第32話 だから、私は
バスに乗っている間、俺と凛音は特に話すこともなく、スマホをいじったり、目を閉じて時間を過ごした。二時間は案外あっという間で、バスを降りてもまだ日は高いところにあった。
荷物を受け取って少し歩いたところで、凛音がもう限界だと声を上げた。
「あー、お腹空いた。お腹空いたっ! ねえ稔、お腹空いた!」
微妙な空気を吹き飛ばすように、元気よく訴える凛音。彼女がそうやって振る舞ってくれることに、内心で感謝する。
「どっかで食べるか。せっかく戻ってきたし、食べたいものあればそこ行こう」
「買い食いしちゃおうよ。昔はできなかったから」
「いいな、それ。だったら商店街行こうか」
俺たちの育った街は、観光地のすぐ近くで、飲食店は豊富にある。
少し目を離したら、凛音はソフトクリーム屋の前に立っていた。少し悩んでから、
「抹茶ソフトください。稔はどれにする?」
「いきなりスイーツかよ」
「いいじゃんいいじゃん。けっこう暑いし、時間でいったらおやつだもん」
「腹減ってたんじゃないのか?」
「ソフトクリーム、けっこうお腹にくるよ。冷たいから」
「それはダメージじゃん」
満たそうとしてるのに下してどうする。呆れる俺に、凛音は気持ちよく笑う。
五月の空気は既に熱をはらんでいて、ソフトクリームを食べたくなるのも納得だ。諦めて、俺はチョコソフトを買うことにした。
凛音はぺろっとなめて、満足げに目を閉じる。
「ん~、やっぱり故郷の抹茶ソフトは違うね」
「地元民として言わせてもらうと、違うわないと思うぞ」
「なんでそういうこと言うかなぁ。気持ちの問題でしょ、こういうのは」
「そうか?」
故郷補正で抹茶ソフトが美味くなることがあるだろうか。昔通ってた店とかならわかるけど。ここって、凛音が引っ越した後にできた店なんだよな。
「まったく稔は。女の子言ったこと否定しちゃだめなんだよ」
「ごめんって」
「そんな調子じゃモテないぞ~」
「さすが、モテる女は言うねえ」
凛音の軽口に、皮肉で返す。
入学してすぐにモテて困っていた彼女は、一転して渋い表情になる。
「うぅ。やっぱりモテない方がいいかも」
「凛音はモテるからな」
「もういいでしょ。私が悪かったから。別に私、彼氏いたことないし」
「……マジで?」
凛音はいじけたような表情で、つんと唇をとがらせる。
「はいはい。おかしいよね。まともに恋愛したこともないのに、ラブソングばっかり歌ってるなんて。わかってます。わかってますぅ」
「いや、そういう意味じゃなくて……。まあでも、それも凄い話だよな」
経験ではなく、想像で作った歌で人の心を動かすなんて。凛音の表現力が、それだけ卓越しているということなのだろう。
ライブを見た後だから、正直信じられないくらいだ。『音響てぃらの』は人と付き合ったことがないと聞いたら、どれだけのファンが驚愕するだろう。
「じゃあ、デートも?」
「そうです。未経験です。稔とが初めて。文句ある?」
「……ないです」
圧が強くて、咄嗟に敬語が出てしまった。
大きな一口でソフトクリームを食べて、目をそらす凛音。こっちを見ていなくてよかった。俺も、まともに顔を見れる状態ではない。
「稔は、本当はどっちなの? デートしたこと、あるんでしょ」
「だから、何回聞かれてもゼロはゼロだって。中高は女友達もほとんどいなかったし――そもそも、誰かとデートしたいなんて思わなかったよ」
「どうして?」
その問いに答えたら、俺はなにかを失うのだろうか。小さくなってきたチョコソフトを見ても、そこに答えはない。
呼吸を何度かして、肩の力を抜く。
失うようなものなんて、最初からなにも持っていない。凡人。それを受け入れたから、躊躇うのも馬鹿らしい。
俺がこの十年、誰のことも好きにならなかった理由。そんなものは明確だ。
「凛音がいなかったからだよ」
「――え」
足を止めてしまったら、取り返しのつかないことになりそうだと思ったから、歩いた。
遅れて凛音がついてくるけれど、なにも追及してはこない。反応が気になって、顔を見ようとしたら目が合った。
彼女の表情が、困惑したものだったから、首を横に振ってつけくわえる。
「嘘じゃない」
「あ、ありがとう……? なのかな」
「どういたしまして」
食べ終わったソフトクリームの、包み紙を手のひらで潰してポケットに入れる。
凛音は他の店にも行くつもりなのだろうか。個人的には、けっこう満足できたからこれで終わりでもいい。
相変わらず、後ろの少女はなにも言わない。振り返ると、なにやらスマホを触っている。黙って見守っていると、凛音は顔を上げた。
「行きたい場所思いついたから、タクシー呼んだよ」
「いや急すぎだろ。せめてなんか言えよ」
「タクシーもうすぐ来るよ」
「そうじゃない! 行きたい場所とかだよ」
「それは着いてからのお楽しみ」
「タクシーなんだから運転手に言う時点でわかるのでは?」
俺が肩を落とすと、凛音は口をぱかっと開けて、見るからに動揺する。全く頭になかったらしい。俺の幼なじみ、定期的にめっちゃアホ。
「み、みみ、稔は後で乗ればいいんだよ! とりあえず、声が聞こえないように四百メートルぐらい離れてて」
「陸上トラック一周分⁉」
タクシーが俺たちの前に到着する。なんだかかわいそうになってきたので、少し下がって手で耳を塞ぐことにした。これで十分聞こえない。
凛音が行き先を伝え、もう乗っていいとジェスチャーしてくる。俺は律儀に、ちゃんと聞かなかった。だが、ここは地元だ。車が走り出せば、すぐにどこへ向かっているかの予想はできる。
……そういうのを口に出さないのが、モテる秘訣なんだろうな。
さっきのやりとりを思い出して、ぐっとこらえる。なんなら目をつむって、窓の外を見ないでおく。
十分もしないうちに、目的地に到着したらしい。タクシーが止まって、ドアが開く。
降りた場所は、予想していた場所とは少し違った。
そこは俺たちが通っていた小学校の近く。だが、近くであって小学校ではない。厳密に言えば、その通学路だ。
タクシーが走り去って、俺たちだけが残った。
意味ありげな微笑みを浮かべる凛音が言う。
「ずっとここに来たかったの。私にとって、とても大切な場所だから」
この道は俺も知っている。六年間通った、いつもの通学路だ。凛音がこっちにいた頃は、毎日のように一緒にここを歩いていた。
なのに、彼女が大切だという理由が俺にはわからなかった。
「ねえ稔。なにか思い出せる?」
「……ごめん。なんのことかわからない」
「そうだよね。だって、稔にとっては当たり前のことだったんだもん」
少女は目を細めて、道の向こうを見つめる。夕日が空をオレンジに染め上げる。その色はあの頃と同じはずなのに、俺たちはこんなに大きくなってしまった。
ゆっくりと、凛音が告げる。
「だから、私は君のことが好きになったんだよ」
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