第20話 彼女の中のしらない彼女
集合場所は、家の前にした。授業が終わって、荷物を置いてから出発するためだ。
運がいいことに、俺たち以外は帰宅していない。
スマホと財布をショルダーバッグに入れて、先に階段を降りて待つ。
ぼんやり待っていたら、道路の向こうにいる黒猫と目が合った。一歩、二歩とこちらに近づいてきたが、そこでくるりと背を向けて姿を消してしまう。
相変わらず、猫にはフラれ続けている。
「お待たせ―」
肩を落としていたら、声が降ってきた。
階段を勢いよく降りてきた凛音が目の前に立ち、くるりと一回転する。
襟付きの黒シャツに、グレーのロングスカート。今日は上品で大人っぽいコーデだ。
毎度のことだが、こう言わざるを得ない。
「センスがいい」
「ありがと。稔のその服も似合ってるよ。新しく買ったの?」
「デート用の服なんて、持ってなかったからな」
着ている服は日曜日にあちこち行って、なんとか揃えたものだ。凛音を誘うなら、これくらいちゃんとしようと頑張ってみた。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
凛音が元気よく頷いたのを合図に、俺たちは歩きだす。どこへ向かっているのかは聞かれなかった。今日の授業がどうだったとか、学食のあれが美味しいとか、そんな話ばかりをした。
その流れの中で、凛音が尋ねてきた。
「そういえばさ、稔って将来はなにになる予定なの?」
「うーん。いまいちよくわかってない。このまま行くと、普通に会社員を目指すんだろうな」
「そうなんだ」
凛音は驚いたように目を丸くした。でも、俺は子供の頃から別に今と変わってない。「なにかで一番になる」そんな大雑把なことしか考えていなかったから、結局なにも結果を残せなかった。
「なにかにはなりたいよ。……人とは違う、なにかに」
「稔はさ、今のままでもいいんじゃないかな。人と違う道じゃなくても、オンリーワンってよく言うじゃん」
「そうなのかな」
「そうだよ。だって私、稔みたいな人には結局会えなかったもん」
凛音は前を向いていた。目が合わない。俺にはそれが、冗談には聞こえなかった。ずっしりと、言葉の重みを感じる。
なにより俺が、納得してしまっている。
何者かになりたかったのは、凛音の横にいたかったからだ。でも、何者にもなれなくたって、俺は凛音の隣を歩いている。なにも必要なかった。そう言われてしまえば、そうだ。
「凛音はこの先、ずっと歌手でやっていくのか?」
「んー、どうだろうね」
「そんな感じなのか。案外、もうこれ一本でやっていくつもりなのかと」
「しばらくは続けるつもりだよ。でも、先のことはわかんない。もしかしたら明日、世界中の人が誰も私の歌を聴かなくなるかもしれない。そうなったら、私はきっと続けていけない」
「そんなこと、起こるわけないだろ」
「起こらなくても、考えちゃうんだ」
一番になって、数え切れないほどの応援を手に入れて、その先にいる凛音は、掠れるような笑みを浮かべていた。傷ついた子供が、泣きたいのを我慢しているような表情。
喉の奥で、言葉が詰まる。凛音らしくない。そんな一面を見るのは、初めてだったから、俺は変な顔をしてしまったのだろう。
「ごめん。気にしないで。いつかそうなるかもってだけで、今は現役バリバリなんだから。やる気もあるし、平気だよ」
「そっか」
もしも凛音が歌うのを辞めたら。もう彼女の背中を追いかけなくてよくなって、俺は――追いつく以外にも、解決方法があることに今さら気がついた。
「なあ凛音。たとえば、お前が歌うのを辞めたら――そしたら、その先はなにするつもりなんだ」
「うーん。ホワイト企業に就職かなぁ」
彼女が歌うことを辞めたなら、俺はあのラブソングから、解放される。
でも、辞めてほしいわけじゃないんだ。
追いつきたいとは思うけれど、隣にいたいとは願っているけれど、止まっていてほしいわけではない。なんて面倒くさい心情だ。
「稔はブラック企業に入りそうだよね」
「その不吉な予言はなんだよ」
「幼なじみの直感ってやつだよ。結構当たるから、ちゃんと聞いておいた方がいいよ」
「当たるなら聞いても意味ないんじゃないか?」
「安心して。ラッキーアイテムで巻き返せるから」
「俺のラッキーアイテムは?」
「私」
「ずいぶん強気な占いだな」
ブラック企業とホワイト企業を混ぜてグレー企業にでもするつもりだろうか。
凛音は得意げに鼻を鳴らす。そんな彼女に、似たような問いを投げる。
「じゃあ逆に、凛音のラッキーアイテムは?」
「橙色のボールペン」
「俺じゃないのかよ」
そこは普通に物なんだ。ちょっと期待したし、恥ずかしい思いまでしたじゃないか。
照れ隠しのために、話題を変えよう。なんとなく、浮かんできたものを口にする。
「凛音は、なんで歌を作ろうって思ったんだ?」
歌手になるなら、いろんな手段があるはずだ。カバー曲を歌ってもよかっただろうし、なにかしらのオーディションを受けてもよかった。だが、彼女はそれをしない。
『音響てぃらの』は、オリジナルソングだけを発表し続けている。その姿勢が「格好いい」と評価されている部分でもある。
ぬるい風が吹いて、凛音の髪を持ち上げた。
その刹那に、少女は雰囲気を一変させる。
「私が歌いたい歌は、私にしか作れないって思うから」
彼女は儚くて、壊れ物みたいな、一人のアーティストの顔をしていた。
もしかすると俺は、大きな勘違いをしていたのかもしれない。極大で、致命的で、あまりに幼稚な勘違いを。
遠いから、触れられないのだと思っていた。近くにいれば、触れられると思っていた。
でも、今、こんなに近い彼女の心は、俺の手が届かないところにある気がした。
――だから。ちゃんと見ろ。
自分に言い聞かせて、ゆっくりと息を吸う。
『音響てぃらの』の歌は、間違いなく凛音の歌だった。彼女が心から歌いたいと思った歌だから、俺は苦しめられたのだ。
凛音に手を伸ばしたいなら、俺はもう、そこから逃げることはできない。
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