第26話 迷い続けること
どうせ俺は、あのチケットを手に入れて『音響てぃらの』のライブに行くのだろう。わかりやすい男だ。諦めないと決めた。だからできることはする。それがたとえ、意味のないことだったとしても。自分がただ、傷つくだけだったとしても。
もっともらしい理由をつけて、どうせ、俺は。
冷めた思考が自己嫌悪をかき立てて、その夜はほとんど眠れなかった。
諦めてパソコンを開き、鬱々とした気分でブルーライトを浴びる。無駄な時間だ。立派な会社への就職とか、社会で活躍するには学生時代の経験が大切だというのに。今日もこうして、人生を浪費するだけ。
――稔はさ、今のままでもいいんじゃないかな。
凛音に言われたことが、頭から離れない。あれは彼女の本心だったのだろうか。それとも、気を遣ってくれたのか。
このままでいい、なんて言うなら。……いなくなるなよ。
恨みがましい感情まで出てきてしまった。疲れているだめだ。どんどん無駄なことばかり考えてしまう。だが寝れそうにない。いつの間にか、外はすっかり明るくなっていた。
アナログ時計の八時三分が、やけに現実感のある数字だ。
部屋に居ても鬱々とするだけだから、少し外の空気を吸おう。そう思って外に出たら、この時間から活動している人がいた。
畑で黙々と雑草取りをしているのは、ジャージ姿の松村さんだ。
階段を降りる音で俺に気がつき、立ち上がって目の前にやってきた。
「早起きとは素晴らしいことね。久瀬くん」
「おはようございます。朝から畑仕事ですか」
「ええ。今日は苗を植える予定よ」
「進んでますねえ」
「人生とは進み続けるものよ」
「すいません。そこまでの規模感で会話してないです」
「あら、そう」
畑の入り口には、なにかしらの苗が用意されている。けっこうな量だ。種類も一種類ではないのだろう。淡々と手を動かし続ける。そんな作業を思い浮かべたら、口が勝手に動いていた。
「よかったら俺に、手伝わせてもらえませんか。どうせ今日も暇だし」
松村さんは目を丸くすると、「もちろん」とうなずき、苗の横にあるカゴを指さした。
「あそこに軍手があるから、着用して作業してくれるかしら。朝ご飯は? まだならおにぎりを持ってくるけど」
「食べてないですけど、おなかも減ってないので。今は大丈夫です」
「そう。ならさっそく一緒に草抜きをしましょう」
「はい」
一刻も早く、目の前にある単純作業で頭の中を満たしたい。体を疲弊させて、気持ちよく布団に潜り込みたい。必死に取り組むには、十分な理由だ。
軍手をつけて、まだ手入れの行き届いていない場所の雑草を引き抜いていく。一箇所に集めておいて、ある程度の量になったら畑の外に持って行く。天日で枯らして畑の隅に埋めるらしい。
ゴールデンウィークの東京は既に夏日だ。額に浮かんでくる汗を拭き取りながら、黙々と手を動かす。
「そろそろ休憩にしましょうか。お茶持ってくるから、休んでいて」
気がつけば、太陽はずっと高い場所にあった。そりゃ暑くなるわけだ。
建物の影に移動して、だらっと直立。靄がかかったような鈍い思考と、不快な浮遊感。徹夜のダメージがじわじわと出始めていた。だが同時に、奇妙な安心感もある。ボロボロになっていれば、そのことで頭を満たせる。
ドアが開いて、松村さんが出てきた。手に持ったお盆には、麦茶の入ったグラスとラップに包まれたおにぎりが乗っている。
「これをどうぞ」
「ありがとうございます」
ご厚意に甘えて、麦茶とおにぎりをいただく。グラスには氷が入っていて、中はよく冷えている。一口飲むと、水分が全身に行き渡っていくような心地がした。強張っていた全身から、ゆっくりと力が抜けていく。
おにぎりは塩味がしっかりして、流れた汗のぶん美味い。
「手伝ってくれて助かるわ」
「こちらこそ、やることがあってよかったです」
「久瀬くんは普段、なにをしているの? 趣味とかも聞いたことがないけれど」
「趣味はないです。あったらいいとは思うんですけどね」
高校時代は勉強に捧げたが、別に好きだったわけじゃない。大学に入って目標がなくなった今、打ち込めることは一つも残っていないのだ。ただ課題をやって、バイトして、過ごす日々が続いている。
「節約はいいわよ」
「松村さんの節約は能動的ですよね」
長い黒髪を風に揺らしながら、松村さんは健康的に笑った。
山菜を採りに言ったり家庭菜園をしたり、DIYとかもするのだろう。それは単一の趣味というよりも、複数の趣味の集合体だ。
よく考えれば、このアパートの住人は皆がなにかに打ち込んでいる。松村さんは節約、ユナさんはオカルト、笹岡さんと凛音は音楽。俺だけが、ふらふらとしている。
「趣味、なにがいいんでしょうね」
「好きなだけ迷えばいいのよ。迷うことは、立ち止まっているわけじゃないもの」
迷ってばかりの俺に、そんな言葉を告げて、松村さんは畑の方へ歩いて行く。
おにぎりを食べきって、俺も作業に戻ることにした。
普段はあまり接点がないけれど、松村さんとの距離は心地がいい。黙っていても気まずくないし、話題がないからフワッとした会話で済む。
だから俺は、安心して考え事を続けた。
気がつけば昼過ぎで、苗が畑に整列していた。自分でもあまり覚えていないくらい、作業に没頭していたらしい。
「やりきったわね」
「はい」
最後の笑顔は、俺も健康的にできたと思う。
◇
苗を植え終わった後は、シャワーを浴びて、そのまま深い眠りについた。
夢を見た。
俺は一人で、あの夜の景色の中にいた。
満天の星、群青の夜空、どこまでも続く青の湖、柔らかな草原。
空気の匂いも、温度も鮮明に思い出せる。あのとき俺が、そこに立っている。
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