第12話 愚者と理想と劣等感
花見の片付けをして、六時過ぎに俺たちは再び外に出た。
薄暗くなっていく街の中を、ゆったりしたペースで歩く。
隣に並んだ凛音は、髪をセットして着替えもしてきた。黒いワンピースにポーチ、耳元では涙みたいなピアスが揺れている。さっきまでとは、雰囲気が全く違う。元気で快活な幼なじみではなく、大人の雰囲気をまとった女性のようだ。
対して俺は、重箱を洗ってシャワーに入っただけ。服も着替えたけど、そもそも持ってるのがワンパターンで印象に違いはない。とても彼女に釣り合っているとは言えない。
だったら、せめて。
「その服、似合ってるよ」
「え、あ、ありがと」
「服のセンスがいいよな。髪の色も、格好いいと思うし」
インナーカラーの赤も、彼女の明るい性格にはぴったりだ。元気な笑顔が多いから、チャラさもない。あくまで彼女らしく、それでいて彼女の魅力を拡張するような自分の見せ方を知っているのだろう。
「なに、急に? 稔があやしい……」
褒めたのがいきなりだったから、凛音は逆に警戒してしまった。
「思ったことを言っただけだよ。引っ越してきた日から、ずっと思ってた」
「ほんとに?」
弱々しい声で、凛音が尋ねてくるから、そっと頷いて肯定した。
「そっか……ありがと。うん。嬉しい」
「自分で勉強したのか?」
「そう。ネットで写真とか見て、いいなって思ったのをやってみて、っていうのを繰り返すの」
「すごいな。ちゃんとそういうこと、頑張れるのって偉いよ」
「稔もやればいいのに。もったいないよ」
「そうかな」
凛音にそう言われると、そんな気がしてくる。ファッションに気を回す余裕なんて、今まではなかったけど、これからはちゃんと目を向けるべきなのかもしれない。
髪を染めようか、パーマをかけようか、どんな服を着ようか……だめだ。考えることが多すぎる。
「あ、めんどくさいって思ってるでしょ」
「正直そう」
「じゃあ、私が一緒に考えてあげよっか」
少し前までの俺なら、ずるずると流されていたのだろう。
でも、今は少し違う。凛音に選んでもらう方が、あらゆる面で合理的だ。それは理解している。でも、それじゃ意味がない。
「――いや、いいよ。まずは自分で頑張ってみる」
運がいいことに、同じアパートに笹岡さんがいる。あの人なら、男のファッションに詳しいだろう。ちょっとチャラ方面に寄っているのが気になるところだけど、そこはこっちで修正する。
「一つだけ私から言ってもいい? これはアドバイスというより、お願いなんだけど」
「いいけど」
「金髪はやめてね」
「しねーよ」
どんだけ勢いつけてファッションデビューすると思ってるんだ。そんな勇気があったら、とっくの昔にやっている。んで後悔して、今頃は丸刈りだ。
「ならよし。楽しみにしてるね」
「あんまり期待するなよ。現実は残酷なんだから」
「そういうことを言わない! 笑顔、前向き、ハイテンションが人生良くなる秘訣だよ!」
「説得力すごいな」
実際に彼女は、その理論でシンガーソングライターとして大成してしまったのだ。
「わかったよ。やってみる」
口を思いっきり横に広げて、無理矢理笑顔を作る。たぶん、田んぼのカエルみたいな表情になっているだろう。だが、凛音は親指を立てる。
「そう。その調子!」
いいのか、これ? まあでも、悪い気はしない。
気がつけば俺たちは、目的の川に着いていた。川沿いにずらっと並んだ桜は満開で、たくさんの人が夜桜のために集まっている。
危ない。また桜のことを忘れるところだった。
「人、多いな」
「花見ってより、人見って感じでしょ」
「まだギリギリ花の方が多いだろ」
街灯の光で照らされる桜と、夜空のコントラスト。目の前を駆ける子供たちやカップル。遊歩道の横に屋台も出ているから、ほとんどほとんどお祭りみたいなもんだ。
「はぐれちゃいそうだね」
すぐ隣で凛音が言う。彼女の言うとおり、常に相手の位置を把握していないと見失ってしまいそうだ。
「気をつけないとな」
「いい対策方法があるよ」
そう言って、凛音は右手を伸ばしてきた。迷いなく俺の左手をつかむと、
「これではぐれないね」
と笑みを向けてくる。
「……お、おい」
「あっ、クレープ食べたい! 行こ行こ。私はチョコバナナにする!」
躊躇う俺を引きずって、凛音はずんずん進んでいく。手を繋いでいるというよりは、リードで引っ張られているような気分だ。それでも、細く柔らかい指の感触は、はっきりと伝わってくる。少し冷えた指先が触れあう。
クレープ屋の前には列ができていた。並んで立ち止まっても、凛音は手を離さない。
「稔はなににする?」
つながれた手のことを話題に上げるのは、野暮な気がした。触れないことがいいことだって、世の中にはたくさんある。
「いちごにしようかな」
「王道だね」
心臓がうるさい。俺だけなのだろうか。だとしたら情けない。
どうしてなのだろう。昔は手を繋ぐのくらい、普通だったのに。体が大きくなって、それに伴って意識も変わってしまった。
初恋の続き。凛音の背中を追い続ける。なにもかもが、あの頃から少しも進んでいないはずなのに。その無力さに、俺は打ちのめされたはずなのに。
あの夢を捨ててしまうことが、ただ、惜しい。
隣できらきら輝く彼女の瞳を、弾けんばかりの笑顔を、失ってしまうことがとても怖いことだと思う。
クレープを買って、俺たちは人混みから少し離れた。桜並木の端っこで、柵にもたれて真っ暗な川を見下ろす。雑踏も騒音も、外から見れば別の世界のことみたいだ。
クレープを頬張っていた凛音と目が合う。彼女は微笑んで、
「ありがとね。誘ってくれて」
と言った。
「……」
俺はなにも答えなかった。無視したかったわけじゃない。ただ、言葉が上手く出てこなかった。地面を見て、遠くの桜を眺めて、それからようやく、凛音の顔を見ることができた。
「――ごめん」
食べかけのクレープを片手に、なんて間抜けなシチュエーション。でも、ようやく言えた。
「引っ越して来るとき、連絡しなくてごめん」
凛音は、ひどく動揺していた。視線を落として、沈んだ声で頭を下げる。
「……私の方こそ、勝手なことしてごめんなさい」
「いいんだよ。凛音はなにも悪くない。俺が弱かったせいだ」
「でも――」
「嬉しかったんだ」
俺の親に住所を聞いて、わざわざ隣に引っ越してきた。字面にすればただのストーカーだ。でも、俺たちの間柄ではそうじゃない。少なくとも俺は、それを嫌なことだとは思わなかった。思えなかった。
「嬉しかったんだよ、俺は。……また凛音に会えたことが。会いたかったんだ。ずっと。それなのに、俺はお前から逃げようとしてた」
凛音の瞳は、夜桜が映り込んで淡い朱の色をしていた。いつもより輝いているのは、涙が浮かんでいるせいだ。
「どうして、私から逃げたかったの?」
「怖かったんだ。こんな自分を見せたら、お前に嫌われるんじゃないかって」
「私が稔のこと、嫌いになると思ったの?」
「嫌われなくても……このまま会っても、意味がないと思ったんだ」
滑稽なことだ。部活も勉強も、ステータスとして表示されているわけではないのに。
裏を返せば、勉強さえできてれば、それだけで彼女の横に立てると思っていた。なんて愚かなことだろう。
彼女は、そんなことを少しだって気にしてないのに。
「意味ってなに?」
「それは言えない。でも、これだけは言わせてくれ」
決意はとうに固まっていた。
俺は、これまで抱えてきた劣等感を、必死に手放そうとしていたそれを――もう一度この手で拾い上げる。これでよかったのだ。最初から、答えは出ていた。
俺は、この呪いから逃れることはできない。
人生の惨めさから、逃げたいとはもう思わない。
「俺を忘れないでいてくれて、ありがとう」
少女の瞳から、一粒の滴が落ちた。それは光の筋になって、地面へと落ちていく。
「――忘れるわけないじゃん。ばか」
うつむいた凛音は、ゆっくりと顔を上げる。
「あのね、稔。実は私も隠してたことがあるの」
この世界の秘密をまるごと抱えこんだように、彼女はそっと告げる。
「私、歌手になったんだ。作詞作曲も自分でしてるから、シンガーソングライター、みたいな」
「知ってるよ」
即答すると、凛音の目がまん丸になった。
「『音響てぃらの』だろ」
「へ――」
完璧にフリーズして、ぴくりとも動かなくなる。瞬きだけを何度も繰り返して、やがて小刻みに震え始めた。顔が真っ赤になっていく。
「なっ、な、なんで知ってるの⁉」
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