4章 また君に会えたら
第23話 二律背反
凛音がえんじゅ荘に帰らなくなって、三日が経った。
「みのるん、どうやら世間は、今日からゴールデンウィークらしいよ」
「そうなんですか。大学がないのは、楽でいいですね」
「年に何度もない大型連休だというのに、君はいったい、なにをしているのだ」
「それはユナさんたちにも聞きたいですよ」
このぼろアパートに住む人間には、暇人属性が付与されるのだろうか。上級生三人と俺は、どこへ行くわけでもなく昼間からユナさんの部屋に集合している。
集合している、といっても笹岡さんはヘッドホンをつけて音楽に浸り、松村さんは膨大な量の課題を相手にしている。ちゃぶ台を囲んでだらだらしているのは、俺とユナさんだけだ。
この場所に、凛音の姿はない。
『しばらく実家に帰ります』
という連絡がグループにあってから、まるで音沙汰がない。
連絡をしてから、じゃない。俺の場合は、もっと前からだ。
水族館で泣いていたところから、なにかがおかしかった。さっきまで噛み合っていた歯車が、急に壊れてしまったような気がした。
隣にいる少女が、俺の知る雛森凛音ではないような気がした。
もう諦めないと、手を離さないと決めたところで。俺にはなにもできなかった。
この部屋の空白が目に入ると、無力感がこみ上げてくる。
ため息はこらえた。だが、顔に出てしまったらしい。ユナさんが、
「沈んだ顔をしているな。そんなときは、ナンシーを抱いておくといい」
ちゃぶ台の上に、ぽんと置かれる呪いの人形。長期休暇のときは、研究会の誰かが持っておくきまりになっているらしい。
「さくっとメンタル破壊されるくらい弱ってるので、遠慮しておきます」
「安心していい。ナンシーは傷ついた人間には優しい。特にしつれ――」
課題をしていた松村さんが咄嗟に右手を動かし、ユナさんの口をわしづかみにした。じたばたする小柄なユナさん。松村さんは彼女をじっと見ると、言葉で釘を刺す。
「ユナ」
「……ごめんなさい」
松村さんはちらっと俺のことを見ると、小さく頭を下げる。
「気にしないで」
「いやいや、気にしますよ。なんですか急に。え、俺、なにかしましたか?」
「みのるん。もういい。辛いことがあったなら、無理に笑わなくてもいいのだよ」
ユナさんまで肩を叩いてきた。原因不明の気遣いに、俺はようやく思い当たる。
「……もしかして、俺がフラれたと思ってます?」
ピシッと空気が凍り付く音がした。無音なのに、はっきり聞こえた。会話の亀裂。
硬直するユナさん。額を抑えて、深いため息を吐く松村さん。相変わらずヘッドホンをつけたままの笹岡さん。机の上のナンシーさんだけが、真っ直ぐに俺を見つめてくれる。
しばらくの沈黙の後、ユナさんが動き出した。
「ち、違うのかい」
「違いますよ。……そりゃ、なにもなかったわけじゃないですけど、フラれたわけじゃないです。っていうか、別に俺はなにもしてないし」
なにもしてない。はちょっと言い過ぎかもしれない。手は繋いだ。自分から。
たぶん、あれがトリガーだったんだとは思う。でも、なぜあのせいだったのかはわからずにいる。
「気になる言い方ね」
松村さんは課題をしまうと、ちゃぶ台の上に身を乗り出してきた。ノリノリじゃん。
「フラれていない、ということはつまり――久瀬くんがフッたの?」
「それは違います。……すいません。なんにもわからなくて」
場の空気が気まずかったから、立ち上がった。もう二時過ぎなのに、昼飯をまだ食べていない。これを言い訳にしよう。
「スーパー行ってきます」
引き留められたりはしなかった。ユナさんと松村さんに見送られて、外に出る。
それにしても、今日の笹岡さんは音楽に集中していた。一度も目が合わなかったことなんて、初めてだ。
ゴールデンウィークにもなると、東京はすっかり初夏の装いになる。
咲き誇っていた桜は落ち、代わりに青々とした葉が揺れている。気温は二十度を越え、日向にいるとじんわり暑い。
スマホを開いて、メッセージアプリを開く。俺が凛音に送ったものは、まだ既読すらついていない。見ないようにしているのか、もうブロックされてしまったのか。どちらにせよ、連絡がつかないからできることもない。
ただ、声が聞きたかった。凛音の声が。
だから俺は、イヤホンをつけて『音響てぃらの』の歌を再生する。
初めて彼女の歌を聴いたとき、俺はそれが、とても美しい歌だと思った。
電子楽器のポップな音と、少女の軽快なソプラノ。軽やかな歌詞にはしかし、薄膜のような憂いがあった。
彼女の歌は、悲しみを抱えて、それでも前向く人の歌だ。
だから、多くの人に受け入れられる。人を支える力がある。
『音響てぃらの』は日本で一番の歌を歌った。音楽配信サイトの一番上にきて、数え切れないほどのテレビ番組で紹介される歌を。
遠い人だった。追いつけなくなったと思った。
でも、俺が本当に打ちのめされたのは。
彼女の歌を聴いたときに、気がついてしまったからだ。その歌を歌う人には、悲しみが必要なことに。とうの昔に、彼女はその感情を力に変えてしまったことに。
悲しさを足枷にして、ずるずると這いつくばる俺とは違う。
その差異が、俺を絶望させた。もう彼女には、俺が必要ないと思った。だから忘れようとした。
音楽を避けるようになってから、一年以上経った。
今になってようやく、耳を澄ます。怖いことだ。けれど、逃げたいとは思わなかった。
耳から入ってくる音楽は、確かに凛音が歌っているものだ。
だが、俺にはそう受け取れない。これは『音響てぃらの』の歌であって、凛音の歌ではない。そんな気がした。
「……ああ、そうか」
そして、ようやくそこに辿り着く。
俺はきっと、何も間違っていなかったのだ。
俺はやはり、完膚なきまでに間違えていたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます