第35話 これから

 シャワーを浴びて、髪を乾かしたあたりで急に緊張が襲いかかってきた。


 凛音と散歩。そこでなにか起こるか、考えてしまったからだ。バーベキューのノリで流れていたが、俺たちは見事にお互いの告白をスルーしている状態。


 凛音のあれが告白に含まれるかは審議が必要だが、俺に関しては普通に普通の告白だった。終わってる。もっと濁せばよかった。でも、曖昧なことを言っていたらそれはそれで自己嫌悪に陥っていた。

 最初から詰みじゃないか。


 そもそも、あのデート関連の会話からボロは出ていたのだ。今更なにを気にする必要があるだろうか。


 洗面所から聞こえていたドライヤーの音がやんだ。心臓の音が、過去一でうるさくなる。


「お待たせ」


 振り返ると、凛音は大きめのシャツに、ハーフパンツという無防備な状態だった。首からタオルを提げていて、頬は紅潮している。


「行こうか」


 噛まずに言えたのが奇跡だった。


 靴を履いて、外に出る。十年前に比べて、遙かに整備されたキャンプ場を歩く。

 避暑地なのもあって、風が涼しい。少し肌寒いくらいだ。


「上着、取りに戻るか?」

「ううん。私は平気だよ。稔は寒いの?」


「いや、俺も大丈夫」


 正直、それどころじゃなかった。緊張しすぎて、少しぐらい冷えていた方が落ち着いていられる。


 街灯の光がまばらなテントサイトの、奥の方。湖の一番近くを、俺たちは目指していた。口に出したわけじゃない。だが、そこへ向かっているという確信があった。

 だから、ただ歩いた。なにかを話すのは、辿り着いてからでいい。


 難しいことを考えるのもやめた。ここまでの道のりがすべてだ。いまさら足掻く意味はない。


 十分足掻いたか。悔いのない努力をしたか。そう問われてしまえば、首を横に振るしかない。いつだって後悔ばかり、未練ばかりの人生だ。

 でも、それを逃げる理由にはしたくない。


 湖の畔で一気に視界が開ける。水際には近寄らず、芝生のところで足を止めた。


 ちょうどこの場所だ。

 星のきらめきも、水の青さも、夜の暗さも覚えている。風に揺られる草の動きも、あのときからまるで変わっていないように思える。


 目が合うと、彼女は柔らかく微笑んだ。


「ねえ、稔。ここで話したこと、覚えてる?」

「覚えてるよ。忘れたことなんてない」


 視線を落として、ゆっくりと息を吐く。吸い込むとまだ、心の奥が痛んだ。

 これから口にすることで、彼女は傷つくかもしれない。それでも、言わなくちゃだめだと思った。過去の自分をなかったことにして、未来に進むことはできない。


 取り繕う才能がないなら、せめて真っ直ぐな凡人でありたい。


「実は俺、最近まで凛音の歌を聴けなかったんだ」

「……どうして?」


 彼女の目には、動揺の色が濃く映っていた。

 失望されるかもしれない。でも、ここで言うと決めたから。


「くだらない話だよ。どんどん大きくなっていく凛音に、俺は置いてけぼりをくらったような気になった。なにも成し遂げられない自分が嫌で、勝手に苦しくなって、凛音のことを遠ざけた」


 風もない、静かな夜だ。俺の声だけが、しっかりと響いてしまう。


「凛音に会いたくなかったのは、嫌われるのが怖かったから。

 凛音の歌が聴けなかったのは、自分を嫌うのが辛かったから。

 俺がいなくても前に進める凛音を、受け入れられなかった。どこまでも、俺は自分のことばっかりだ」


 震える瞳が、それでも真っ直ぐに俺を見ていた。凛音は声を絞り出す。


「……でも、稔はライブに来てくれた」

「凛音に会って、久しぶりに話して、デートもして……思ったんだ。凛音と『音響てぃらの』は、同じじゃないって。戯れ言なのかもしれない。でも、俺は確かに、違うと思った」


 俺のことをあちこちへ引っ張って連れて行ったり、部屋に居座る雛森凛音。

 俺がいない場所で、ただひたすらに悲しい恋を歌い続けた『音響てぃらの』。


 その二つは、同じ一人の少女でありながら、全く違う雰囲気を持っていた。そう思ったのは、凛音がいなくなった後、彼女の歌を聴いたときだ。


「『音響てぃらの』はきっと、俺がいなくても前に進める。これからだって、凄い歌をたくさん作って、大勢の人を感動させて、誰よりも偉大なアーティストになる。でも、それで凛音の悲しさまで埋まるわけじゃない。だから、俺の前に現れたんじゃないのか?」


 何万という人々が与えてくれる輝きよりも、ただの幼なじみのことを求めてくれた。そこに安らぎがあるのではないかと、縋ってくれた。


「そうだよ。稔の言うとおり。でも――」

「俺がいたら、『音響てぃらの』は歌えなくなる」


 口ごもった凛音の言葉を引き継いで、はっきりと言い切る。


 ――幸せすぎる。

 彼女はそう言っていた。幸せなんて、過ぎたって余ったって、困ることはないはずなのに。俺が渡せたものなんて、そんなに多くはないはずなのに。


 ライブに行って、確信した。そこにあったのは、希望と、それよりももっと大きな絶望だ。


「『音響てぃらの』に、俺は必要ない」

「……」


 凛音はなにも言わなかった。それは、なによりも強い肯定だった。


 柔らかいものが、手に触れた。それは凛音の手だった。なにも言わずに、そっと指を絡める。


「でもね、嬉しかったんだ」


 山から吹いた風が、湖に波紋を立たせる。鳥が羽ばたいて、空に舞った。


「稔が昨日、ライブに来てくれて、最高だったって言ってくれたときね、すごく嬉しかった」


 凛音の目が、星の光を乱反射していた。浮かぶ涙がこぼれる前に、細い指でそれを拭う。うずくまって泣いていた、小さな少女はもういない。


「今までもいろんな人が褒めてくれた。応援してくれた。でも、私はずっと――」


 指がほどけて、俺たちは自然と向かい合う。正面に、凛音がいる。視線が絡んで、感情が押し寄せてくる。


「――稔に、褒めてもらいたかったんだ」


 澄んだ声が、夜に溶ける。

 胸が痛くなるくらい切実に。涙が出そうになるほど純粋に。彼女は見つめてくる。


 凛音は目を細めて、優しく俺を睨んだ。


「稔のせいで気づいちゃったんだからね。そうじゃなかったら、歌うことを優先してたのに」

「俺が、ライブに行ったから。その後に、会いに行ったから……」


「うん。だから、完全に稔のせいだよ」

「俺のせいか。じゃあ、これからどうするんだ?」


 凛音はうつむいて、それから顔を上げた。その目には、強い光が宿っている。


「たくさん頑張る。もう稔から逃げないし、歌からも逃げない。私は、どっちも譲らない」

「……そっか」


「でも、ときどき逃げたくなっちゃうかも」

「そのときはまた追いかけるよ。絶対捕まえる。何者にもなれなくても、それだけは俺の得意分野だ」


「じゃあ、安心だね」


 手と手が重なり合って、体が次第に近づいていって、俺たちはそっとお互いを抱きしめた。

 壊れないように。もう、離さないように。


 ゆっくりと元の場所に戻って、今度は芝生の上に腰を下ろした。隣り合う。手を重ねる。


「ねえ稔」

「どうした?」


「これから私たち、どんな関係になるのかな。……恋人、とか?」

「……」


「ちょっと。恥ずかしいからすっと答えてよ」

「ごめん。ちょっと昔のことを思い出してさ」


 俺たちが、どんな関係になるか。繋いだ手で、どこを目指せばいいのか。


 凛音が俺を好きになってくれたきっかけ――。

 場所までは覚えていなかったが、あの通学路なのかもしれない。だとすれば、その答えはずっと前から持っている。


 幼い頃、凛音が自分の家に帰っていくのが寂しかった。いつだって、それは俺にとって辛いことだった。


 さよならなんて、ないように。

 また明日すらも、消してしまえる。


「俺は、凛音と家族になりたい」

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