第30話 雛森凛音のハッピーエンド

 ネットで調べたり、笹岡さんにアドバイスをもらったり、そわそわしている間にその日はやってきた。


 ライブに行くのは初めてだから、会場に到着する前から緊張しっぱなしだった。心臓がうるさいくせに、現実感はなかった。本当に『音響てぃらの』のライブはあるのだろうか。だが、歩いていたら、明らかにファンの格好をした人がいて、一気に脳がこれを現実だと認識した。


「すっげぇな……」


 会場前には長蛇の列。これだけでも大規模なのに、会場がドームだったら、もっと大勢のファンが来るのだろう。だめだ。想像しただけで緊張する。 俺が歌うわけじゃないのに。


 整理券に従って中に入って、隅の方になんとか居場所を見つける。物販は俺には難易度が高い。あの戦場に飛び込んだら、一瞬でスクラップになる自信がある。


 ただまんじりともせず、ライブが始まるのを待つ。グッズを一つも持っていない俺は、この中では浮いているのではないだろうか。というかそもそも、女性ファンの方が多く見られる。男性もいるにはいるが、やはりメイン層は若い女性なのだろう。


 開始時間になると、照明が切り替わり、音楽が流れ出す。黄色い歓声が波紋のように広がる。


 その音は、イヤホン越しに聞くものとはまるで違った。

 軽やかな電子音にドラムやギターの演奏が乗って一気に臨場感が出る。


 平面にいたキャラクターが飛び出してくるように、魔法みたいな足取りで『音響てぃらの』は現れた。スポットライトが彼女を照らす。


 顔の上半分を隠す仮面をつけて、華やかな衣装を凜と着こなす。

 彼女は自由だった。その動きは、喜びに満ちていた。


 横顔を、思い出した。

 ――私が歌いたい歌は、私にしか作れないって思うから。

 そう言っていた、凛音の横顔を。あの言葉の意味が、今ならわかる。


 これは彼女の歌だ。彼女の音だ。この空間は、まるごと全部彼女のものだ。それはどれほど、心地よいことだろう。この場所に至ることは、どれほど大変なことだろう。


 知らぬ間に、鳥肌が立っていた。

 それは絶望ではなく、歓喜によるものだった。


 嬉しかった。こんなに純粋に、彼女の歌を凄いと思うことができることが。それほどまでに、『音響てぃらの』は圧倒的だった。


 彼女のファンになりたい。そう思える自分が、少しだけ誇らしい。





 小さい頃から、歌うことが好きだ。大好きだ。


 好きなことに身を任せて、心を乗せて、気がつけばこんなところまで来ていた。


 たまに思う。自分が本当にしたかったことは、これじゃないんじゃないかって。歌を作る必要も、プロになる必要もなくて、小さなカラオケで友達相手に歌うだけで満足できるんじゃないか。

 こんな時間よりも、稔といる時間の方がずっと大切なのではないか。


 そんなふうに、思うけれど。

 凛音は歌を選んだ。選択を迫られたとき、稔よりも歌が大事だと思ってしまった。


 えんじゅ荘から離れて数日で、再び歌が作れるようになった。呼吸の仕方を思い出したみたいに、生き返る心地がした。


 そして今日、ライブ会場に立っている。息を吸うたびに、音が鳴るたびに、歌うたびに、世界に色がつく。観客の熱狂が心底愛おしく思えるし、自分を照らしてくれるすべてに心から感謝できる。


 生まれてきた理由は、ここにあったんだと思う。


 ――稔に会いたくて、歌を歌ったのに。

 ――歌うために、稔から逃げてしまった。


 二人で水族館に行った。あのときまで、凛音は自覚していなかった。自分の中にあった『音響てぃらの』という一面が、こんなに大きくなっていることを。そのためなら、雛森凛音としての願望を捨てられることを。


 この会場に、稔はいるだろうか。いてもいなくても、どっちでもいい。

 今日が終わったら、もう一度だけ稔と話そう。彼ならきっと、わかってくれる。


 そして終わらせるのだ。長かった初恋を。終わり損ねた、彼女の始まりを。


 ――ねえ、稔。

 ――私、最後まであなたのことが大好きだったよ。


 だからこれは、私にとってのハッピーエンド。





 ライブが終わって、家に帰る頃にはとっくに終電もなくなっている。

 予約していたタクシーに乗って、実家のマンションに向かう。きっと今頃、両親はシャワーを浴びたりしているだろう。暗くない家に帰れるのは、安心する。電気のついてない廊下は、何歳になっても苦手だ。


 疲労でぐったりしている凛音に、運転手は話しかけてこない。その気遣いに甘えて、到着まで彼女はまどろんでいた。


 料金を支払って、外に出る。

 初夏の風。夜はまだ、ぬるい空気の中に冷たさが残っている。車通りが少ないこの時間は、少しだけ空気が綺麗な気がする。


 コンビニに寄って、適当に夕飯を買う。レジ袋を前後に振りながら、のんびり家に向かう。どんなに疲れているときでも、この時間は好きだ。帰り道をかみしめる。その間に、今日を振り返って、明日に思いをはせる。


 稔に別れを告げる。


 別に付き合っていたわけではないけれど、無言のままで終わる関係でもない。


 どんな言葉を伝えればいいだろう。考えると憂鬱だけれど、これが正解なのだという確信がある。


 凛音も、稔もちゃんと自分の道を進むべきだ。その先で出会う、他の人と結ばれるべきだ。


 もしかしたら、稔もこんなふうに思っていたのかもしれない。だから、凛音に連絡を取らなかった。綺麗な記憶のまま、そっと消えようとした。消そうとした。


 ――だとすれば、私は大馬鹿だ。


 同じ結論を、彼よりも遅れて出した。そのせいで、稔を傷つけてしまった。


 なんて独りよがりで、身勝手で、汚いものだ。

 こんなもの、恋じゃない。ただの空っぽな執着だ。捨ててしまおう。これ以上、誰かを傷つけてしまう前に。


 そう決めたはずなのに。こんな時に限って、執着は現れる。



「……ひさしぶり、だな」



 これを執着と呼ばずして、なんと呼べるだろうか。

 こんなに愛おしいものに、どうして執着せずにいられるだろう。


 街灯の下に、彼は立っていた。伸ばし始めた黒髪に、黒い襟付きのシャツと、オーバーサイズのズボン。いつも少しだけ下を見ているくせに、こういうときはちゃんと目を見てくる。素朴で、不器用で、誰よりも純粋な人。


 なにもかもが、あの頃のままで。


 久瀬稔は、立っていた。

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