1 破壊されつつある世界から
リヴァイアサン事件より半年後、かつて藍明守と呼ばわれた場所に核兵器が落とされた。
東アジア連邦の【フラグメント】への一大制圧作戦の第一フェーズで行われた攻撃は敵勢力の半数以上を吹き飛ばした。
しかし、藍明守を占拠するフラグメントの首魁、ゼフィス・エントクロマイヤーには通用しなかった。
その周囲を守るソルジャータイプのフラグメントも同様である。1キロ四方程度とはいえ核攻撃を容易に防ぐ魔力障壁を展開したのである。
無論、核攻撃だけで事を為せるとは思っていない。日本海に展開する艦隊からの長距離艦砲射撃の後、第二フェーズのスフィア兵士の投入である。
フラグメントとの初期の戦いでAAAはエージェントの大半を失い弱体化。残された戦士と改良された【ファクトスフィア】により本土の水際で防がれていた。
フラグメントは生身の人間を取り込むことで数を増やす。彼らの相手をするために改良型ファクトスフィア、スフィア兵士は十二分に効力を発揮した。
とはいえ、やはりリスクが伴う。
体内にファクトスフィアを埋め込んでしまうことでフラグメントに対抗できる力を発揮できるが、質的にはフラグメントとはほぼ同質であった。
気付いた時には初期の多くのスフィア兵士が、魔王ゼフィスによってフラグメント化し、ソルジャータイプという強固な新種となっていた。
それらを突破できなければ人類は敗北必至だ。もはや切り札である核攻撃を切ってしまった。
通常のフラグメントを殲滅できても、有象無象は魔王ゼフィスがいる限り補充可能だ。今回の作戦で魔王を討滅しなければ未来は無い。
魔王ゼフィスにより物理的にスフィアを体内に埋め込まれ、フラグメント化を免れたスフィア兵士のゼラード・ティウスもそう考えていた。
同じ方法でフラグメントソルジャーとなってしまったディラッド・エウリュディーケも滅ぼさねばならない。
彼らによって悲しみは増えすぎてしまった。たとえ希望のない未来でも、フラグメントのない未来のほうが今はよっぽどマシだから。
*****
ゼラードのスフィア、【ヴァディスブレイド】。生身の人間には到底扱えなさそうな真紅の大剣を軽々と振るい、ついにはフラグメントソルジャーを串刺しにする。
最強のフラグメントソルジャー、ディラッド。一つの艦艇を容易に切り裂く長剣のスフィア、【エクスレイヤー】を持つ。
彼との壮絶な激戦を制した黒髪の大男だったが、魔王ゼフィスは目の前だというのに満身創痍であった。
咳き込めば血を吐き出し、スフィアによって編まれた戦闘衣の各所からは痛々しく血で染まっている。
魔王ゼフィスは瀕死のゼラードを虚ろな瞳で見つめている。自らを守る最後の盾を倒されても、何も感じてはない。
「俺を、フラグメントに、しないのか」
まだゼラードには息があった。なによりも諦めてはいなかった。血まみれのヴァティスブレイドをディラッドから引き抜き、今にも崩れかねない足取りでゼフィスに迫る。
『未来か』
「何?」
もはや、狂ったように破滅を求めていた魔王ではなかった。赤い瞳を持つ青年の顔をした魔王は、ゼラードではない別の何かを見ていた。
『我らは見つけられるのだな』
「何を、言っている」
魔王ゼフィスはゼラードの問いに答えず、目を伏せる。それはやっと眠れるといった穏やかな表情である。
「キ、サ、マ」
お前にそんな顔をする権利などない、とゼラードは渾身の力を奮い、大剣を振り下ろした。
そして、ゼフィスを断つよりも早く、ゼラードの目の前が何かの光で真っ白になった。
『魔王剣。それが救いだ。』
目の前が真っ白になって意識が途切れる直前、ゼラードの耳に魔王ゼフィスに似た響きのいい声が聞こえた。
ゼラードは朦朧とした夢を見ていた。生きているのか死んでいるのか。フラグメントとの戦いは続いているのか。
ただ冷たい雨に打たれていたのは分かっていた。本来ならば喉を潤す久方ぶりの水分であったはずなのに、身体の熱さがそれを受け付けてくれなかった。
暑さから解放されたくて胃の中のものを逆流させようと咳き込んだかと思うと、暗い部屋のベッドから飛び起きた。
「!」
夢にうなされていたのは分かったが、どんな夢を見ていたのかが覚えていない。喘ぎ声に混ざり、呟きは溶けて消える。
頭の中を必死にぐるぐると回そうとするが光を見た瞬間から記憶が途切れてしまっている。
(何が起こった?)
意識の一瞬の途切れ。ふと目を閉じて落ちてしまった感覚に似ている。周囲も暗いと時間の感覚もつかみにくい。
重い頭を起き上がらせ、顔を洗うように両手で顔を拭うと違和感に気付く。慣れたゴツゴツとした手ではなく、すこし小さく色も白く見える手があった。
よく見れば着ているのは白いYシャツで、履いているのはスラックス。スフィアを解除したとしても、普通眠っている間に着替えたりはしない。
「ここは、どこだ」
起き抜けの気だるい頭痛に悩まされながら、一歩一歩しっかりした足取りで部屋の出口に向かう。
カギのかかっていないドアノブをひねると、すぐに眩しい電灯の光が飛び込んできた。一瞬、目を伏せるもすぐに慣れた。
それよりも目の前がうすくぼんやりしていた。
「?」
状況が分からず、部屋のドアを全開にして周囲を見回すと、自分が寝ていた寝台の側に眼鏡が置かれていたことに気付く。
取りに戻って眼鏡を掛けるとぼんやりとした視界がクリアになっていた。
ゼラードは生まれてから一度も目を悪くした事がない。急に目が悪くなるのもおかしな話である。
もっともあれほど血を身体から出したのならどこかに異常を起こしても仕方ない。と考えてさらに違和感に気付く。
スフィア兵士の治癒力が異常であれ、瀕死の重傷を負っていた身体がまったくもなんともないのだ。
「!?」
ゼラードは自分の身体を触り、撫で、見回す。近くに鏡があれば決まりなのだが、これはゼラード本人の体ではないことに気付く。
彼は昔フラグメント化したために強靭な肉体と大剣を振り回すだけの力を手に入れた。
だが今の体は剣を振るどころか、持つことすら困難な細い肉体に変わっていた。
Yシャツやスラックスからしても一般的成人男性なのだろうが、体型は少々痩せ型であった。腕や脚も細いし、ロクに運動もしていないのだろう。
(本当に何が起こったんだ?)
外が暗いため夜ということは分かるが、夜となればフラグメントの暴れる時間だ。
しかし、周囲にその気配はなく、ゼラードが寝ていた部屋もフラグメントが襲ってきて耐え切れるような作りをしていなかった。
むしろ、普通の男子の部屋であった。平和であれば自分もそんな部屋だったろうと思うぐらいの。
部屋を出て廊下を歩く。ほどなくして、すりガラスの引き戸が見えた。ぼんやりと人が2人見える。また、部屋の中からはテレビの音がかすかに聞こえていた。
テレビ放送などしばらく見ていない。どれほど見ていないのかも分からないぐらいに。
この貧弱な体では、誰に会ってもまともに戦えない。状況もよくわからないこともあって、意を決して、半ば諦めながらガラス戸を引いた。
その重い引き味に一瞬戸惑いはするものの、力が無いせいだと思って無視する。開けた先にいたのは一組の男女。
ゼラードもよく知る相手だった。魔王ゼフィスの父、ロフィス・エントクロマイヤーと奥方の静流マサキだ。
作戦で陣頭指揮を執っていたロフィスはともかく、後方にいるはずの奥方が彼と共にいるのは奇妙な話だ。
「ロフィス、司令? ここは一体? 俺は一体どうなってるんです…?」
ロフィスもマサキも緊張感なくテレビを見ていた。入ってきたゼラードを見て、さほど驚きもしなかったが、ゼラードが問うと驚いた顔をした。
「私は司令ではないよ。君は、どこかで僕と会った事があったかな?」
そう答えられて、ゼラードは目を閉じるしかなかった。もはや何がなんだか分からなくなってしまった。
ロフィス・エントクロマイヤーから説明された経緯は勿論理解できなかった。
にわか雨の路地でチンピラ3人を相手に大立ち回りの暴れるように見えない男性。打ち倒した後で、彼はうわ言を言いながら気絶した。
そうした状況に他人事ではなかったロフィスは通りすがりながら男性を拾ってしまい、自宅へ連れ帰ってしまった、ということだ。
ゼラードは今まで【フラグメント】と戦っていた。
その記憶に偽りがないため、見も知らない男たちと殴り合っていたり、自分が貧弱な体型になっていたりしたことは間違いではないかとしか思えない。
しかし、持ち物の中に入っていた身分を証明するもの、保険証や免許証には
そして何より、通信モバイルに表示された日付はゼラードがいた日にちよりも10ヶ月以上前であった。
おそらく、としか言いようが無いが、あの戦いの一瞬でタイムスリップしたのだ。一応、ロフィスにフラグメントという単語を確認したが、覚えてはいなかった。
そして、ゼフィス・エントクロマイヤーの所在について確認すると、言葉を濁してはいたが、行方不明であるようだ。
ゼラードとしての記憶の中で、ゼフィス・エントクロマイヤーが魔王として豹変した原因が、ファクトスフィアと【リヴァイアサン事件】だと把握している。
ゼフィスがファクトスフィアを手に入れたのは、ディレイフニル・チャコードザートの反乱に巻き込まれたせいであるそうだ。
変化が現れたのがいつのことなのか分からないが時間が巻き戻ったのならゼラードとしても丁度良かったかもしれない。
戦っていたあの時が最悪の事態ならば、そうさせないことが使命であるような気がしたのだ。
最大の敵であったディラッドがいないことが残念だが、彼との決着は先刻着いている。最悪の事態に至らぬようこれから動いていかねば、とゼラードは思うことにした。
「こんなことを言っても信じられないかもしれませんが、俺は未来から来たようです」
ゼラードは持っていたという私物のカバンの中身を眺め、結論に至ってロフィスに口を開く。
その言葉を聞いて、静流マサキが吹き出した。
「どの程度未来から来たか把握はできる?」
信用したのかしていないのかはゼラードの側からは分からない。ロフィスの表情は先ほどよりも驚いてはいなかった。
信用した、してないというよりも半ば理解している、そんな印象を受ける。
「10ヶ月ほど」
「誤差はそれほどでもないね」
「しかし、俺のいた時間軸では約4ヵ月後、世界が一変する出来事が起きてしまいました」
「この僕が司令になる事態とは?」
「自らを【エレンケイア】と名乗る魔王の出現」
ゼラードの出した単語にロフィスは表情を厳しくする。その空気を知ってかマサキはテレビの電源を切った。
「それを知っているとなると、なるほど君の言う事を信じるほかないようだ」
そこでゼラードの言葉を信用したことが分かった。それまで半信半疑であったようだ。
「君はエレンケイアをどうするつもりだ?」
「暴走する前に滅ぼします」
「そう、か」
ゼラードの明瞭な迷いの無い答えに諦めを含んだような悲しげな表情をするロフィス。
彼の立場からすればそうせざる得ないだろう。ゼラードは、息子を殺す、と父親の前で言っているのだから。
彼はエレンケイアがどういうものか知っている。暴走するのを放っておけばゼラードが死闘を演じた歴史になってしまう。
「君が動きやすくなるよう話を通しておこう。君が赴任する予定だった天青雲学園には知人がたくさんいるし、学園長はAAAの関係者だしね」
「感謝します」
「君の望みを果たすことが僕にとっては受け入れ難いが最悪の事態も避けねばならない。早く息子の居所を補足しなければ。」
「であれば、エレンケイアとは何者か、教えてください」
ゼラードの強い意志に、ロフィスは今のところの説得が不可能だと判断した。そうなるぐらいに痛い目を見てしまったのなら、ロフィスも仕方ないと納得せざる得ない。
エレンケイアとはそれほどにまで強力で、脅威なのだ。息子ゼフィスに受け継がれてしまったことは予想できたことだが、心のどこかで消え去ってくれることを願っていた。
無論、暴走しないよう娘と一緒に息子を恩義のある羽山修に預けた。それで心身を鍛えれば、抗う事ができるだろう、という考えであった。
封印状態のままならば見守る事だけでいいと思っていた。
だが以前のヘルメスの起こした一件、それが考えの甘さを痛感させた。ゼフィスの精神は不安定化し、天青雲高校を卒業してからも社会復帰ができていない状態である。
これからどんなことが起こるのかロフィス自身は予想がつかないが、息子を殺すまでに至る重大な事態にゼラードが襲われてしまったのだ。
血を分けた息子の命を如何にして守るか、そう思い悩む毎日が始まってしまった。
その後、ゼラードは天青雲学園の学園長の真・ポナパルトと渡りをつけ、学園に新学期から赴任することになった。
*****
「あぁぁぁぁ」
非常灯のみが点々と点く薄暗いというよりは真っ暗闇に近い通路に悲鳴混じりの喘ぎ声が響く。
その声は通路伝いに反射し、不気味な反響音として響いていた。
次に、鈍い音が響く。そして一拍後、音にならない嫌な気配が暗闇の中を動いていく。その蠢くモノは通路を音もなく動き、通路の行く先、上下を貫く大きな空洞へと出る。
そこは地上の光が多少は届く薄暗い空間であった。そして、その蠢くモノも何匹か空の光に照らし出された。
最初に印象深いのは白い仮面のようなものが黒い体に浮かんでいる事だ。それ以外に感覚器官のようなものは見当たらない。
皮膚はコールタールのようにドロドロで、床に垂れ落ちた液体は炭酸の泡のように飛沫を上げながら消えていた。
歩く、駆ける、走るというより蠢いているというソレは思い思いの方向に動き出した。広い空間から上へ、下へ、下水道へ。
その中の一匹は人型に近い形で、白い面も人間の顔の部分にあった。ただその白い面には目を思わせる2つの穴しか開いていない。
液体状に、漏れ出る様に、マンホールから漏れ出たソレは地上の第一村人を視認した。
後片付けの途中だったのだろう。制服を着崩したウェイトレス風の女性が奇妙なモノの出現に、燃えるゴミから沸き立つ生臭いニオイも気にせず突っ立っていた。彼女の顔は見てはいけないものを見たと言う風に引きつっていた。
『ビヲ』
くぐもった聞きなれない言葉を暗黒のモノは発した。次の瞬間、暗黒は女性の胸から上に覆いかぶさり、その肉をなかったことにした。
命が一瞬で消し去られた肉は、そこに命があった痕跡かのように血を流しながら力なく転がった。
暗黒のモノは、走るでもなく駆けるでもなく、蠢くように世闇に姿を消していった。
「少々、趣に欠けるが」
死体が残された路地に1人の紳士が音もなく現れる。
中肉中背、黒のスーツに身を包んだ銀髪の男だ。彼は現場を眺めて口元を歪めている。
匂い立つ血の匂いも、無惨な死体も、彼にとっては気にすることではない。
ディレイフニル・チャコードザートは現代を生きる夜の住人、吸血鬼である。人の死とはジャンクフードであり、着飾った衣装の女性とは主菜である。
「アレを利用して、我が大望、叶えてみせよう」
彼は呟き、再び闇に消える。音もなく、溶け消えるように。彼がいた痕跡はどこにもない。普通の人間では発見することはできないだろう。
ディレイフニルはAAAの理事の一人である。夜の住人側として、人間の組織に十数年関わってきた。それは義憤や正義に駆られたからではない。
今までずっと機を狙っていたのである。夜の住人だけの世界にするべく、破滅的な力の誕生と自分が支配する世界にするために。
*****
武藤ニュータウンの朝は9割方サイレンが鳴り響く。
その内7割は救急車だ。救急される内訳は交通事故死傷者、急性アルコール中毒、麻薬中毒、それらに次いで不審死だ。
その日もサイレンによって一時は目を覚ました静流・クラウド。
酔っ払いか飲酒運転事故だろうと思い二度寝しようと寝返りを打つと、女性特有の鼻を刺激する香りが彼にぶつかってくる。
(また入ってきたのか)
静流はたまに自室に帰るのを面倒くさがって、仮眠目的に作ったスペースで寝る。
男1人で寝るには十分な簡易折りたたみ式ベッドで、金属特有の軋みとベッドの硬さを除けば、通常生活に何ら問題ないものだ。
その仮眠ベッドに、
静流よりも背丈も体格も小さいものの、二人分が眠るには狭すぎる。それに、重量感溢れる彼女の胸部を前にして二度寝できる気がしなかった。
仕方なく起き上がり、壁掛け時計を見る。6に差す長針があり、短針がその若干上辺りにあるが、7にかかってはいない。
早朝という気分に、反射的にあくびをする。正直寝足りないが5時間眠ったのなら丁度いい、と思うことにした。
事務所のリビングの中の給湯スペースで顔を洗うと、外から救急車とは違うけたたましいサイレンが響いてきた。
(こりゃパトカー数台分だな)
確認はしていないが、おそらく事務所前の通りをパトカーが何台か通り過ぎたと思い、コーヒーサーバーから注いだ、温くなったコーヒーに氷を入れて飲み干す。
古くなった苦みと表面上の冷たさで一気に頭を目覚めさせる強引なやり方だ。おかげで口の中は最悪だ。
(行くか)
所長席に引っ掛けたジャケットを背負い、帽子掛けから白いソフト帽を被って、彼は事務所を出た。
武藤ニュータウンの繁華街の一角、数ある居酒屋で比較的大きめなスペースを構えていた店の裏側にブルーシートが掛けられ、
大げさに関係者以外進入禁止のロープが張られて、制服警察官数人が3、4人立っていた。
早朝出勤者は物々しい現場の空気に立ち止まりはするものの、関係ないとばかりに立ち去っていく。
野次馬としていたのは、これから帰宅する水商売の姉ちゃんたちや、それらの綺麗どころを我が店に引っ張ろうとするキャッチの男性らだ。
それらまばらな野次馬の集まるところに、静流は物怖じせず近づいていく。
「おはよーさん」
手を挙げて挨拶すると、姉ちゃんたちは彼に思い思いの呼び方をする。だいたいは、静流ちゃん、だ。
自分よりも年上ならまだしも年下にもそう呼ばれる。情報収集の一貫でそれらの店を渡り歩くのは少なくないから界隈では有名である。
「なんかいつもより物々しいねぇ?」
不審死とは違うのかね、と暗に聞いたつもりだったが、お姉ちゃんたちは同意するだけで、情報になるようなものは言って来なかった。
「何人か刑事が先に入っていって、暴力課の奴が1人袋に吐いてやがったぜ」
現場を胡乱気に見つめるキャッチの男が喫煙しながら呟く。大なり小なり犯罪側で警察に関わる人間が多く、面識がある者も少なからずいる。
そしてこの街の暴力課といえば、事件が起こるまでは頼りないが起こったら多方面に動き出すマルボウ専門家たちだ。
それなりに死体を見慣れている彼らが胃の中を吐き出すような死体が見つかったということである。
制服警察官の人数がいる手前、進入禁止線を乗り越えるわけにはいかない。
そうでなくとも『首を突っ込んでくる要注意人物』とされている静流が、ここで変なトラブルを起こすわけには行かない。
ブルーシートの中の正体をどうにかして掴めないかと糸口を探しているところに、初老の男と静流と年の近そうな見慣れない男性が出てくる。
初老のヨレヨレな服装に比べ、見慣れない男のスーツが格段にパリっとして材質も良さそうな事から、本土から出向してきたエリート様といったところだろう。
白髪を思わせるプラチナブロンドの髪をしていて、おおよそスーツが似合わないし、この街の雰囲気にもそぐわないハンサムな刑事だ。
「お前か。おい、やっこさんを入れてやんな。」
「えっ、あ、はい」
白髪混じりの初老の男は顔色の悪い顔で制服警察官に指示する。警察官は困惑し、野次馬を制しながら静流を進入禁止線の中へと招きいれた。
「いいのかい?」
初老の男は静流が探偵見習い時代のころ新米刑事だった武藤署のベテランだ。この街は公務員がすぐ殉職するので、2、3年生き残れば誰でもベテランである。
階級的には巡査部長程度、ポジション的には係長程度の刑事に静流は軽口を叩く。
「多少時間が経ってるがホトケさんはまだ新鮮だ。見りゃ異様さは分かるだろ」
本当に気分の悪いものを見たらしく、一刻も早く現場から離れたいような真っ青な表情をしていた。
現場の人間がその状態であるのに、隣の青年は静流を訝しげに見ていた。
「本土から新人?」
「あぁ、昨日からな」
「ふぅん」
流石に今情報をせびるのは無理と考え、青年のことを少し聞きながら現場の中へと入っていく。青年はチラッと静流を見るものの、特に会釈はしない。
ブルーシートの中の現場は裏路地で、生ゴミのニオイが入り混じるゴミ捨て場の一角だ。ゴミの入ったポリバケツがいくつかある手前にブルーシートがかけられている。
ブルーシートの外にまで赤黒い液体が流れた後が染み付いているのが薄暗い路地でも見えた。
現場に入ってきた静流の姿を一度は見る刑事や鑑識たちだったが、すぐに自分らの仕事に戻る。
彼らにとっても静流の出で立ち、顔はお馴染みだった。静流も彼らに気にせず、かけられたブルーシートのそばに屈んで、恐る恐る中身を見る。
まず最初に見えたのはエプロンらしき布切れ。右に向かって足が見える。左に目を向けるとあるべきはずの腕と頭がない。
真っ赤な血を流して腕を含む胸から上がごっそり無かった。
「うわあ」
血の流れる中身までは凝視したくはない。呻きながらシートを元に戻し、立ち上がる。
ベテランの刑事が吐いてしまうほどの死体。それは確かにその通りだった。おおよそ普通の死体ではない。
これ以外にシートがないことから、本当に胸から上がないのだろう。そう思うとするなら、おおよそ人間にやられた死体ではない。
ここ2年、新型麻薬の噂やら大陸マフィアの流入で妙な事件に関わることは少なくない。それでも、異様な死体は初めてだ。
今回の死体は、痕跡が奇妙なものの、きれいに抉り取られたという様子だ。想像するものではない何かに襲われたのかもしれない。
そして腕もないこともポイントだ。普通に胸から上をもぎ取られたなら手首ぐらい残っていてもおかしくはない。
腕がないということは、消えて無くなった時、手首や腕が胸から上にある状態…防御態勢にあったと推測できる。
死体は仰向けの状態だった。表通りから来たのなら目撃者が他にもいたはずだ。誰か見たという目撃者が現時点でもいないということは。
静流はシートの側にあるマンホールに目をやる。武藤ニュータウンの下水道、ひいては地下にあまり近づきたくない。
というのも2年前、この地下を舞台にした不可思議な事件に巻き込まれたせいである。
AAAや公安局によって事後処理が為されたとはいえ、未だ人を寄せ付けぬ空間である。
それは逆に言えば、何かを隠すには容易な場所なのである。
エライものを見てしまったと言う風に現場から出てくると、野次馬の姿はほとんどなかった。
出勤者が増えてきたせいだろう。昼間の労働者と夜間の労働者は基本的に相容れない街である。
「話はよく聞いてます、クラウドさん」
聞きなれないファミリーネームを言われる。もっとも本当は蔵人という漢字が当てられている。怪訝な顔で声の主を見る。
先ほどのエリート青年であった。ベテラン刑事の姿は近くにない。
「こちらを」
青年は小奇麗な一枚の名刺を差し出す。蔵人工業の社長の息子でもある静流。名刺交換を知ってはいるものの、探偵として名刺を作ったことはない。
失礼だと分かっていても片手でそれを受け取り、名前に目を落とす。
「アーデル、ヒ、いやハイド?」
英字で綴られている名前が読めず、静流が苦しくしていると、青年から改めて自己紹介が入る。
「アーデルハイド・カシムです」
表通りの自動販売機で買った缶コーヒーを開け、一服する探偵と刑事。
死体の現場からは100メートルは離れている。時間が時間なのでカフェが開いていない。そのため缶コーヒーをお供に立ち話ということになった。
しかも他の警察官には聞かれたくないというおまけつきだ。
「本土からの出向研修となっていますが、実は自分は連邦公安室から派遣されてきた者です」
唐突な告白に静流は噴出しそうになる。なるほど、妙な妖しさはそういう事情持ちか、と思う。
とはいえ、言葉通りにも信用は出来ない。公安室を取り仕切っているのはレイトー・ダーバインという男だ。
レイトーは派閥に何ら興味ない、不正を厳しく取り押さえる人物という反面、その気質を何ら表に出さない奇妙な人物だという。
「仕事柄、所轄警察に入って薬物を追っているということもありますが、自分には他に別の任務があります」
正体を怪しむ静流をよそにアーデルハイドは言葉を続けた。
「【ライザード】、その力を求めています」
次に開かれた彼の言葉を聞いて、静流は空になった缶コーヒーを潰そうと思って、やめた。スチール缶では潰せない。
「率直に聞きます。今回の不審死事件、【ライザード】が関わっているということはありませんか?」
「それは、ない」
彼の質問に静流はハッキリと答えた。理由は2つ。
1つは武藤ニュータウンで語られる怪人ライザードは静流自身であるからだ。
もう1つは、先の死体は静流がまるで知らない方法で作られているからだ。
「【ライザード】の戦いは少し前に目にしてきたが、彼は近接格闘が主な戦闘方法だ。多分、違う。」
静流は後者の理由を口に出した。前者を言う必要はない。
「貴重な情報をありがとうございます。今後、関連事件で関わった時はよろしくお願いします」
形式的な固い挨拶を言って、青年はその場を歩き去った。静流の言ったことを真に受けたか、あるいはそれ以上の情報を引き出せないと悟ったか。何を思っているのかは知らないが、青年の背中を見送りながら、静流もそれに背を向けて事務所へ帰るのだった。
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