第22話 あの夜に消えた歌

 実家に帰って来るのは、約一ヶ月ぶりだ。


 凛音は元から東京で暮らしていたので、その気になれば電車一本で帰省ができる。玄関を開けて、真っ暗な廊下に声を投げる。


「ただいまー」


 しんと静まりかえって、なにも帰ってこない。今日も両親は遅くまで仕事らしい。いつもはそれが寂しいと感じるが、今日は都合が良かった。こんな状態だ。誰にも会いたくない。


 手洗いうがいだけして、自分の部屋に入る。


 新生活のために家具を新調したので、この部屋からはほとんど物を移していない。机もベッドも、最低限の洋服も揃っている。

 荷物を床に降ろして、そのままベッドに倒れ込んだ。


「あーーー、かんっぜんにやらかした」


 枕を抱きかかえて、足をバタバタさせる。顔が熱いのは、羞恥心からだった。


 泣いてしまった。自分のバカ。どうしてあんなタイミング泣いてしまうんだ。まだ水族館に入って、一つ目の水槽だった。もっといろいろ見て、それからでもよかったじゃないか。


「せっかく稔が誘ってくれたのに……」


 どこかのタイミングでは、限界になってしまったかもしれないけど。でも、あれはちょっと早すぎた。


 残りの展示も回りはしたが、気まずすぎていたたまれなかった。逃げ出したいという気持ちと、さすがにそんな奇行はできないという常識的な判断に挟まれて、最悪の行動を取った自覚がある。


 一緒に帰るなんてことはできなくて、駅で解散にした。

 稔は始終、困った顔をしていた。心配してくれていたのかもしれない。


「うぅ……」


 考えていたら、また涙が滲んできた。今度は、自分が情けなかったから。


 水族館で泣いてしまったのは、悲しかったから。悲しかったのだ。

 あまりにも幸せで、そのことが苦しくなってしまった。


 顔をずらして、机の方を見る。綺麗に整理したそこには、一台のノートパソコンが置いてある。凛音のアーティストとしての一面『音響てぃらの』は、あそこから始まった。


 初めてノートパソコンを与えられたのは、中学生の頃だった。作曲に必要だと言ったわ、両親は凛音を家電量販店に連れて行ってくれた。ちゃんとしたものを選んだから、今でも使えている。


 歌を作るのは、楽しかった。初めて歌をネットに上げた日は、心臓がバクバクなった。一週間経ってもなんの反応も得られなくて、ひどく落ち込んだ。初めて褒められた人は、顔の見えない相手を探し出して、直接お礼を言いたいと思った。


 なにもかもが新しくて、嬉しいことも、辛いことも、全部がキラキラして見えた。


「やんなきゃなぁ」


 凛音は今、曇った目をしていた。ぼさぼさの髪を指で梳いて、ベッドから立ち上がる。


 一ヶ月触れていなかったノートパソコンには、薄らと埃が積もっている。充電コードを繋いで立ち上げる。


 ここ二ヶ月は、アーティストとして最悪の期間だった。

『音響てぃらの』として最悪のこと。それは、歌が作れなくなること。


 凛音は自分の中に、たくさんの歌があると考えている。石油とか、宝石とか、そういうものに近い。埋蔵量に限りはあるのだろうけど、今のところは尽きそうにない。その歌を掘り出すのには、なにかしらのエネルギーが必要で、彼女は「悲しみ」を原動力にしていた。


 親が仕事でいないこと、稔がいないこと、友達に彼氏ができたこと。冷たい感情は、心に堆積して、いつだって取り出せた。


 悲しみが彼女を追い立てた。逃げるようにパソコンに没頭した。暗闇の中から、遠くにある光りに手を伸ばすことも、躊躇わずにできた。


 それができなくなったのは、稔が自分と同じ大学に進学すると聞いたときだ。


 ずっと凛音の胸に居座っていた悲しみが、瞬く間に霧散してしまった。


 永い闇が晴れて、そこに彼は立っていた。






 四月のまだ少し冷える風と、古びた街灯の光。


 濃紺のデニムパンツに、灰色のトレーナー。ゆったりした服装だったが、その輪郭は間違いなく男性のものだった。

 伸びた背と、頑丈そうな肩幅、厚みのある体。だが、その顔には確かな面影があった。その目は、あの日涙を浮かべた目のままだった。


「ひさしぶり」


 声が震えないようにするのに、必死だった。

 本当はあの時、地面に崩れ落ちて泣いてしまいたかった。


 雛森凛音の、永い夜が終わったことに。

『音響てぃらの』の、永い夜が始まったことに。


 安堵と、絶望が入り混じったあの瞬間に、もっと傷つけていたらよかった。


 ――バカだよね。会いに行ったのは、私なのに。


 凛音は目を細めて、溢れそうな涙を堪える。


 ――会わなきゃよかった。なんて、思ってる。


 あの夜に失ってしまった歌を、取り戻さなければならない。

 凛音はもう、何者かになってしまったのだから。

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