第5話 私はどこにも行けないまま

 ――私は、空っぽの人間だ。


 鏡に映る自分を見て、雛森凛音は困ったように眉根を下げる。人前では見せることのない憂鬱な表情。だが、それこそが自分の本質だと彼女は思っている。


 別に、生まれたときからこうだったわけではない。

 でも、兆候はあったのかもしれない。

 凛音の両親は共働きだった。記憶にある限り、少なくとも幼稚園に上がる頃には、二人ともフルタイムで働いていた。凛音はほとんど毎日、稔の家に預けられていた。その頃の思い出を振り返ると、久瀬一家の顔ばかり蘇る。


 ――この家の子供だったらよかったのに。

 ――どうして私は、他の場所に帰らないといけないの?


 口から「お邪魔します」という言葉を出すたびに、隣で「ただいま」と稔が言うたびに、じくじくと心の柔い部分が傷ついた。

 無邪気ではあったけれど、ときどき、心の隅に影が差すことはあった。けれど凛音は、いい子であろうとした。気持ちを楽しいことに向ければ、悲しい気持ちを薄めることができた。


 楽しいことは、稔がたくさん持ってきてくれた。おままごとも折り紙も、積み木もテレビ番組も、彼が「やろう」と言い出すことが多かった。久瀬稔という少年は、凛音がなにをしたい気分かを見極めるのが、抜群に上手かった。


 稔のことが好きだった。けれどそれは、子供の「好き」だった。足が速いから好き。程度で、容易に移り変わりうるもの。

 そのままで、引っ越しの時が来ていればどれだけよかったか。


『好き』が『恋』になった日のことを、まだ覚えている。

 あれは小学一年生の頃だった。学校からの帰り道で、凛音は最近知ったことを披露する。ぐらいの気持ちで話題を振った。


「あのね、お母さんが言ってたんだけど。けっこん、したら家族になれるんだって」


 稔はきょとんとした顔をしていた。目をパチパチして、不思議そうだった。理解してもらえなかったと思った凛音は、付け足す。


「だからね、わたしたちも、けっこんしたら家族なんだって」

「……じゃあ、僕たちは家族じゃないの?」


「え」


 言葉に詰まった凛音の前で、少年は目を潤ませていた。黒い瞳に光が乱反射して、きらきらと輝く。


 その後のことは、よく覚えていない。なんとか稔を泣き止ませようと、必死になったことだけ覚えている。慌てていた。稔を泣かせてしまったのなんて、初めてだから。誰かを泣かせるのは、悪いことだと教わっていたから。


 その出来事は、じんわりと凛音の胸に染み込んでいって、そっと心を温めた。


 初恋。

 きっと普通の人にとっては、ただの通過儀礼。告白もせず、気がつけば忘れていくもの。忘れられずとも、二つ目、三つ目のもっと素敵な恋があるものだ。


 でも、凛音にはできなかった。

 引っ越した先で、凛音は孤独だった。相変わらず共働きの両親と、家でひとりぼっちの自分。小学三年生。ちょうど、留守番もできるようになる年頃だ。凛音は学校が終わると、家に帰って、一人で過ごした。


 ネグレクトと呼ぶには、家族の仲は悪くなかった。休みの日は時間を作って、凛音を遊びに連れて行ってくれたし、早く帰ってこれる日は、みんなで夕飯を食べることもできたから。


 ただ、凛音は一人に慣れていなかった。

 生まれてからずっと、当たり前のように稔が隣にいたから。彼さえいれば、一人にならずに済んだから。


 泣いたって彼には届かなかった。

 彼もきっと、泣いているはずなのに。その声が凛音に届くこともなかった。


 長い孤独の末に、少女は夢を思い出した。



 ギターを持って、息を吸って、吐き出したのが歌だった。



 約十年。あまりにも長い時間だ。

 今も好きだなんて、どうかしている。お互いにもう、あの頃とは全く違う人間なのに。全く違う景色を見て育って来てしまったのに。


 まだ、あの涙にすがっている。



 ――あのね、稔。私まだ、どこにも行けてないよ。

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