第29話 ノットイコール
笹岡さんは予期していなかった答えに、瞬きを繰り返す。俺の方に顔を向けてから、ゆっくりと視線を落とした。
「そうか。……まあ、それも答えの一つだよな」
「でも、『音響てぃらの』のライブには行きたいです」
笹岡さんが顔を上げる。目が合ったので、俺はそっと視線を外した。わかりづらい言い方をしてしまって、申し訳ない。
でも、俺にとっては譲れない部分だった。
雛森凛音と『音響てぃらの』は、同一人物だ。でも、それを同じものとして扱うことは、必ずしも正しいことではない。
久世稔と、かつて俺が抱いた理想が同じではないように。
見方を誤れば、そこにはきっと歪みが生じる。その歪みが俺を苦しめた。
「凛音と会ったの、十年ぶりなんです。だから実は、一緒にいた期間よりも離れてた期間のが長くて。あいつのこと、実はなんにも知らないんです」
笹岡さんは俺の話に耳を傾けてくれている。
「急に帰ってこなくなった理由も、俺にはわかりません。ちゃんと歩み寄らなかったからです。俺が、あいつのアーティストとしての側面を、ちゃんと見なかったから」
凛音がカミングアウトしてくれた後ですら、俺はその話題を積極的には持ち上げなかった。彼女の歌を聴くこともなかった。
いったい、どんな覚悟で凛音がそれを明かしてくれたかも考えずに。
「もう遅いのかもしれない。それでも、俺はあいつの歌が聴きたいです。アーティストとしての凛音を、ちゃんと見たい」
頭を下げた。深く、できるだけ丁寧に。
「だから、俺にチケットを買わせてください」
ゆっくり顔を上げると、笹岡さんは難しい顔をして、眉間に指を当てていた。濡れた髪を指でガシャガシャ荒らして、ゆっくり両手で掻き上げる。それから俺の方を見て、肩をすくめてみせた。
「久瀬って、俺が思ったより大変だったんだな。すまん。先輩として、理解が不足していた」
「なんで謝るんですか。笹岡さんはなにも悪いことしてないでしょ……賭けは悪いことですけど」
「それについては、一切悪いことをしたとは思えん」
「なんでそこは頑ななんですか。じゃあ他も無罪ですよ」
「そうか。じゃあ無罪でよろしくな」
へへっ、と軽く笑って笹岡さんは大きく頷く。
「チケットは帰ったらやるよ。安心しな。手数料は取らないから」
「ありがとうございます。……でも、どうしてそこまでしてくれるんですか」
「音楽だからだよ」
笹岡さんが上を向く。同じ方向を見れば、星のない夜空が広がっていた。東京は明るい。この街からは、一等星すら消えてしまいそうだ。
俺たちはたくさんの音に包まれている。それなのに、隣の声ははっきりと聞こえた。
「俺はただ、音楽が好きなやつが一人でも増えればいいと思った。それだけだ」
「うちのアパートじゃ、猫は飼えないですもんね」
「そうさ。音楽は場所も取らないし、エサ代もいらない。こんなにいいものがあるか」
この時代ならいくつかはありそうだ。とは思ったが、無粋なので肩をすくめるにとどめた。
笹岡さんは満足げに頷いて、立ち上がった。
冷えた体を温めるために、俺たちは再び湯船に浸かる。
「さて久瀬。今から、どっちがより長く耐久できるか勝負だ」
「それも人間に必要な罰、ですか」
「理解が早いな。さすが久瀬、俺が見込んだ男だ」
「いいでしょう。受けて立ちますよ」
ここは風呂を出てすぐにある休憩所。
愚かな虫けらを眺めるような目で見下ろしてくるユナさんが、よく冷えた瓶牛乳を額に押し当ててくる。
「どうしてこうも、生者の男というものは愚かなのだろうな」
その横では松村さんが、頬杖をついて大きなため息を落とす。
「ササオ。どうせまたあんたが、久瀬くんをバカなことに誘ったんでしょう。だめよ、この子意外とバカでノリがいいんだから」
湯上がりで髪を下ろした女性陣二人は、いつもと雰囲気がまったく違う。ちゃんと見ると、どちらもタイプの違う美人だ。
だが、そんなことに感心している場合ではない。
「「……申し訳ありません」」
彼女たちの正面で、机に寄りかかって動けなくなったアホ二人。より長く風呂に入るという勝負の末、揃って全身真っ赤に茹で上がった。大学生の意地で、どうにかここまでは歩いてきたが、その後はご覧の通りだ。
いつもは一緒にふざけてくれるユナさんに怒られるの、普通にへこむ。松村さんにバカでノリがいいと思われてたのも、地味にダメージ。だが今回ばかりは、百パーセント俺が悪いのでなにも言えない。無念だ。
「みのるん。脱水症状にでもなったら大変だ。その牛乳を飲みたまえ」
「あ、ありがとうございます」
やっぱりユナさんは素晴らしい先輩だ。カラカラに乾いた喉に、まろやかなうま味が広がっていく。やっぱり風呂上がりは牛乳だよな。
「ユナぁ……俺のは?」
「ササオ氏は後輩扱いの適用外なのだ。すまない」
「くっ、留年してユナの後輩になりたいぜ」
「ササオ氏は一つ上だから、二度の留年が必要だな。頑張るといい」
頭を抱える笹岡さんの肩を、松村さんが軽く叩く。
「ササオには、私がやってあげましょうか」
「うぇっ⁉ 委員長やってくれんの? 頼むわ」
松村さんが立ち上がり、すぐに戻ってくる。机の上に置かれたのは、小さな紙コップ一つ。
「はい。無料の水よ」
「やっぱりなんか違う……」
がっかりした顔で、ちびちびと水を口にする。動きは小動物だが、見た目がゴリゴリの成人男性だ。ギャップがすごい。萌えないけど。
笹岡さんを見て、松村さんが心底楽しそうに笑っている。こっちもギャップがすごい。俺にはまだ感じられない萌えだが、需要はありそうだ。
紙コップを握りつぶして、笹岡さんが勢いよく立ち上がる。休憩したことで、すっかり動けるようになったらしい。
「腹減ったし、食堂で飯食ってから帰ろうぜ」
動き出した三人に続いて、俺も立ち上がる。情けないことに、若干くらっとした。
賑やかな館内を歩く。ここは楽しめる場所だ。風呂に入った後も、いろいろできることがある。
凛音と来たら、きっと楽しいだろうな。
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