第9話 猫と救いと罰

 授業が終わったタイミングで、凛音と合流して結果を報告した。

 念のため、ナンシーさんのことを伝えたが、案の定却下された。ホラーは好きだが、本物は遠慮したいとのことだった。そりゃそうだ。


 ネタ枠のユナさんは撃沈。本命の松村さんはというと、彼女にも似たような時期はあったらしい。男子からの連絡が殺到する時期が。


「『私、あなたと遊ぶのにお金使いたくない』って断ったらしくってね。……うーん、って感じ」

「心臓強すぎだろあの人」


 とても凛音に真似できる手段ではなかった。

 完璧に諦めさせるという意味では、それくらいやった方がいいのかもしれないけど。あんまり相手を刺激するのも怖いしな……。


 その後、凛音は用事があると去って行った。今日の帰りは遅いらしい。


 俺は大人しく家に戻って、課題をこなすことにした。大学生活は意外に授業外でやることが多い。パソコンでだらだら実験レポートを作成しながら、凛音の件についても思考を巡らせる。


「……モテて困る、か」


 俺がそんな状況になることは、この先の人生でもあり得ないだろう。だから実感は湧かないけど、確かに面倒くさそうだ。スマホに来る連絡なんて、一日一件でいい。


 どうしたらいいだろう。課題が終わっても答えは出ず、無気力ネットサーフィンを開始する。無機質な画面。くだらない情報。


 ほんの少しの、気の迷いだった。かさぶたを剥がすような、幼い好奇心。


 イヤホンを接続して、動画サイトを開いて、そこに凛音のアーティストとしての名前を打ち込んだ。


『音響てぃらの』


 最初に見たとき、ずいぶんふざけた名前だと思った。けれどその向こうにいるのが凛音だと気がついたら、妙に納得した。ティラノサウルスは、俺たちが昔好きだった恐竜だ。


 最新の曲を再生する。ポップなメロディの、春の曲だった。百万再生という文字が非現実的で、そっと親指で画面をスクロールする。


 耳から流れてくる曲が、じんわりと心をむしばんでいく。

 いつも、彼女の曲はどこか切ない。片思いのような、失恋のような、それでいて両思いのようにもとれる絶妙な歌詞が人気の理由だ、となにかのサイトで見た。そう聞いてみれば、確かにそう取ることもできる。


 だが、俺にとっては違う。


 凛音はずっと歌い続けている。あの日の続きを。

 満天の星、群青の夜空、どこまでも続く青の湖、柔らかな草原。

 その向こうにあるはずの、美しい未来を。


 イヤホンを外して、深く息を吐き出す。


「人生の惨めさは、音楽のせいなんだよな」


 あと何年かすれば、傷口は完全にふさがったはずなのに。かさぶたは剥がされた。あろうことか、その傷をつけた本人によって。


 俺は凛音がわからない。

 あいつはまだ、俺があの日のままだと思っているのだろうか。


 液晶画面に刻まれた、『音響てぃらの』への応援コメントは千件を超えている。

 こんなにたくさんの光に包まれて、なぜ彼女は俺の元へ現れたのだろうか。


 ノートパソコンを畳んで、ごろんと横になる。ドッと疲れた。やめときゃよかった。久しぶりの、鮮烈な劣等感。俺は凡人。ハロー世界。砕け散った自意識の欠片で全身傷だらけだよ。


「おーい、久瀬いるかー」


 外から声が聞こえた。台所の磨りガラスに、茶色い頭のシルエットが見える。

 立ち上がって玄関を開け、外に出る。


 笹岡さんは、人差し指で鍵の束をくるくる回して立っていた。


「インターフォンを使ってくださいよ。昭和じゃないんだから」

「それは平成の考え方だろ。令和は懐古するんだよ、少年」


 などと意味不明なことを言っている。今さらながら、このアパートに住んでいる上級生は全員やばいのかもしれない。やばくなきゃ、こんなところに二年以上も暮らさないのか。


「なんですか。洋楽ならしばらくいらないですよ」

「期待してもらってるところ悪いが、今日は飯の誘いだ」


「飯ですか」

「今日は俺たちしかいないようだし、ここは男らしく、中華料理でも食べに行かないか?」


「なんですか、男らしい中華料理って」

「行けばわかる。来るか?」


「行きます。ちょっと待っててください」


 部屋に戻ってショルダーバッグにスマホと財布を入れて、外に出るとエンジンの音がした。笹岡さんは車に乗ったらしい。

 真っ赤な軽自動車。乗り込むと、芳香剤の爽やかな香りがした。


 笹岡さんは不敵に笑いながら、車を発進させた。砂利の駐車場をタイヤが踏みしめる。


 親が運転するとき以外で、助手席に座るのは初めてかもしれない。こういう体験も、大学生ならではなのだろうか。


「いいですね。車持ってるって」

「車があるとモテるぞ」


「マジすか」


 思いがけない言葉に、素直に食いついてしまった。モテると大変って話を聞いたばっかりなのに。

 笹岡さんは大きく頷く。夜の運転では、サングラスはつけないみたいだ。当たり前か。


「やっぱデートの質が違うからな。電車とかだと、移動も疲れるだろ? 女の子が気になってる店とか、多少遠くても行きやすいし。いいことずくめだ」

「けっこうデートとかするんですか」


「彼女と別れるまでは週一とかでしてたな」

「あっ……」


 変なところに触れてしまった。と思ったが、笹岡さんは全く気にしていない様子だ。


「別によくあることだぞ。別れるとか。運動とか、ゲームとかだってそうだろ。ずーっと続けてるやつはごく一部だ。始めたときは『運命だ!』って思っても、案外なんでもなかったりする。そんなもんだ」

「別れるのも、よくあることですか」


「久瀬は彼女いたことないのか」

「ありません」


「デートも?」


 頭をよぎったのは、ついこの間。凛音と二人であちこち行ったこと。

 だが、あれはあくまで散歩であって、俺と凛音は幼なじみであるから、あれくらいは普通のことで……。


「ないです」

「へえ」


「あの……」


 この流れで、聞きたいことがあった。笹岡さんに言われたことを、俺は引きずっていたから。二択の答えが、俺には出せなそうだったから。


「前に言われたことなんですけど。猫にも音楽にも、救われない人間はどうしたらいいんですか」

「猫になればいい」


 即答だった。


 それだけ言って、笹岡さんは満足そうにしている。車が速度を落とした。目的地に到着したらしい。頭が回らない。なにを返せばいいかわからなくて、意味のわからないことが口に出る。 


「じゃあ、猫になったとして。猫はなにに救われるんですか」

「猫なんだから、救いなんて必要ないのさ。だが人間には、救いと、罰が必要だ」


「罰?」


 首を傾げた俺に、笹岡さんはスマホを見せてくる。目的の店の情報が書いてあった。


「罰――そう、激辛中華が必要なのが、人間なんだぜ」

「絶対必要ない!」


 今日の学び。行き先のわからない車に乗ってはならない。

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