第27話 凡人

「わたし、転校するの」


 そう告げたときの凛音を、覚えている。

 まだ涼しい初夏の夜のことだった。草むらの上で三角座りをして、彼女の目は赤く腫れていた。鼻をすすって、この世界で一番の悲劇みたいに凛音は泣いていた。


 俺が泣かなかったのは、彼女が先に泣いていたからだ。転校とか、そんなことより、目の前の凛音の涙を止める方がずっと大事だった。


「泣かないで、りおん」


 幼い俺が、しゃがんで彼女の肩に触れる。凛音が手をぎゅっと握りしめて、頭を腕の中に埋める。首を左右に振る。


「やだ……やだよ、みのるに会えなくなる……」


 そんなふうに言われてしまったら、もう俺はなにも言えなかった。ただ、彼女の隣に座って、目の前に広がる湖を見つめていた。綺麗な景色だと思った。自然に対してそう感じたのは、生まれて初めてのことだった。


 凛音が落ち着いたところで、そっと彼女の肩に手を置く。


「大丈夫だよ」

「みのるは、平気なの? わたし、いなくなっちゃうんだよ」


「いなくならないよ」


 確信があった。あの頃の俺には、強い確信が。

 サンタさんはいるとか、宇宙人の写真が本物だとか、本質的にはきっと、そんなことと同じだろうけれど。ただ、そこにあるものを信じていた。


 凛音がゆっくりと顔を上げる。目を合わせて、言い聞かせるように続けた。


「僕たちは、また会えるよ」

「……でも」


「大人になったら、どこへでも行けるんだって。だから、りおんに会いに行くよ。ぜったい」


 見つめ合って、お互いに黙っていた。言葉を待っていた。凛音が返事を思いつくまで、彼女の手に、自分の手を重ねて。

 やがて凛音が顔を上げる。その目には、光が宿っていた。


「わたしも、大人になって、みのるに会いに行く」


 それが、あの日に交わした約束だ。


 大人になったらなんでもできると、希望を前借りして、俺たちは小指を結んだ。

 そして――


「みのるは、大きくなったらなにになるの?」

「わからない。でも、たくさん勉強して、すごい人になりたい。りおんは?」


「わたしはね、歌をたくさん歌いたい」

「じゃあ、歌手だね。りおんは歌がうまいから、日本で一番の歌手だ」


「うん。わたし、日本で一番の歌手になる!」


 約束を重ねた。

 幼い俺は、自分が『すごい人』になれると信じて疑っていない。実際、この頃は周りと比べて頭がよかった。小学生時点の優劣なんて、すぐに関係なくなるとは知らなかった。


 もしも、このときにそれを理解していたら。俺はどんな選択をしただろう。


「お前は、何者にもなれないよ。ここから先にあるのは、挫折だけだ」


 どうせなにも起こらない夢だ。かつての俺は、凛音と手を繋いで湖を見ている。


 その横顔を見ていたら、理解してしまった。


 もしも未来がわかるとしても、俺は振り返らなかっただろう。成功も挫折も、あの日の俺には関係のないことだった。なにかになりたいなんて、思っていなかった。そんなものは方便で、ただ横にいる少女と未来を語りたかった。


 それだけだった。

 ゆえに、願ったこともただ一つ。



 ――また、君に会えたら。





 布団から体を起こした頃には、すっかり日が昇っていた。外が明るい。


 ボサボサの頭を撫でてシャワー室に行き、ざっと寝癖を直す。タオルで雑に乾かして、歯ブラシをくわえる。台所の食パンをトースターに突っ込んで焼き、鍋に水を入れて火にかけたら、歯磨きを完了させる。戻ってきてコーヒー豆を挽き、朝の一杯を淹れる。焼けたパンにジャムを塗って、皿に載せて立ったまま食べる。


 台所飯。ずぼらな一人暮らしなんて、こんなもんだろう。

 使い終わった食器をさっと洗って水切りに置いて、大きく深呼吸。


「よし。捨てるかぁ!」


 本棚の前に仁王立ちして、明らかに異質な一角に手を入れる。

 大学一年生の前期。大して教科書も買わず、読書が趣味でもない俺の本棚は、なぜかそれほど余白がない。


 畳の上に落としていくのは、高校時代に使った、大学受験の参考書たち。

 挫折を引きずって、忘れようとして、そのくせ目を背ける勇気もなくて、こんなところまで持ってきてしまった。これさえ持っていれば、まだ引き返せるような気がしたから。


 でも、引き返して勉強に打ち込んだところで。きっとそこに、凛音はいない。俺自身、そんなことは望んでいない。

 望んでいないものに、人はなれない。


 パラパラめくると、苦しかったときの記憶が蘇ってくる。どれもくたびれたものたちだ。


「けっこう頑張ったよな……俺も」


 努力した。でも、だめだった。だから心が折れてしまった。

 けれど、こうして振り返ると少し印象が変わっている。自分はちゃんと努力できた。その事実に、救われる。きっとこれからも、俺はちゃんと頑張れる。そんな気がしたから。


 参考書を大きさごとにまとめて、ヒモで縛る。中古で売るつもりはなかった。こんな縁起の悪いものは、次の世代に繋いではならない。


 鞄と袋に詰め込んだら、処分できる場所を探して家を出る。


「おもてぇ……」


 出発してすぐに、後悔した。せめてママチャリぐらいは買っておけばよかった。全教科ぶんあるから、なかなかに重たいのだ。


 休憩を挟みながら、なんとかリサイクルステーションに到着。新しいカードを発行して、参考書たちを放り込む。


 物理的にも精神的にも、一気に軽くなった気がした。

 俺はまだ、なにも持っちゃいない。でも、いったん、それでいいことにしよう。


 平凡だって、俺は、雛森凛音の幼なじみだ。

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