第3話 初恋の延長戦

 凛音と出かけようと外に出ると、笹岡さんが洗車をしているところだった。

 駐車場の隅にある水道にホースをつないで、赤い車体を流している。黒い半袖のシャツから伸びる腕は、予想以上に筋肉質だ。普段から鍛えているのだろう。


 笹岡さんはすぐに気がついて、下から声をかけてきた。


「おっ、今からお出かけか?」

「凛音と散歩してきます」


「いきなりデートか。しょっぱなから飛ばすねえ」

「ちょっ、やめてくださいよ。そういうのじゃないですから!」


「エロいことはホテルでしろよ。ここの壁、あってないようなもんだからな」

「ああもう全然聞いてない!」


 慌てて階段を降りる。とりあえず、近づけば声は小さくなるだろう。


「いいよなあ幼なじみ。俺もほしいよ。なあ久瀬、半分こじゃだめか?」

「割ったら血ぃ出ますよ」


「そらそうだわな」


 けたけた笑って、笹岡さんはホースの水を止める。戻ってくると、柔らかそうなタオルで窓を拭き始めた。


「今日は先輩方、なにしてるんですか」

「俺は愛車の掃除。松村は春の食べられる野草探しで、ユナはオカルトサークルの活動で、奥多摩のやばいトンネルだってさ」


「女性陣の癖が強すぎる」

「委員長とユナはただ者じゃないぞ。ま、その点は凛音ちゃんも負けてないっぽいが」


「あいつは……まあ、変なやつです」

「俺の見立てじゃあ、久瀬も相当なくせ者だけどな。えんじゅ荘の常識人枠は、俺しかいないってわけだ」


「なに言ってるんですか。俺だって常識くらいありますよ」


 笹岡さんはにやりと笑うだけで、なにも言わなかった。

 凛音が外に出てきて、「あっ。ササオ先輩おはようございまーす!」と元気よく挨拶。笹岡さんは手を上げてにこやかに返す。俺を相手していたときとは違う、好青年みたいな対応だ。


「じゃあ、行きますね」

「夕飯までには帰ってこいよ~」


 ナチュラルにお母さんみたいなことを言われてしまった。あまりに自然だったので、気がついたのは降りてきた凛音と合流してから。いまさら戻ってツッコむのも妙な気分なので、俺の負けということで流すことにした。


 なんの黒星だ、これは。





 凛音の歌は、若者ならほとんどの人が知っているだろう。だが、彼女の素顔を知っている人はほとんどいない。それは彼女が、素顔を隠して歌手活動をしているからだ。おかげで今も、変装せずに町を歩けている。



「東京って、本当にどこ歩いても店があるんだな」

「ねー、私も最初に来たときはびっくりしたよ」


 俺と凛音が生まれた町は、有名なファミレスが駅前にあるくらいの栄え具合だった。こんなふうに、テイクアウト専門の飲食店が群れをなしている光景は初めてだ。


「見てあれ、割ったら虹色のチーズが出てくるやつ」

「出たっ。とりあえず見た目が鮮やかなやつ!」


「あっちはまだ生き残ってるタピオカミルクティーのお店!」

「地方はとっくに絶滅してるのに⁉」


 気づけば凛音は焼きたてのワッフルを持っていたし、俺はたい焼きを買うために財布を出していた。恐ろしい街だ。東京。


「ね、楽しいところでしょ。都会って」

「こんなところにいたら、一瞬で財布が空になりそうだな」


「大丈夫だよ。えんじゅ荘の家賃、すっごく安いんだから」

「それでも地方に比べたら高いんだぞ。六万円も払ったら、場所によっては1DKが借りられるんだからな」


「そうなの⁉ 東京って高いね」

「すっかり染まったなぁ」


「そりゃ、イケイケのシティーガールですからね」


 凛音はえへんと胸を張って自慢げだ。だが、その様子は昔と変わらず素朴で愛らしい。加工された都会の美とは違うように思える。


 凛音が少し遠くを指さした。


「あそこのベンチに座ろっか」


 宣言した通り、彼女は俺の案内をしてくれた。

 なんとなく周りに気を配って、面白そうなものがあれば教えてくれて、休める場所も見つけてくれる。


 示されたベンチは、街路樹で日陰になっていて、座ると肩の力が抜けていくのがわかった。自分で思ったより、気を張っていたらしい。


 ワッフルをぱくりと食べた凛音が、満足そうに首を振る。それから俺の口元に差し出してきた。


「稔も食べてみて」

「えっ、いや、俺は……」


 食べかけのワッフル。間接キスだなんて気にするのは、俺が遅れているのだろうか。あるいは、凛音はもうとっくに進んでしまったのか。


「ほんとに美味しいから。後悔したら訴えていいよ!」

「いや、訴えるとかないから」


「あっ、訴えるのはお店ね」

「そこはお前自身であれよ!」


 俺が悩んでいるのとは、全く別の場所で凛音が賭けに出ている。

 間接キスで訴えられないかが不安なんだよ、俺は。訴えられないだろうけどさ。法律的には。


 でも、俺の中にも裁判官がいて、そいつは「けしからん」って顔してるんだ。

 だが同時に、俺の中のチャラ男は「なにビビってんの?」とあきれ顔をしている。


 悩んだ結果、チャラ男の声に従うことにした。ここは東京。俺もシティーボーイとしての自覚を持たないといけない。


「……ん。美味い」


 一口食べたワッフルは、思いのほか軽い食感だった。コーティングされているチョコはビター寄りで、すっきりした味わいになっている。


「でしょでしょ」

「凛音もたい焼き食べるか?」


「食べる!」


 やってみたら、意外となにも感じなかった。間接キスだって、別に味が変わるわけじゃない。落ち着いていれば問題なし。


 まだ口をつけていないそれを差し出すと、小動物みたいに食いついた。咀嚼して、なにかに気がついたように肩を落とす。


「あんこ少なめだった……」

「最初の一口はそうだよな」


 尻尾だったから特に、生地中心だったらしい。もう一口すすめると、凛音は素直にかじって何度も頷いた。


「……うんうん。やっぱりたい焼きは、二口目からが本番だよね。美味しい!」


 俺も一口食べて、凛音と同じように首を縦に振る。安定の美味さ。普通のたい焼きだが、それでいい。


 ベンチで並んで、買ったスイーツを堪能する。

 出てくるときは「そんなんじゃない」と言ったが、これじゃ完全にデートだ。チャラ男基準だって、文句なしにデートになってしまっている。道を行き交う男女の二人組と、俺たち二人では大差がない。

 ちらっと横を見る。凛音は夢中になって、ワッフルを口に運んでいた。


 この関係を、なんと呼べばいいのだろう。

 幼なじみ? 俺たちは十年も離れた場所で暮らしていて、その間まともに連絡も取っていなかった。

 友達? ただの友達が、わざわざアパートの隣の部屋に住むだろうか。


 ちぐはぐだ。

 俺は凛音が歌手だと、一方的に知っていた。

 凛音が俺が住むアパートを、一方的に知っていた。


 俺は遠ざかろうとして、凛音は詰めてきた。根っこは多分、同じだ。


 あのとき夢見た世界の続きに、彼女はまだいる。俺がとうにそれを手放したことも知らず、真っ直ぐに信じている。


 ……なあ、凛音。俺はもう、お前の隣にいる資格がないんだ。


 その言葉を飲み込んでしまうのは、隣にる少女が、たまらなく魅力的なせいだ。

 初恋の延長戦。負けていられれば、どれほど楽だったか。


「食べ終わったら、中入ってみようよ。デパ地下見て回ろ。あと見たいところある?」

「特にはないけど、せっかくならデパートを全体的に見てみたい。かな」


「オッケー、じゃあ下から上まで行ってみよっか」


 弾けるような笑みを浮かべる、彼女に引っ張られてしまう。


 結局俺たちは、夕方まであちこちを歩き回っていた。

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