でいいんだからな。
二十七歳の君だと思ってくれてもいい、なあ、見ててよ。
みずたまりに思いっきり飛び込んでみるからね。
だって、やってみたくなっちゃったんだもん。
ぼちゃん。
みずたまりダイブ やまこし @yamako_shi
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