第19話 準備なんてくそくらえ
松村さんには申し訳ないけど、俺はずっと考え事をしてしまっていた。明日どうすればいいのか。大きすぎる課題がまだ解決していなくて、ずっと上の空だった。
最低限の受け答えはできていたと思う。料理だって美味しかった。だが、それだけだ。せっかく誘ってもらったのだから、もっと楽しみたかった。
顔に出さないようにしていたが、食後に一息したところで気がつかれてしまった。
「浮かない顔ね。料理が微妙だったかしら」
「……いえ、ご飯は美味しかったんですけど。ちょっと、頭がぐちゃぐちゃしてて」
「悩み事はね、口に出してみるのがオススメよ」
頬杖をついて、松村さんが余裕のある笑みを浮かべる。スーツ姿なのも相まって、頼れる先輩感が滲み出ている。
言ってしまっても、いいのだろうか。
松村さんなら、からかってはこないだろう。悩み相談の後、激辛中華の刑を発動しなくていい先輩はこの人だけだ。
悩んだ結果、中身をぼかして言ってみることにした。俺一人でどうにかなる段階は、とうに過ぎている。
「後悔してるんです。もっといろんなことを知っておくべきだったとか、しておくべきだったとか、そういう類いの後悔を」
提案されたときに、ぱっと答えられるくらいデートについて詳しくなっておくべきだった。ファッションだって、もっと真面目にやるべきだった。美容室の選び方すら覚束ない。今の俺は、凛音をデートに連れ出す自信がない。
決めきれないのは、結局のところそんな理由だ。相変わらず俺は、劣等感に潰されそうになりながら生きている。
「そう。久瀬くんは、もっとちゃんと準備したかったと思っているのね。でも、現実的にそれをする時間は足りない」
「……はい」
松村さんが放ったその言葉に、思わず目を伏せてしまう。全くもってその通りだったからだ。
凛音と再会したら、彼女の隣に立って、そして――あの頃の続きを。先のことを、一緒にするのだと妄想していた。そこには当然、デートもあったはずだ。
なのに、なにもしてこなかった。そのときが来てからでいいと、考えることすらしなかった。そのツケが、今になってじくじくと心を蝕む。
「私から言えることが、一つだけあるわ」
顔を上げる。それがせめてもの、松村さんへの礼儀だと思ったから。
目が合う。真っ直ぐに見られると、息苦しい。
「準備なんて、くそくらえよ」
淡々とした言葉で、ばっさりと切り捨てた。彼女の瞳には、鋭い光が宿っている。
「準備のための準備なんてしちゃだめ。いつだって、そのときの自分で挑む。それがきっと、次への備えになるわ」
「……でも、それで失敗したら」
「失敗したら、それで諦めてしまう程度のことなの?」
息が詰まった。目の奥がつんとなって、唇を噛む。
できなかった。失敗ならもうしている。特大のやつを。でも俺は、図太くもまだここにいる。凛音の隣に、いようともがいている。
「……諦められないです」
「なら大丈夫よ。また立てるなら、思いっきり倒れなさい」
「はい。――あの、先輩」
「なに?」
「俺、急いで家に帰ろうと思います。先に走っていってもいいですか」
「もちろん。じゃあ、出ましょうか」
店を出て、お礼を言って、そのまま駆けだした。
夜の道を全速力で。ちゃんとした運動が久しぶりだから、すぐに息が上がってしまった。苦しい。足が痛い。でも、なぜか止まりたいとは思わなかった。
ボロボロになってもいい。一秒でも早く、彼女に会いたい。
えんじゅ荘が見える。ラストスパートをかけて、階段を駆け上がり、そのままインターフォンを押す。物音がして、ドアが開く。
凛音は湯上がりだった。
頭からは湯気がのぼっていて、首にはタオルを巻いている。無防備な半袖のジャージ姿。紅潮した頬が、ドキリとするほど色っぽい。
まあ、そんな感想も、ダッシュした後だと疲労感に消えていくのだが。
「……えっ、どうしたの稔⁉ すごい息上がってるけど」
「ちょっと、全力ダッシュをしたい気分になってさ」
「青春だね⁉」
「そのついでに、伝えに来たんだ。……凛音」
無理やり呼吸を整える。大事なことは、ちゃんと聞こえるように。
「明日、楽しみにしててくれ」
「……」
少女はぽかんとして、それから小さく吹きだした。
「なにそれ。あははっ。変なの」
「な、なんだよ。こっちは本気で言ってるんだぞ」
凛音はにんまりと口元を持ち上げる。猫みたいに、奔放な笑み。目を細めて、肩をすくめる。
「そんなこと言われなくても、楽しみにしてるよ。すっごく楽しみ」
「……そっか。じゃあ、おやすみ」
「うん。おやすみ」
ひらひら手を振って、凛音が部屋に戻っていく。俺も覚束ない足取りで、部屋に戻った。
それと同時に、玄関に倒れ込んだ。
心臓がうるさい。これは走ってきたせい、じゃない。
――俺の幼なじみが、可愛すぎて死ぬ。
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