第21話 彼女とデートと涙
目的地に到着すると、凛音は目をぱちぱちさせて、俺とその場所を交互に見る。ぶんぶん首を左右に振るから、髪が激しく揺れ、顔が中途半端にしか見えない。
「えっ、えっ、み、稔?」
「なんだよ」
「ここが今日のデートスポットなの?」
「そうだよ」
「ちょっと待って、私まだ、そこまでの心の準備はできてないから。こういうのはさ、もっと段階を踏んでいくべきだと思うの」
「いいから行くぞ」
やけに興奮して足を止めた凛音の横を通り過ぎる。置いていかれないように、慌てて凛音がついてくる。
「もしかして、稔は百戦錬磨のデート職人なの?」
「それは俺より、笹岡さん向けの称号だろ。俺はこんなこと考えるの初めてだよ」
「……そっか」
胸に手を当てて、ぽつりと呟く凛音。
「驚くことじゃないだろ。別に、穴場ってわけでもないんだから」
「で、でも……稔はもっと、無難な場所に落ち着くと思ってたから」
「ここだってド定番だと思うんだけどな」
今日の目的地は水族館。商業施設に併設されていて、わりと遅い時間までやっている。この時間でも、中に入っていく人が絶えない。
凛音は唇をつんと突き出して、眉をひそめる。頬がほんのりと赤い。
「攻め攻めだよ。水族館なんて、ザ・デートじゃん。薄暗くて静かで、綺麗なものを見たら二人の距離が急接近しちゃうよ」
「まあ、デートってそういうものだろ」
「どうしよう……稔がデートについて語るような男になっちゃった」
「落ち着けって」
「こんなの、デート慣れしてるとしか思えない。久瀬稔、有罪です」
「えっ、俺にデート経験あったら罪なの?」
「懲役死刑」
「どっち⁉」
とりあえず、めちゃくちゃ重たい罰が下されることがわかった。できれば、激辛中華何回分かで換算して貰えると助かる。最近の俺は、完全にあれが基準値になっているので。
それよりもまず、この冤罪を晴らさないと。やってないことの罰を受けるのは、さすがにマゾすぎる。
「さっきも言ったけど、俺はデートなんてしたことないって」
「嘘をついてもダメ。『デート慣れすぎ罪』で有罪です。弁護人はさっき処分しました」
「歴史に残るレベルの凶行」
そんなものが認められたら、ほどなくして地球から文明が絶滅するだろう。
それを淡々と言ってのける凛音。こいつ、本当にラブソングで有名なのか? デスメタルとかじゃなくて?
凛音は人差し指を立てて、つんつんと俺の腕をつついてくる。
「嘘を重ねるほど、罪は重くなるよ。早く言った方がいいよ。中高時代にデートしたことあります。楽しかったです。って」
「水族館選んだだけで、なんでこんなに疑われてるんだよ」
「だって……」
「そんなこと言うなら、凛音だって――」
左手を伸ばして、彼女の右手を掴む。
――こんなふうに、俺と手を繋いできただろう。
視線が絡む。心臓の音がはっきりと全身に響く。頬が熱い。でも、目を逸らしたりはしない。正面にいる凛音を捉え続ける。
掴んだ細い指、柔らかい手は離さない。
「えっ、あ、あわわ……」
「ほら、行くぞ」
料金を払って、入場ゲートを通る。
人はそれなりにいるが、この時間は年齢層が高い。水族館の中には穏やかな空気が流れていた。
凛音はまだ黙っている。俯いていて、顔を上げる様子がない。
手を引くと、ぴくっと肩をふるわせる。
「ちゃんと前見ないと危ないぞ」
「……ちゃんと下見てるから転ばないよ」
「肝心の魚が見えないだろ」
「んー」
仕方がなさそうに、ゆっくりと凛音が顔を上げる。水槽の明かりで照らされた彼女の顔は、とても複雑だった。口元がもにょもにょと、くすぐったそうに動いている。
繋いだ手に軽く力を加えると、「むっ」と眉根が寄って難しい顔になる。
「なに?」
「いや、反応が面白いなと思って」
「なんの前触れもなく握られたら、びっくりするじゃん。急に手を繋ぐなんて……稔、手慣れすぎだよ」
「これに関しては、お前も同じことやってきただろ」
夜桜を見に行ったとき、いきなり手を取ったのは凛音だ。あのとき俺が、どれだけ内心でドキドキしていたか。今、あの十分の一でも彼女に伝わっているなら、大満足だ。
「あれは私からだったからいいの。稔からなんて聞いてない」
「その言葉、そっくりそのまま返すよ」
「……ってことは、稔もあのときびっくりしたの?」
「そりゃするだろ。いきなりだったからな」
「そっか。なら、……まあ」
堂々巡りの言い合いをする俺たちの前で、魚は優雅に泳ぐ。体をしならせて、水の中を真っ直ぐに。だが、たどり着く先は壁だ。すぐにターンして、また次の壁へ。そんなことを繰り返す。
水槽を眺めながら、呟く。
「嫌か?」
「……嫌じゃない、よ」
小さな声で、凛音が返した。ほんの少し,しっかりと握り返される。
「綺麗だな」
「うん。すっごく綺麗」
俺たちの間には、ゆったりした時間が流れていた。
不意に凛音が呟いた。
「水槽の魚はさ、不幸だとか思わないのかな」
「思わないんじゃないか。天敵がいないし、餌は勝手に出てくるし、むしろ幸福の絶頂だと思うぞ」
「じゃあ、稔は安全な部屋で、ご飯が出てきたら幸福ってこと?」
「それはめちゃくちゃ幸福だろ」
「確かに」
想定していなかった着地点らしく、凛音はびっくりしたように納得する。だがすぐにまた首を傾げ始めると、今度はさっきより慎重に言葉を並べていく。
「じゃあさ……たとえば、今日と同じ一日がこれからずっと繰り返されるとしたら、稔はどう思う?」
「今日だったら、いいよ」
繋いだ手に、少しだけ力が加わった。その先で凛音が、くすぐったそうにそっぽを向く。
「なに言ってるの。急に――ほんと、手慣れてるんだから」
彼女の言葉通り、手慣れていたらどれだけ楽だっただろうか。こちとらさっきから心臓が破裂しそうだ。手を繋いでいる。その事実だけで、脳の八割が機能不全に陥っている。
言葉を探すように、俺たちは水槽に視線をやった。
ふと横を見た。凛音の息が震えているのがわかったから。
一滴の雫が、光の筋になっていた。ほんの一滴。だが、彼女は確かに涙を流していた。
繋いでいた手が、するりと抜けていく。凛音はその手を後ろで組んで、掴まえられない場所にやってしまった。
目が合うと、凛音は気まずそうに目を逸らして、それからはにかんだ。
「ごめんね。なんでもないんだけど……ちょっとね」
意味がわからなかった。口を開こうとしたら、凛音が首を左右に振ったから、俺は言葉を飲み込んだ。
「私にはちょっと、幸せすぎたみたい」
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