第2話 幼なじみ

「待ってたよ、稔」


 パーカーのポケットに手を入れて、凛音は微笑む。

 その笑顔をこうして見るのは、彼女が引っ越した小学三年生以来のことだ。あの頃よりもずっと、大人になった。背が伸びて、スタイルもよくなって、綺麗になった。もちろん、可愛くもなった。


 それだけ変化していながら、彼女にはしっかりと、かつての面影があった。


 初恋。嫌な響きだ。


 心臓が奇妙なリズムで鳴っていた。それを無視して、平静を保つ。


「どうして、お前がここにいるんだ」

「質問したいのはこっちだよ。なんで東京に来るのに、私に教えてくれなかったの」


 一歩ずつ距離を詰めながら、凛音が問う。その真剣な表情から、俺は目をそらす。

 なんで教えなかったって――。それだけは、絶対に彼女に言いたくない。舌を噛みちぎるほうがずっとマシだ。


「……なんでもいいだろ」

「あっそ。じゃあ、私も答えない」


 こつん、と胸を小突かれる。振り向いた先で、凛音はさっぱりした顔をしている。さっきまでのことなんて、気にしていないみたいに。


「これでおあいこでしょ。ほら、買い出しいくなら一緒にいこ」

「俺だけでいいよ」


 凛音はスマホを取り出し、俺に見せてくる。笹岡さんから、メッセージが来ていた。

 やはりあの人は、既に凛音と会ったことがあるようだ。俺の名前も、だから知っていたのだろう。


「『一人じゃ持ちきれないくらい買ってこい。金は俺たちで払うから』だって。ね、だから私も必要なの」

「……わかったよ」


「コンビニの場所わかる?」

「わかる」


「なに買おっか。ポテチと炭酸は絶対でしょ。あとはチョコ系と、おつまみもあったらいいよね。稔はグミが好きだったよね」

「よく覚えてるな」


「不思議だよね」


 くすっと笑って、凛音がちらっとこっちを見る。目が合ったのはほんの一瞬。すぐに前を見た。俺も、凛音も。

 頬が熱くて、鼓動がうるさい。口の中を噛む。そんなことで、感情は減らない。


 コンビニでかごいっぱいに買い物をした。菓子、飲み物、スイーツ、おつまみにカップ麺もくわえると、大きな袋が三つ必要になった。


 103号室に戻ると、すぐに凛音は三人の輪に溶け込んでいった。

 目の前に凛音がいる。俺はただ、そのことが不思議で仕方がなかった。





 朝の日差しで目が覚めると、わずかに頭痛がした。昨晩はほとんど気絶するように眠ったせいだ。身体があちこち痛いのは、布団ではなく畳の上で眠ってしまったから。


 羽織っていたジャンパーをどかして起き上がり、洗面所で顔を洗う。冷たい水で意識がはっきりしてくると、次第に昨晩のこと――凛音のことが蘇ってくる。


 この数年、俺は彼女への劣等感を拭えずにいた。遠くへ行った彼女は、もうとっくに俺のことなど忘れているだろう。そう思った夜が何度もあった。そうであってほしいとすら願った。もう、凛音のことは諦めていた。


 それなのに。当然のように、彼女はそこにいた。久しぶりに会う凛音は、あの頃と同じように明るくて真っ直ぐで、俺が抱えていた悩みなんて、どうでもいいような気がした。


 本当に? 鏡に映った自分に、心の中で問うてみる。

 本当だったらいいよな。今言えることは、それだけだ。


 部屋に戻る。

 そこで俺は、どうして自分が畳の上で寝ていたのかを思い出した。


 ――そうだ。俺は布団を敷いた。だが、その布団で寝ることはできなかった。


「おーい。起きろ凛音」


 自分の部屋ではなく、なぜか俺の部屋に転がり込んできた暴虐の王・凛音。光の速さで布団にダイブして、次の瞬間には意識を失っていた。俺もひどく疲れていたので、諦めて横で目を閉じることにした。


 というのが、昨晩……いや、今朝のことだ。時刻は既に昼を回っている。


 凛音はもぞもぞと布団の中で動きながら、ぶつぶつなにかを呟く。


「んふふー。カマンベールは犬の種類じゃないよぉ~」


 どんな夢だよ。幸せそうにニコニコしやがって。

 やれやれ。こうなったら、奥の手を使うしかない。二つ目にして奥の手。手札が少ないのはご愛敬。


 深呼吸。布団をつかんで、ひと息でひっぺがす。


「……んにゃっ!」


 ぱちっと目を開く凛音とばっちり目が合う。


「えっ、なんで稔がここにいるの⁉ なんでなんで」

「それは俺が聞きたいよ」


 不思議な顔をしたいのはこっちなのに、彼女は目をぱちぱちさせている。彼女の様子は、成し遂げたことに全く比例していない。純粋な少女のままだ。だから、悩むのも馬鹿らしく思えてくる。


「――あ、そっか。私たち、一緒に暮らすんだよね」

「叩けば治るか?」


「DV癖の発覚が早すぎるよぉ~」

「人の布団を奪うのもDVみたいなもんだろ」


「じゃあ、これでおあいこだね」

「俺は叩いてない」


 人聞きの悪いことを言うんじゃない。

 凛音はのっそり起き上がると、布団の上であぐらをかいた。ぺったり座って、ハムスターみたいなのびをする。


「んー、じゃあお詫びするよ。朝ご飯作るね」

「料理……できるのか?」


「そんな疑われると傷つくなぁ。稔のいないところで、私は磨いていたんですよ。女子力ってやつをね、へんっ」

「女子力……」


 朝方まで盛り上がって、そのまま人の布団を奪うやつの女子力。大丈夫か。

 首を傾げる俺に、凛音も首を傾げる。カウンターきょとん顔。


「寝る前にちゃんと歯は磨いたよ?」

「歯磨いてから俺の布団奪いに来たの⁉ 確信犯じゃねえか!」


「まだ間に合う! って思ったよね」

「悪質すぎる……」


「これが女子POWERですよ。女子POWER」

「やかましい」


「まあまあ、稔はのんびりチルして待っててよ。お洒落ブレックファーストの用意してくるからさ。準備できたら呼ぶから、部屋に来てね」

「……わかった」


「先にシャワー浴びる! 女子力高いから!」

「へいへい」


 さっきまで眠そうだったのが嘘みたいに、張り切って部屋から出て行く凛音。その背中を見送ってから、俺もシャワーを浴びることにした。


 髪を乾かしたところで、外の風に当たりたくなった。ベランダ用のサンダルがないので、玄関から外に出る。手すりに体重を預けてぼんやりしていたら、駐車場のところに黒猫を見つけた。


「――あ」


 だが、すぐに猫は去ってしまう。俺のことなど、気がつきく素振りもなかった。

 猫か音楽。どうやらその二択に、俺の選択権はないらしい。




 ぼんやりしていたら、甘く柔らかい匂いが漂ってきた。振り返ると、ちょうど玄関から凛音が出てきたところだった。黒いワンピースの上から、エプロンをつけている。


「あれ、こんなところで待ってたの?」

「ちょっと猫を探してたんだ」


「いた?」

「いたけど、すぐにどっか行ったよ」


「それは残念。まだ探す? それともご飯にする?」

「ご飯にしたい」


「じゃあ上がって。今日はね、フレンチトーストにしたの。フレンチトーストって、響きがもう素敵だよね」


 るんるんと上機嫌な様子で、部屋に通される。

 そういえば、女子の部屋に入るのは人生で二度目だ。一度目は昨日。この二日で偉大なる進歩。


 凛音の部屋は、女の子らしさであふれていた。ダイニングテーブルや椅子、ベッドはもちろん、食器に至るまでメルヘンチックに統一されている。そして当然のようにする、甘い香り。どう工夫したって、男の部屋からこんな匂いはしないだろう。


 普通に上がってしまったが、なにかとても、とんでもないことをしている気分だ。


 机に並ぶのは、ふんわりと焼き上げられたフレンチトースト、温かなコーンスープ、彩りの良いベリーの盛り合わせ。


「き、貴族の朝だ」

「いつもはもっと適当だよ。今日は気合い入っちゃった」


 頭を掻いて恥ずかしそうにする凛音。


「食べて」

「ありがとな。いただきます」


 ナイフで切って、フォークを刺す。フレンチトーストは柔らかく、持ち上げると重力に引っ張られて形を変える。口に入れると、とろりとすぐに溶けてしまった。卵とバターのほのかな甘み、香ばしさ。


「美味い」

「えへへ。たくさん練習したからね」


 照れくさそうにはにかむ凛音は、やっぱり普通の女の子みたいだ。どこにでもいる、元気のいい女の子。


 もし、彼女が俺の前からいなくならなければ。

 俺の隣で歌を歌って、その歌で一番になっていたとしたら。

 あんなふうに、置いてけぼりの気分にならずに済んだだろうか。素直に彼女のことを応援できただろうか。同じように喜ぶことができただろうか。


 コーンポタージュの優しい塩味が、口の中に広がっていく。


「稔は今日、なにする予定なの?」

「買い物に行こうかな。あとは、せっかく東京来たから散歩でも」


 散歩、と言ったところで凛音の目つきが変わった。キラキラとギラギラの中間くらいのところで、じーっと見てくる。微動だにせず、背筋を伸ばして。

 目は口ほどに物を言う。なにも言わないのに、凛音の考えていることが手に取るようにわかる。


「そういえば、凛音はずっと東京に住んでたんだもんな。案内してくれないか」

「――もちろん! どーんと任せて!」


 待っていましたと言わんばかりに、彼女は胸を張る。えっへんと自信満々なその顔は、昔と変わらない。


 ああ、そうか。

 俺の幼なじみは、本当に変わっていないんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る