自殺日和に、また君が来る。

水母すい

六月中旬、よく晴れた日のこと

 

 

 

 その日は、よく晴れた六月の中旬だった。

 今日こそ死のう、漠然とそう思った。




 病み曲、なんてものが昨今の音楽業界の流行りらしい。

 でも僕は、その大半に対して嫌悪感を抱いていた。


 だってああいう曲は、もっとライトでファッション性のある「鬱」を抱えた人向けのものだからだ。歌詞だっていつまでも暗いままで終わるわけじゃなく、最後の最後で希望を見出しやがる。


 やっぱり前を向かなきゃだめだよね、なんて言外に圧力をかけられているようで、どうしても好きになれないのだ。僕らみたいに「本物の」鬱を抱えた人向けの音楽は、とても少ない。あるのはSNSのお悩み相談窓口か、自殺対策の電話回線くらいのものだ。


 ところで、聞いたところによると、日本の自殺者数は一年で二万人にも及ぶらしい。多いのか少ないのかなんだかよくわからないが、これだけの人数がこの国で希望を失って死を選んでいると知って、なんだかほっとした。

 

 今年の集計の中には、きっと僕が「1」として含まれるのだろう。




「……よし」

 

 達成感ありげな独り言が、思わず漏れた。

 しっかりと強度を確かめ、失敗のないように努める。


 吊るされた輪っかの中に、切り取られた小さな青空が見えた。今日は天気がいい。連日続いた雨がやっとのことで止み、初夏を思わせる快晴が広がっていた。


 

 今日は、“自殺日和”だ。



 どうせ死ぬなら、よく晴れた日の午前がいい。

 子供の頃に願ったことを、今でも思い出している。


 あれはいつだったか、僕がまだ小学校に行く前あたりで、かなり幼かった頃。母に連れられて歩いていたとき、通りかかったアパートの一室で男が首を吊っているのを、うっかり見てしまったことがあった。


 窓とカーテンを全開にしていて、外からでもその有り様がよく見えてしまっていたのだ。母はぎょっとした様子で僕の手を引いて、すぐにその場を離れようとした。見てはいけないものを見てしまった、子供ながらに僕はそう思った。


 ただ、不思議なことに、その一瞬のイメージは僕の胸に鮮烈な印象を遺した。希望に満ちた青空の下、絶望に溺れて自ら首を吊ったその男の姿は、どうしても忘れられなかった。


 それはまるで、一枚の絵画のように美しくて。

 今に至るまで、僕の「憧れ」だった。


 今から僕は、あの「憧れ」のあとを追って死ぬのだ。

 昔、芥川龍之介の後を追って、多くの若者が自殺したように。

 

 そう考えると、不思議と恐怖が減衰してくような気がした。

 言葉にすれば不思議なものだが――幾分か、死へのイメージがポジティヴになったように思えたのだ。死をいつまでもネガティヴに思っているばかりでは、いくら死のうと決意したところで死にきれない。


 これは、前向きな死なのだ。


 椅子の上に立って、輪っかを見つめる。

 ようやく、ようやくだ。


 このぼんやりとした不安から、抜け出せる。




「――死にたがるねぇ、君は」

  


 

 ロープに手をかけたところで、声が聞こえた。

 変に聞き馴染みのある、澄んだ声色だった。


「……いたんですか」


 椅子に立ったまま、斜め後ろに振り向く。

 一人用のベッドに腰掛けていたのは、白い髪の少女だった。


「いたよ。というか、君が呼んだようなものじゃないか」


「そう、ですね。あなたは」

 

 にこりと友好的な笑みを浮かべる彼女は、彼女自身がいうには――《死神》だという。死期が近い人間、またはもうすぐ人間の前に現れ、死んだあとの肉体から飛び出た魂を刈り取っている……らしい。


 どうして僕がここまで彼女に詳しいのかといえば、答えは単純で、これが初対面ではないからだ。これまで何度か、僕は彼女を「呼び出した」ことがある。


「飛び降りに過量服薬オーバードーズときて、今回は首吊りか。いよいよって感じだね」


「ええ、まあ今日こそはって感じです」


「そうかそうか。これは見物だね」


 そういって《死神》の少女は、どこからともなく取り出したリンゴをどこからともなく取り出したナイフで剥きはじめた。この人、きっと僕の自殺を見物する気だ。なんだかさっきまでの決心が萎縮してしまった僕は、ひとまず椅子から降りる。


 彼女は別に、僕の自殺を止めに来たわけではない。

 それどころか、僕の死は彼女にとって「旨味」となる。そのことが気に障るのかなんなのか、僕は毎回彼女の登場で一度決心が揺らいでしまうきらいがある。


「それで、今回の自殺の理由は?」


 なんでもないことのように、彼女は訊ねてきた。

 まあ実際、僕にとってもなんでもないことなのだけれど。


「理由なんて、ないですよ」


「……ない?」


「ええ。いらないんです。自殺するのに理由なんて」


「それは君の持論かい? いいね、聞かせてくれ」


 自殺寸前の人間の持論を聞きたがる人なんて、彼女以外にはいやしないだろう。だけど僕は変な話、彼女には最期に自分の話を聞いてもらいたくなった。


 これは本当に、僕の人生最期の時間だ。


「もし、自分の死に理由を……意味を与えてしまったら、僕の人生はその一度きりの死のためにあったものなんだって、思ってしまう気がするんです。生きていくために理由や意味は必要ですけど、死にそれを与えるのは、なんだか違う気がして」


「……じゃあつまり、今の君には生きていく理由がないと?」


「はい。それだけは言い切れます」

 

 そもそも、生きる理由があるのなら、こんな愚かな行為に及んでいない。自殺というのは、そんな生に飢えた前向きな人間がするものではないからだ。


 自殺は、死ぬ理由ができたからするではない。

 生きる理由がなくなったからするのだ。


 だが、死ぬだけの理由なんて、これまでの人生を振り返ってみれば山ほど見つかるだろう。


 大学受験に失敗したことや、惰性で行った大学で彼女はおろか友達すらできたなかったこと。やっとの思いで入社した会社がブラック企業だったことや、そこでミスを連発して怒鳴られすぎたあまりうつ病と診断されたこと。

 

 いかにも、自殺する若者が送っていそうな暗い人生だ。

 しかし、これらを理由とした死がゴールに設定された人生だなんて、いくらなんでも虚しすぎる。僕は別に、自分の人生すべてを否定したいわけではないのだ。

 

 選ばされた死ではなく、選んだ死を。

 望んだ日に、望んだ死に方で。


「……というわけで、死にます」


「君、持論ほとんどモノローグで語ったよね? まあいいけどさ」


「いいんですか……」


「あ、リンゴ剥けたけど食べる?」


「いらないです」


《死神》の少女にたしなめられながらも、僕は再び椅子の上に立ち上がった。目の前には、入念に結ばれたロープが垂れ下がっている。


 輪っかの向こう側の青空に、少し雲がかかり始めていた。

 早くしなければ、この機を逃してしまう前に。


 輪っかに頭を通し、喉元にロープを引っ掛ける。

 あとは椅子をその辺に蹴り飛ばせば、僕の全体重が頸を圧迫して縊死いしに至る。準備さえできれば、この死に方は恐ろしく単純で簡単なのだ。


(やるんだ、今、ここで……)


 ふと足下を見る。《死神》の少女は、依然としてそこにいた。

 なんの感情も籠もっていない真っ黒な瞳で、僕を見上げている。


 やってごらん、とでも言われているようだった。


 そこまでいうなら、本当にやってやる。

 半ば意地を張りながら、僕は少しづつ全身から力を抜いていった。変に力が入っていては、時間がかかって逆に長い時間苦しむことになる。僕に残されたタスクは、椅子を蹴り飛ばすことだけ――。


 覚悟は、できている。

 あとはもう、やるだけだ。


「じゃあ、やります。見ててください」

「うん。ちゃんと見ているよ」


 少女の返事を待たずに、僕は椅子をひと思いに蹴った。キャスター付きの椅子は部屋を移動し、やがて窓に激突する。それを最後まで見届ける前に、僕の頸は絞まっていた。


「っ……」

 

 喉が苦しい。

 息なんてできない。足先が攣った。


 苦しい。苦しい。苦しい。


 

 苦しい?

 

 

 ああ、死ぬんだ。そうなんだ。


 

 やった。やったよかあさん。


 

 ぼく、やっと死ねる……


 

「……けて、」


 

 なんだよ。今さら何を言ってる?


 

 やっと死ねるんだ。邪魔者もいない。


 

 なのに、どうして今になって。


 

 

「……やっ、だ……たす、げて……ぇっ!」

 

 

 

 馬鹿だ。大馬鹿だ。


 

 お前を助けにくる人なんて、


 

 いやしない。


 

 そうだ、誰も……



 

「――バカだな、君は」



 

 彼女、以外には。


「邪魔された、なんて言わないでくれよ。人間」


 少女はどこからともなく取り出した大鎌で、僕の頭上のロープを斬り裂いてみせた。吊り下げられていた僕の身体は一瞬だけ宙を舞い、すぐに落下する。


 うつ伏せに倒れ、たまらず吐き気を催した。

 

 できる。息が、できる。


 皮肉にも、そうして取り戻した生の実感による喜びで体中が打ち震えていた。僕は結局、頭も体も揃いも揃って愚かだったらしい。


 しばらくして、仰向けに寝返る。

 視界の端に、《死神》の少女は立っていた。


「……、死ねなかったみたいだね」

 

 呆れたような目で、僕を見下ろしながら。





 

 どうして、死ねなかったのか。

 どうしてあのとき、助けを求めてしまったのか。


 そんなことを、ずっと考えていた。


「自殺太郎、首吊りで三回目の自殺未遂……っと」


「僕はそんな名前じゃないです……」


 ベッドの端で、《死神》の少女は何やら記録を取っているようだった。ベッドで大の字になった僕は、彼女がペンを走らせる音をぼーっと聞きながら天井を眺めていた。


 窓の外の空は、すっかり雲に覆われている。

 雨も降っているようだ。もう“自殺日和”どころではない。


 視線を天井に戻して、また考える。

 

 別に、死ぬのが怖かったわけじゃない。

 苦しいのが嫌だったわけでもない。


 死の恐怖への耐性は、ばっちりだったはずだ。


 ならば、どうして。


「どうして助けを求めてしまったのか、なんて考えてるのかい?」

 

 少女はこちらに振り向くことなく、僕に問うた。完全に図星であった。そもそもの話、《死神》である彼女がどうして僕の助けに応じてくれたのか、という疑問もあったが、それを訊くのは野暮だと思った。


 お前のせいで、なんて言える立場ではない。


「ええ、どうしてなんでしょうね。あんな醜態をさらしてまで……」


「そんなの、簡単ことじゃないか」

 

 小さく笑いながら、《死神》は答えた。

 すると彼女は、首だけこちらに振り向いて、



「まだ、。それだけだ」

 


 思わず、不躾な反応を返すところだった。

 生きたかった? 僕が?


 さっきまで本気で自殺を考えていた、僕が?

 

「人間だって生き物だ。最後の最後で、生存本能が勝ってしまうものなのさ。どうしてもね」


「……嘘ですよ。だって僕は、生きる理由だって、もう――」


「理由なんてなくても、生きられるだろ?」


 反論する言葉が、引っ込んでいく。

 理由なんて、なくても。


 果たして、そうだろうか。


「生きる理由がないなら死ななきゃいけない、ってわけでもないだろ? 君はこれからもう少しだけ、その理由とやらを見つけるためにゆっくり生きたっていい。少なくとも神様は、それをロスタイムとは呼ばないよ」


 思わず聞き入っていた。

 彼女の語る持論に。《死神》の言葉に。


「現代人っていうのはみんな、そんなことも忘れて急いで生きてるのさ。社会的役割だの存在意義だのを気にして、生きる理由を見失わないように必死にね。そんなものなくたって、別に本当に死にはしないっていうのに」

 

 妙に納得してしまう自分がいた。《死神》の言葉なのに――いや、むしろ《死神》である彼女の言葉だからこそ、説得力を感じてしまうのかもしれない。数々の死を見届けてきたであろう、彼女だから。


 その不可思議な矛盾に、僕は笑ってしまった。


「死神、らしくないですね。全然」


「そうだね。死神失格だ」

 

 少女も僕につられて、笑みを浮かべる。


「でも私は、興味があるんだ。私の持論を聞いてしまった君が、これからまたゆっくり生きるのか、はたまた次の“晴れの日”に死を選ぶのか。気になってしょうがないよ」


 少しだけ悪戯っぽく微笑んで、《死神》はいった。

 そしてくるりとこちらに振り返ると、その体を黒い灰に変化させ、徐々に消失させていく。“自殺日和”は終わった。彼女の、僕に対して負っていた役目は終わったのだ。


「それじゃ、私はここでお暇するよ」


「そうですか。……あの、助けていただいて本当に」


「礼なんて言わないでくれ。私は死神だよ」

 

 少女の体が消えかかる。

 僕はそれを、特に何の感慨もなく見つめていた。


「相変わらず、君は不可解で面白かったよ。それじゃあ、次は――」


 少し口ごもった《死神》は、最後に妖しく微笑んで。

 振り向きざまに、いった。




「次の“自殺日和”に、また会おう」

 


 

 そういって、《死神》は消えていった。

 少女のいなくなった部屋に、しばしの静寂が訪れる。


「自殺日和、か……」


 彼女の言葉を反芻しながら、椅子やロープを片付けていく。

 

 理由なんてなくても、生きたかった。

 なら僕は、もう少しだけ、彼女のいう通りにしてみようと思った。僕は移り気しやすい性分だから、この気持ちも明日には変わっているかもしれないが、別にそれでもいい。


 しばらくは、この漠然とした不安に苦しんでみよう。

 それでもダメだったら、そのときは――


 


 次の“自殺日和”に、また君が来る。


 


 かも、しれない。

 

 

 

 

 

 

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