第25話 苦手な“音楽”
笹岡さんは目の前まで、急停止する。少し遅れて追いついた松村さん。二人揃って、膝に手をついて肩で息を吐く。いったいどこから走ってきたのだろう。かなり苦しそうだ。
汗だくになった笹岡さんは、そのままアスファルトに倒れ込む。
「ちょっ……と待っててくれな。苦しすぎて……」
「情けない……わね、ササオ……そんなことだから、……」
横で松村さんもへなへなと座り込む。
二人がこんなになるまでして俺に伝えに来たことって……なんだ。全然想像がつかない。
戦慄していたら、ユナさんが外に出てきた。様子が気になったのか、近づいてくるとボロボロの二人を発見して目を見開く。
「二人とも! なにがあった⁉ いったい、誰にやられたのだ!」
駆け寄ってくると、交互に二人を心配する。その動きが必死すぎて、全力疾走してそのまま動けなくなった。とは言えなかった。
笹岡さんは意味深げに、ニヤリと口角を持ち上げる。
「俺としたことが油断したぜ……まさか委員長と二人がかりでこのざまとはな」
「なんとっ、敗れたというのか。二人ほどの戦士が、たった一人のみのるんに?」
「ユナさん、俺は代名詞じゃないです。そして想像してるようなことも起こってないです」
戦士と対比して出されると、一種の職業みたいになっちゃうから。みのるんは稔の変化系。あくまで俺一人のあだ名であること、忘れないでほしい。
ユナさんは小刻みに肩をふるわせると、畏怖するような目を向けてくる。
「なんと、もはやササオ氏らでは勝負にすらならないと」
「この人たちが走ってきて、そのまま倒れ込んだんです」
「なっ……騙したのか! ササオ氏」
目を見開いて、石像のごとく硬直してしまうユナさん。逆に、どうして俺がこの二人を倒したと考えたのか説明してほしい。
「悪い悪い。つい、な」
笹岡さんは意地悪く微笑んで、ゆっくりと立ち上がった。尻についた砂を払って、ポケットに手を入れると、俺を見据えて不敵な顔をする。呼吸は既に整っていた。サングラスの奥にある瞳が、射貫くような鋭さだ。
「待たせたな、久瀬」
「なんでしょう」
「緊張しなくていい。お前はただ選ぶだけだ」
笹岡さんはポケットの中から右手を出す。その手には、一枚の紙切れ――縦長の形状、あれは……。そこに印刷された文字が目に入る。
頭をよぎったのは、ついさっき、ネットで見たばかりの情報。背筋がぞくりとした。
「どうして、それを……」
「知り合いが行けなくなったって言うから、さっき買い取ってきた」
サングラスと同じ高さに掲げられた、そのチケットは『音響てぃらの』のライブのチケットだ。ゴールデンウィークの後半戦。都内のライブハウスで行われる。予約受付なんて、とっくの昔に終わっているはずなのに。
なによりも、笹岡さんは知らないはずなのに。凛音がシンガーソングライターであることは、家族と俺ぐらいにしか明かされていない。
ということは――ヘッドホンをつけ、身じろぎもせず音楽に聴き入っていたあの時に。
「なんでわかったんですか。凛音は、なにも言わなかったはずですよね」
「運が良かったのさ」
言外に肯定して、笹岡さんは明かす。
「この間遊んだ軽音の後輩が、彼女の大ファンなんだ。ほら、言ったろ。ドライブデートは音楽を流せるって。もっとも、そのときは『この声、どっかで聞いたことがあるな』ぐらいだったが」
そこで一呼吸置いて、笹岡さんは俺のことを指さす。
「いつものように久瀬のことを考えていたら、考えが浮かんできたのさ」
「生活の中に俺のことを考える時間を作らないでください。不可解なので」
「なにを言ってるんだ。久瀬のことを考えないと、賭けに勝てないだろ」
「賭けをするなと言ってるんですよ」
どうしてやる前提で話をしているんだこの人は。そんなもののせいで、匿名を突破された凛音が不憫すぎる。
これだけ言ったって、辞めるかどうかはわからないし、正直今はどうでもいい。それよりなぜ、笹岡さんがこの話をしているのかが大事だ。
「俺にチケットを見せて、なにがしたいんですか」
「俺はなにもしない。ここから先は、久瀬。お前がどうしたいかだ」
「……欲しいって言ったら、買わせてくれるんですか」
「そうだ」
端的な答えだった。予想はしていたが、即答だったので返事に詰まってしまう。
俺に譲るために、後輩のところへ走っていったというのか。この人は。意味不明だ。
「すぐに返事をしろとは言わん。苦手な〝音楽”を聴く気になったら連絡しろ」
チケットをポケットにしまうと、笹岡さんはそのまま部屋に戻っていった。
後に残されたのは、立ち尽くす俺と、ユナさん。未だに座って休憩している松村さん。二人と顔を見合わせて、ゆっくりと呼吸をする。
笹岡さんに言われたとおり、答えはすぐに出せそうになかった。
考えたいこと、知りたいことは山ほどあるが、とりあえず目の前のことを尋ねてみる。
「なんで松村さんも走ってたんですか」
「ササオが走り出したからよ」
「アホの生き物みたいな動機だった……」
やっぱりこの人が一番やばいかもしれない。
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