5章 始まりと終わりを、君に
第31話 始まりの場所へ
あの日の俺も、きっと今の凛音みたいな顔をしていたのだろう。
一番会いたくなかった人が、何の前触れもなく目の前に現れる感覚。息が止まって、頭が真っ白になって、呆然としてしまう。
「……ひさしぶり、だな」
ライブ終わりに押しかけた申し訳なさで、自信のない言い方になってしまった。
明日にしようかとも思った。でも、凛音が確実にここに現れるのはライブ終わりの今夜しかなかった。だから、ここで待っていた。
「なにしてるの。……稔」
「凛音を待ってた」
「どうして」
「一つだけ言いたいことがあったんだ。それが終わったら行くよ」
「なに?」
凛音は警戒しているようだが、たぶん、彼女が想像しているどれでもない。今ここで、なにかの答えを出そうとは考えていないからだ。
「その前に聞いてもいいか。ゴールデンウィーク、残りの予定は?」
「……急いでやらなきゃいけないことはない、かな。たぶん」
「そっか」
凛音は怪訝な顔をして、尋ねてくる。
「ねえ、もしかして――この間のデートの続き?」
「いや。そういうのじゃない。ただの里帰りだよ」
「里帰り?」
「そう。急だけど、明日から実家に戻ろうと思ってるんだ。せっかくだし、凛音も久しぶりに来ないかって誘いに来た」
「えっ……そんな、いきなり言われても」
「この場で決めなくていい。バスの時間と場所だけ後で送っとくから、気が向いたら来てくれ。それじゃ」
右手を軽く振って、背を向ける。何歩か歩いたところで、言い忘れていたことを思い出した。
これはこの場とは関係のないことだけれど。せっかくだ。振り返って、彼女に届くように言う。
「ライブ、最高だったよ」
今度こそ背中を向けて、その場を立ち去った。
凛音は来てくれるだろうか。普通に断られる可能性もある。よくて半々。でも、これでだめなら仕方がない。既に手遅れだったと割り切るしかない。
俺だって、最初は彼女のことを忘れようとしたのだ。本当は、凛音を止める権利なんてない。
ただ、その前に一度だけ足掻きたいだけだ。諦めるにしても、それに足る理由がほしい。身勝手にも、そう思ってしまっただけ。
終電はとっくになくなっているから、えんじゅ荘に戻るのは現実的じゃない。駅のロッカーに預けていた荷物を回収して、ネットカフェに入る。シャワーを浴びたら、あてがわれた個室で丸まって、目を閉じる。
まぶたの裏には、まだ『音響てぃらの』のライブが焼き付いている。イヤホンをつけて、彼女の歌を再生したい衝動に駆られる。それを抑えて、毛布を深く被る。
疲労もちゃんとあったから、固い床の上でも眠気は徐々に回ってきた。
目を開けた。
「もう朝か……」
感覚的には一瞬だが、体のきしみ方から時間が経っていることがわかる。スマホで時間を確認すると、横になってから六時間ほど過ぎていた。
たまにある、昨日と今日が地続きになっているみたいな覚醒。
あまりにもスムーズに目が覚めるせいで、寝た実感が湧かないやつだ。きしむ体を起こして、余った時間を潰す。頃合いを見て外に出ても、まだバスの時間には早い。
凛音も来れるようにと、昼過ぎの便を指定したからだ。
適当なコーヒーショップに入って、だらだら過ごすことにした。コーヒーは帰ったら自分で淹れればいいから、キャラメルマキアートにした。ご機嫌な休日だ。
本当に凛音は来るのだろうか、という不安を隅に追いやる努力をする。油断したら、道ばたの花を持ってきて「来る、来ない、来る、来ない」とかやってしまいそうだ。
そわそわして、結局早い時間にバスターミナルに到着してしまった。ここでもまた、凛音が来るか気にし続けることになるのだろうな……。
と思っていたら、視界の端にマスクとサングラスをつけた女性が映った。
インナーカラーに赤を入れたボブカット。キャリーバッグを転がして、周囲をきょろきょろ見回している。だが、近くにしか焦点が合っていないようで、俺に気がついた素振りはない。
どう見ても凛音。俺が百人いたら、百人揃って凛音だと言うほどの凛音。マスクとサングラスごときで隠れられるとでも思ったか凛音。顔が全く見えなくても、立ち姿だけでそれとわかるのが凛音。
しまった。興奮して思考回路が侵食されてしまった。
冷静さを取り戻して、一歩ずつ近づいていく。凛音はすぐに気がついて、ピタリと動きを止めた。俺の足もピタリと止まったのは、妙な気まずさが生じたからだ。
昨晩は一瞬だったからよかったが、この後どうやって間を持たせるかは考えていなかった。バスで二時間。その後もいろいろ回ると考えると……果たして乗り切れるだろうか。
いや、そんなことを心配しても仕方がない。意を決して、残った距離を縮める。
「来てくれたんだな」
「……うん。暇だったから。なんとなく」
指先で髪の毛をいじる。凛音はよそよそしい返事をした。
「席、取ってくるから。行くね」
「もう取ってるよ。誘っといて、席がありませんなんて馬鹿馬鹿しいだろ」
「そうなんだ。仕事が早いね」
「だろ」
小さく微笑んで、待合室に向かおうとした。袖が引っ張られる。
振り返ると、不安そうな顔をした少女が立っていた。
「ねえ、稔は怒ってないの? 私、急にいなくなったり……連絡も、無視したのに」
「めちゃくちゃ困ったし、死ぬほど心配した。でも、それだけだよ。逃げたことを怒る権利なんて、俺にはない」
俺が逃げて、凛音が引き留めて。
凛音が逃げて、俺が引き留めた。
ただそれだけのことだ。足して合わせたらゼロになる。だから、どちらが悪いとか、そういう話にはしたくない。するとしても、たぶん、俺の方が悪い。凛音もそうやって言うのだろう。だから、意味がない。
「あのさ、凛音」
「なに?」
「来てくれて、ありがとな」
「……うん」
くすぐったそうに答えて、彼女はそっと目をそらした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます