第33話 だから、俺は
それはあまりに唐突な告白で、俺はなにも返すことができなかった。固まっていると、凛音がはにかむ。
「小学生の頃ね」
「……そうだよな。ここであったこと、だもんな」
ただの思い出話、ということだろう。心の準備がなにもできていなかったから、ほっと胸をなで下ろす。一命を取り留めるって、こういう感覚を言うのだろう。
だが、次の瞬間に安心は砕かれる。
「稔の初恋って……たぶん、私、なんだよね」
「そうだよ」
避けられない問いだった。首を縦に振って、頭を掻く。
バレているだろうとは思っていたが、改めて確認されると居心地が悪い。
凛音は問いを重ねてくる。容赦はしてくれないらしい。
「きっかけは、覚えてる?」
「俺の場合は、そういうのはなかったな。気がついたら、って感じだったと思う」
印象的な出来事は、いくつかあったけれど。起点となるようなことはなかったと思う。
いつからかも覚えていない。たぶん、恋という言葉を知った日には、既に凛音のことが好きだった。
「なんか、そういうところも稔らしいね」
「なんだそれ」
普通の人はもっと、ドラマチックな一瞬とか、決定的な瞬間があったりするのだろうか。凛音のきっかけとは、なんなのだろう。気になるが、聞く気にはならなかった。そういう瞬間があった。それはとても、幸運なことだ。
凛音は感慨深そうに周囲を見ていた。ここらへんは、十年前とあまり変わっていない。
「東京とこんなに近かったなんて、知らなかったな」
「俺も、凛音はもっとずっと、遠くに行ったもんだと思ってたよ」
同じ県にいないということが、どれほど壁に感じたか。
高速バスを使えば、たった二時間。二千円でたどり着く場所が、地球の裏側ほど離れて思えた。
「もっと早く、ここに戻ってくればよかった」
彼女の言葉に、俺たちのすべてが詰まっているのかもしれない。
十年も時間を空けなければ。一年に一度とは言わずとも、中高に上がるタイミングぐらいで顔を合わせていれば……いや。
苦笑してしまった。凛音がこっちを見て、不思議そうな顔をする。
「思春期のめんどくさい時期よりは、今のが素直になれた気がするよ。少なくとも、俺は」
たくさんの遠回りをした。それでようやく、格好つけたり、取り繕ったりすることが無駄だと思えるようになった。
「たとえ遅かったとしても、またここに凛音と来れた。それで十分だ」
「そっか。……そうかもね」
「せっかくだし、小学校とか行ってみるか? ああ、でもその前に荷物置きたいよな。先に俺の家に行くか?」
「稔の家って、昔と同じところ?」
「いや、中学の時に一軒家を建てて引っ越したんだ。でも、場所は前とそんなに変わらない」
そのとき凛音は、目に見えて寂しそうだった。気持ちはわかる。俺も、引っ越すときは同じ気分だった。二人で遊んで、凛音の両親の帰りを待ったあの家はもう、他の誰かが住んでいる。
思い出は消えない。それでも、思い出の場所はなくなっていく。
「どうしよっかな」
口元に手を当てて、凛音はしばし考え込む。
「稔にいきなり連れてこられたから、貸し一つでしょ……」
なにやら恐ろしいことを言い始めた。こいつ、俺のことをどこに連れて行こうとしてるんだ。
おもむろにスマホを取り出す凛音。既視感のある光景。操作を終えた凛音が、俺を見る。
「今夜は帰れないって、ご両親に連絡して」
「……どこに連れて行かれるか聞いてもいいか?」
「だーめ」
悪戯っぽく笑む凛音に、俺はなにも言えなかった。
◇
二度目の移動は、さっきよりも長い時間だった。
こんなに長時間タクシーに乗ったことはないので、料金のことを想像して内心ヒヤヒヤしていた。横でスマホをいじっている凛音には、そういった焦りは見えない。やはり、稼いでいる人間の感覚は違うのか。
太陽は既に山の向こうに落ちて、あたりはすっかり暗い。
両親に帰れないと伝えたら、ビビるほど快諾された。昔から凛音が絡むと、あの人たちは鬼のように甘くなる。
「よし。とれた」
「……なにをとったんだ」
「ないしょ」
今夜は帰れない、と言われたからなんらかの宿泊施設だろうか。それとも、この後行く食事処のことか。あるいは、帰りの高速バスの可能性もある。
凛音の思惑が、俺にはさっぱりわからずにいた。こんなんじゃ生殺しだ。もういっそ、ひと思いにやってくれ。
さっきから、隣の彼女は上機嫌だ。
だからまあ、悪いことにはならないのかな、と思う。
タクシーが止まったのは、走り始めて四十分ほど経った頃だった。
俺も財布を出したが、料金は凛音がスマホで払ってしまった。
「後で払うよ」
と言ったが、
「高速バスは稔が払ってくれたでしょ。だから、これは私が出すの」
と断れてしまった。
東京から来るより、タクシーでの移動の方が高かったと思う。だが、それ以上粘っても凛音は頑なに首を横に振り続けた。
「それよりさ、ここ、覚えてる?」
降りた先は砂利の駐車場。目の前にある建物は木造で、綺麗な見た目をしている。最近建てられたものだろう。
「いや、こんなところ知らないな――」
凛音はなにかを勘違いしているのだろうか。それとも……。
不思議に思って、後ろを振り返った。
そこに広がっていた光景に、息をのんだ。
満天の星、群青の夜空、どこまでも続く青の湖、柔らかな草原。
「もう一回聞くよ。ここ、覚えてる?」
「……覚えてるよ。忘れるわけがない」
ここは、十年前にやってきた場所。
初恋のきっかけが、俺には思い出せない。でも――
「凛音は、俺に会えなくなるって泣いてくれた」
砂利を踏んで、振り返る。目線の先に、彼女を据える。
この世界で初めて、俺のことを必要としてくれた人。十年の時が空いても、会いに来てくれた人。変わりながらも、変わらずにいてくれた人。
息を吸った。
もう、怖いとは思わない。
「だから、俺はずっと君が好きなんだ」
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