空音
サトウ・レン
空音村のこと
この世界に生まれ落ちて、まだ間もなかった。
はじめて光を見つけた時、そう僕は幼かった。
射しこむ眩い光は、現実にはなかったものだ。
物語の世界で、僕はそれを見つけてしまった。
美しい光に憧れた自分を思い返してしまうと、
こんなものを、僕は見たかったわけじゃない、
と、うそぶく自分の心が口を閉ざしてしまう。
絵本だったか、あるいは、児童小説だったか、
いまとなっては稚拙な脳みそは覚えていない。
だけどあれは確かに、どこまでも物語だった。
どうしても物語でなければいけなかったのだ。
不確かにぐらんぐらん、と揺らぐ世界の中で、
何よりも確かな世界の真実を見掛けたようで、
それだけが、僕の、生きるすべとなったのだ。
見えている世界の、何を投げうったとしても。
それだけが、僕の、守るべきものだったから。
彼女が僕のいる世界に戻ってきたのは、ぽっかりと穴の開いた七月を終えてすぐのことだった。半袖のTシャツに、首にはタオルを巻いているその爽やかさは、からりとして暑く、蝉時雨の降る季節には似合っていたけれど、それまでの彼女の行いを考えると、その爽やかさこそ不似合いだった。別にじめっとした彼女を望んでいたわけではないけれど。
「ごめんね」と謝る気のないようなおざなりな謝罪のあと、彼女がほほ笑む。「そろそろ、久し振りに会いたいな、って思って」
「どれだけ心配したと」
「心配してくれたんだ。嬉しいな」
「当たり前だろ。どうして心配しないと思うんだよ」
「私にとっては当たり前じゃない、ということだよ」
そうやって僕の神経を逆撫でするような言葉を続けるのが彼女らしい、と思いつつ、だけど今回に関しては僕もすこし本気で怒っていて、ただそれ以上にほっとしていたのだ。彼女が、僕の心をぐちゃぐちゃにしてくるのは、いつものことだ。
と、こんな会話をした三日後、また彼女が姿を消した。
というか、そもそもの事のはじまりはなんだったのだろうか、と改めて考えてみる。事のはじまりを考える、というのは、思いのほか、難しい。だって、ここからがスタートだよ、と誰かが明確な線を引いてくれるわけではないから。だから、ここかな、って場所を自分でなんとなく決めて、なんとなく引くしかできない。
はじまりは、そうだな。
やっぱり彼女が姿を消した、一度目の日のことからだろう。
リムア。それが彼女の名前だ。漢字では、理夢亜と書くのだが、彼女はいつも自分の名前を書く時、漢字ではなく、片仮名で書く。公的な書類以外では。あまり彼女の公的な書類を見たことがないので、そんなに自信はないのだが。
だから僕も頭の中で、『リムア』と片仮名に変換して、彼女の名を呼ぶことにしている。
リムアは同棲中の僕の恋人だった。
六月の終わり、彼女は突然、姿を消した。突然、と言っても、大概のことには前触れのようなものがあったりすると思うのだが、僕にとっては本当に言葉通りの突然で、失踪を予期させる前触れがひとつも思い付かなかった。彼女のいなくなった日、湿った生温い空が、長く雨を降り落としていたのを覚えている。
喧嘩なんてしたこともなかった。完璧ではないにしても、それなりに仲は良好だった、と思う。
もしかしたらリムアはどこかで事故に遭い、誰にも見つからないまま、と昏い想像がよぎることもあった。
結局いくら考えても、頼りにできるものが蜘蛛の糸ほどもない状態では、どうすることもできず、彼女がいない間、ずっと彼女のことを考えていたわけではなく、彼女がいなくても、世界は回っていて、僕の生活は続いていく。
俗世から身を完全に切り離して、
仕事も行かずに、彼女のことだけを想えるほど、
僕は孤独な暇人ではなかった。いや、孤独な暇人ではない、と信じたかった。
それでも、
僕はそこまでの冷血漢ではなかった。いや、そこまでの冷血漢ではない、と信じたかったので、ひとりでいる時はつねに彼女のことを考えていた。すくなくとも寝ている時以外は。
「私の住んでいた村では、ときおり、ひとが消えるんだ。まるで神隠しに遭ったみたいに。何の脈絡もなく、突然。怖いでしょ」
ふとそんな彼女の言葉を思い出したのは、七月も半ばに差しかかった頃だった。
彼女との記憶をぼんやりと辿っていた時、古い記憶の中から取り出した言葉だ。彼女と出会った大学時代、まだ付き合ってもいなかった頃に、彼女から聞かされたのだ。完璧ではない記憶は厄介だ。脳みそのどこかにその残滓があるはずなのに、はじめから何もなかったかのように、どうやっても見つけることができない。その記憶の不完全さがときおり、おのれの心を救ってくれているとしても、こういう時には、ただただ憎みたくなる。
彼女は本当か嘘かよく分からないことを言う。だけどこれは聞いた瞬間、嘘だ、と思った話だ。
彼女が、かつて住んでいた郷里についての話。
彼女は自分の住んでいた村について、因習に鎖されたような村、と表現していた。だけど彼女の話を聞くたび、そんな村など存在するだろうか、という気持ちになっていた。多少は真実が混じってはいたとしても、一のことを百で伝えるように大袈裟に吐き出しているに過ぎない。
空音村。
村の名前だけは覚えている。東北にあるのか、北陸にあるのか、九州にあるのか、それさえも曖昧だ。彼女自身、もしかして僕に伝えるたび、無意識に別々の場所になっていたのかもしれない。僕は彼女の言葉をどこかで信用していないところがあるから、どうしてもそういう発想が出てくる。
ただ実際にどんな田舎だったにしろ、リムアが郷里へと戻っているのだとしたら、試しに休日を使って行ってみようかな、と思ったのも事実だ。
スマホの地図アプリで検索すると、
そんな村は存在しなかった。
ないよ、リムア。そんな村……。
『その長方形の小型の機械が完璧なものだと思わないでね。空音村は、地図の中に存在しないから。地図に載らない村。それが私のいた村』
リムアが不在の部屋で、ふいにリムアの声が聞こえた気がした。
結局、場所が分からない以上、行くことはできない。それは空音村のことではない。リムアが生まれた、村なのか、町なのか、も分からない場所だ。このふたつの表現は似て非なるものだ。だって空音村など、この世に存在しないのだから。
そらね【空音】
一、実際は鳴っていないのに、聞こえてくるおと。「琴の――」
二、ニワトリが鳴く時間でもないのに、時を作る声を人がして見せること。「鶏の――/――をはく〔=うそをつく〕」――――「新明解 国語辞典 第八版」より
僕が部屋にあった国語辞典を確認したのは、リムアが一時的に戻ってくる一週間ほど前、七月も終わりの頃だった。嘘にはきっと何らかの意味があるものだ。絶対にそうだとは言い切れず、場合によってはまったく無意味なところから出てくる嘘もあるかもしれないが、リムアに限っては、何かの意味がある、と思ってしまったのだ。
やっぱり、嘘、じゃないか。
嘘を表現するような言葉を敢えて村の名前にした、ということは、もしかしたらリムアは気付いて欲しかったのかもしれない。『私は嘘をついている』と。嘘を嘘だと分かってもらいたい嘘つきがいる。たとえばその最たる例のひとつとして小説家がいる。エイプリルフールの嘘なんかもその類だ。リムアに自覚があったのかどうかは知らないが。
しかし彼女を探すための糸が結局、糸ではない、と分かってしまい、振り出しに戻ってしまったので、また待つだけの男になってしまった。
警察に頼ろうか、なんて考えが萌す。
実はこの時点になっても、僕は警察にも知人にも連絡ひとつしてなかった。
知りたくもなかった真実が明るみに出てくることが怖かったのだ。
改めて、どうしようか、と迷っている時に、
リムアが帰ってきたのだ、
いなくなった時と同様、突然、に。なんの脈絡もなく。これが小説かドラマなら、出来が悪い、とお叱りを受けるだろう。それが三日前のこと。また突然いなくなると思いもしなかった、三日前のことだ。
「どこに行ってたんだよ」
「トラブルがあって」
「トラブル?」
「うん、昔の知り合いが殺された」
「殺された?」
「うん。襲われて、繰り返し、暴行された挙句」
「なんだよそれ……。でもそれがなんで、リムア、きみ自身の話になるんだよ」
「まだ犯人は見つかってないんだけど、私と被害者の共通の知り合いが、私を犯人だと疑ってて」
「なんで?」
「昔、私、殺そうとしたことがあったから。昔の、大切なひとだったから」
「昔の、大切なひと……」
「もしかして嫉妬してる?」リムアがすこし嬉しそうな顔をする。僕は否定のために、首を動かす。「冗談だよ。あなたは口では何を言おうとも、本当はそれほど私に興味がない、って知ってるから」
こっちがどれだけ心配した、と。
「そんなことないよ」
「……嘘ばっかり。とりあえず私を疑っている誰かがいて、迷惑も掛けられないでしょ。だから同じ場所に留まらないように、転々としてたんだ」
「なぁ、それって」
「うん?」
「空音村の話?」
「うん。よく覚えてたね。私の生まれた場所のこと」
リムアがにこりと笑った。
嘘だ、と僕は彼女の言葉をひとつも信じていなかった。だけどそれを言葉にして指摘できなかったのも、怖かったからだ。そう、これも。口にしてしまうことで、知りたくなかった事実が明るみになってしまうことが。
たまに思うことがある。
なんでこんなにも信用していないのに、僕はリムアを好きになってしまったのだろうか。
あるとすれば、ふたつが考えられる。庇護欲というある種の傲慢な感情か、あるいは僕と彼女の性格がどこか似ているからか。
僕はこの会話の時、リムアの生まれた場所がどこにあるのかを聞いておけば良かった、とあとで悔やむことになる。この時は、どこかでタイミングを狙って聞いてみよう、くらいの気持ちだったのだ。いつかまたこんな日が訪れた時のために、と。たとえそこに嘘が混じっていよう、と。
まさか三日でやってくるとは思わないじゃないか。
だけど今回は偶然にも、僕は手掛かりを見つけてしまった。いやそれを手掛かりと言ってしまってもいいのかは分からない。騙されている可能性もあり、その可能性のほうが高いのだが、仮にそうだったとしても、最初から期待しなければ落ち込むこともない。行動するうえで、よすがとするものがあるだけ、まだマシだ。
リムア専用のキャビネットの引き出し開ける。開けるのは彼女が前に失踪して以来、二度目だ。
前にはなかったはずの、表紙の色あせたノートが入っていた。
律儀に、名前らしきものが書かれている。
らしきもの、と表現するのは、
リムアではなく、リアムと記されていたからだ。誤字だろうか。だけど自分の名前なんて誤るとは思えない。だいぶ年季が入っていて、いつ書かれたものかは分からないが、筆跡は間違いなくリムアのものだ。
手記、だろうか。
いや、これを手記と読んでしまっていいのだろうか。たとえ無意識であったとしても、言葉は外に出した時点で誰かに読まれることを想定しているものであって、自分自身だけにあてたものであっても、必ずしもそうではない……みたいな、そういう次元の話ではなく、これは明確に特定の誰かにあてているからだ。
『これを読んでいる、あなたへ』
と最初の一文がはじまっているから。
そしてその誰かは、おそらく僕だ。自信がある。これで違っていたら恥ずかしいが、外れているとは思わない。リムアが僕以外に言葉を贈るなんて、そんなことあってはならないからだ。だって……なんでだろう。僕はなんでそんなふうに思ってしまったのだろう。まるで僕ひとりだけが、彼女の存在を独占しているかのように。
読みはじめて、僕は、やっぱり、と呟いてしまった。
彼女らしく、嘘だらけの手記だ。
そこにはリムアが空音村で過ごした日々のことが書かれている。彼女はこれをいつ書いたのだろうか。
僕はとりあえずこの日記を、『嘘手記』と呼ぶことにした。
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