売れっ子歌手になった幼なじみと再会したら、初恋の続きが始まった
城野白
1章 新生活は幼なじみと共に
第1話 久瀬稔のバッドエンド
思い出は、綺麗だ。
――みのるは、大きくなったらなにになるの?
――わからない。でも、たくさん勉強して、すごい人になりたい。りおんは?
――わたしはね、歌をたくさん歌いたい。
――じゃあ、歌手だね。りおんは歌がうまいから、日本で一番の歌手だ。
――うん。わたし、日本で一番の歌手になる!
満天の星、群青の夜空、どこまでも続く青の湖、柔らかな草原。
あのとき、この世界のすべてが俺たちのものだった。この世界のすべてに君がいた。
十年の月日が経って、彼女は夢を叶えた。日本で一番の歌手。文字通りのスーパースター。
対する俺は、なにも成し遂げられないまま高校生活を終えた。挫折だらけの三年間を経て、心は擦り切れてしまった。
だから俺は、初恋を捨てた。
車内放送が、東京への到着を告げる。
◇
『えんじゅ荘』という名前を聞いたときに、真っ先に思ったのは「老人ホームみたいな名前だな」ということ。実物を見たときに、真っ先に思ったのは「絵に描いたようなぼろアパートだな」ということだ。
年季が入ったという言葉が、ここまでしっくりくる建物も珍しい。壁の塗装ははげ、階段や手すりはさび付き、家の前にある畑は荒れ、敷地にはところ狭しと自転車が置かれている。昔の住人が放置していったものもあるだろう。台数と部屋の数が合わない。
部屋に入る。古い家に特有の、木の匂いがする。家電の設置は済んでいるので、あとは段ボールから物を出すだけだ。
一時間ほどで荷ほどきを済ませ、挨拶回りをすることにした。不安なことは先にやる。
手土産のお菓子が入った袋を握りしめ、部屋から出た。ちょうどそのとき、家の前に一台の車が停まった。真っ赤な軽自動車。中から茶髪でパーマの男が出てくる。
男がこっちに気がついた。サングラスを外して、手を振ってくる。
「君、もしかして新しい住人?」
「えっ、あ、はい。そうです。今日からよろしくお願いします」
想像以上にフレンドリーな第一声に、声が詰まってしまった。
男は車の鍵をしめると、階段を上ってくる。革ジャンにスキニーのジーンズ。爽やかな遊び人、という風体だ。
「どっか行くところだった?」
「いえ、ちょうど挨拶回りをしようと思っていたところです」
「そりゃよかった。俺は203号室の笹岡(ささおか)。工学部の三回生。立ち話もなんだし、上がっていきなよ」
流れるように部屋に招かれ、流されるままに「お邪魔します」と頭を下げることになった。東京ってすごいところだ。
笹岡さんの部屋は、ヴィンテージショップのような味のある香りがした。壁には海外のロックスターのポスターがあって、部屋の角にはエレキギター……いや、あれはベース、それから枠組みが木でできたステレオがある。
「音楽……好きなんですね」
「男のロマンってやつだよ。もっとも、集めて飾るばっかりだけどね」
笹岡さんは俺をちらっと見ると、目尻をゆっくりと下げた。
「君は音楽が苦手らしい」
「苦手ってわけじゃないですけど。そうですね、あんまり聴かないです」
昔からこうだったわけじゃない。遠ざかった時期は、明確にある。そしてその理由も、ひどく明瞭なものだ。
笹岡さんは台所に行き、ポットでお湯を沸かし始めた。「ブラックは飲める?」コーヒーを淹れてくれるらしい。頷くと、笹岡さんはスプーンで粉をコップに入れる。それからポケットに手を入れて、呟くように言った。
「『人生の惨めさから逃れる方法は2つある。猫と音楽だ』」
「誰の言葉ですか?」
「そこまでは覚えてない。でも言葉は忘れない。真理だと思うよ。猫か音楽か、結局は二択なんだ。このアパートは猫が飼えないだろう。だから、音楽を選んでる」
それから俺の方を見て、
「久瀬(くぜ)に必要なのは、猫を飼えるアパートなのかもな」
冗談のようでいて、本気のような、どちらともとれるトーンで言った。
そういえば、俺はまだこの人に名前も名乗っていない。……あれ?
「今、俺の名前言ってましたよね。久瀬って」
「久瀬(くぜ)稔(みのる)。君の名前だろ。訳あって知ってるよ」
お湯が沸いて、コーヒーが完成する。焦げ茶色の液体から漂う湯気が、ヴィンテージの部屋と調和していく。
首を傾げる俺に、笹岡さんは爽やかに言う。
「立たせたままだったな。そこのソファに座って、ゆっくりしてくれ」
初対面の緊張もあって、詳しくは聞けなかった。おとなしく座ることにする。
笹岡さんは机の横にある木の椅子に腰を下ろした。
「あの、笹岡さん」
「ん?」
「俺、洋楽は苦手じゃないんです」
笹岡さんは破顔して、それから肩をすくめた。
「それはとてもいいことだ。おすすめを聴かせてあげよう」
結論から言うと、笹岡さんの洋楽愛は俺の想像を遙かに超えていた。口を開けばドバドバ出てくる情報の濁流。耳から流れ込んでくる異国の情緒。全身を貫く刺激的なリズム。
途中からは二人そろってトランス状態、ほぼ無意識の中でやりとりをしていた。
ようやく正気を取り戻したのは、玄関ドアが何度もたたかれたからだ。
「ササオ! 音キメてないでさっさと出てきな! 新入りくんもそこにいるんでしょ!」
「……ああ、もうそんな時間か」
ステレオの前で踊り狂う機械と化していた笹岡さんは、ぐったりした顔で入り口の方を見る。それから俺の方を見て、力のない笑みを浮かべる。
「……続きは、また今度」
「あっ、ハイ」
本当は断りたかったのだが、圧に押されて頷いてしまった。自分の意思の弱さが憎い。
ふらふらとした足取りで外に出る笹岡さん。その後に続いて、俺も廊下に出る。
立っていたのは、長い黒髪の女性。スーツ姿で背筋をピンと伸ばして、俺を見ると真っ直ぐに握手を求めてくる。
「初めまして。私は松村(まつむら)梢(こずえ)。四回生です。よろしくね」
「久瀬(くぜ)稔(みのる)です。よろしくお願いします」
松村さんからは、柔らかい香水の匂いがした。一つ一つの動きがやけにピシッとしていて、真面目な人だと一目でわかる。
松村さんは笹岡さんを指さすと、口をへの字に曲げた。
「あんまりササオの言うこと聞いちゃだめよ。こいつ、人のこと誑かすのが得意なんだから」
「そういう委員長こそ、バイトと節約ばっかりで人生の楽しみを知らなすぎだと思うぜ」
二人は目を合わせて、やれやれと首を横に振った。喧嘩が始まる気配はない。二人にとっては慣れたやりとりなのだろう。逆に仲がいいように見える。
「ついてきて。歓迎会の準備はできてるから」
「歓迎会?」
「――ササオ、伝えてなかったの?」
松村さんが眉をひそめると、笹岡さんは気まずそうに目をそらす。
「悪い悪い。ついうっかりってやつだ」
「ごめんね久瀬くん。この後予定があるなら別の日にするんだけど、一緒にご飯食べられる?」
「予定ないです。いけます」
「よかった。ならいきましょう」
会場は103号室。笹岡さんの下の部屋だ。鍵は開いていて、狭い玄関に靴を並べて上がる。内装はほとんど初期状態で、俺の部屋と大差ない。物が少ないのが印象的だ。
松原さんが「おじゃまします」と中に向かって声をかける。ここは彼女の部屋ではないらしい。
四角いちゃぶ台。ガスコンロに置かれた鍋から立ち上る湯気の向こうで、小さな人影がおたまを動かしている。
そして響く、高い声。
「むむっ……このオーラ! さては新入りくん、ただ者ではないなっ!」
足が止まってしまった。振り返った笹岡さんは、にやりと笑っている。
「今、やばいやつだと思ったろ。正解な」
「やばいとな。だがそれは、我にとっては褒め言葉である。天才とは常に、凡愚には理解できないものなのだから……」
まずい。最後の最後にぼろアパートの化身みたいな人が出てきてしまった。最初の二人が比較的常識ありそうだったから、すっかり油断していた。
いるよねこういうところに、思い込み強い人。
「さあ新入りくん、名乗りたまえ。そなたの御名を」
「久瀬(くぜ)稔(みのる)です」
「良き名だ。しかし、波乱に満ちた人生を送ることになるであろうな」
「はあ……」
松村さんがつかつかと歩いていって、ぺしっと頭をたたく。高い声が「いてっ」とうめく。
「こら。久瀬くんを困らせない」
「そんなつもりはないのだ……毛頭、ないのだ」
「なくても困らせてるの。はい、ちゃんと謝って自己紹介」
「うぅ……。ごめんなさい。篠川(しのかわ)ユナです。よろしくお願いします。ユナって呼んでください」
一転して、めちゃくちゃしおらしくなってしまった。ユナさんが小柄なこともあって、松村さんがお母さんに見える。
ユナさんは俺たちをまじまじと見つめて、首を傾げる。
「もう一人のさまよえる子羊はいないのだな?」
「俺べつにさまよってないし人間ですよ」
「なんと。大学入りたてで既に道を見つけているとな。君は大物だ。さてはぬし、孔子の生まれ変わりだな。魂に刻んでおこう」
ずいぶんと偽情報の多そうな魂である。
ツッコむほど話が滞る気がしたので、本題に戻す。
「もう一人来るんですか?」
笹岡さんが猛烈に首を横に振る。
「ああ、大丈夫。気にしなくていい。頭の外に出しておくのがいい。ほら、鍋が食べたくなってきただろう」
「……え、あ、はい」
果てしなく嫌な予感がするけれど、気にしないことにした。こういうのはあれだ。流されるしかない。
歓迎会は大いに盛り上がった。特に笹岡さんと松村さんが酒を飲み始めてからは、盛り上がり方はノンストップ。
こんなふうに羽目をはずせることなんて、高校時代はなかった。ビバ大学生活。素晴らしい堕落の始まり。
「アイス食べたくなってきたわね」
すっかり顔が赤くなった松村さんが、パタパタと服をあおぎながら言う。密室だから、部屋の気温も上がってしまった。ユナさんが窓を開けるのを見て、俺は立ち上がった。
こういうときこそ、後輩の出番だ。
「買ってきます。欲しいものあったら、メッセージ送っといてください」
「みのるんは誠に素晴らしい下僕であるな」
「エグい縦社会?」
ユナさんの戯れ言に返事をすると、からからと嬉しそうに声を上げる。言っていることに目をつむれば、可愛い先輩だ。みのるんって呼ぶのはやめてほしいけど。
「よーし、行ってこい久瀬! 忘れるなよ! 『人生の惨めさから逃れるためには』」
「猫か音楽、ですよね」
笹岡さんはにんまりして、それから物憂げに目を伏せた。その意味は、俺にはわからなかった。アルコールのせいだろう、と気にしないことにした。
靴を履いて外に出る。夜風がほてった肌に心地よい。
東京の夜空に、星は数えるほどしかない。排気ガスの混じった空気の匂い。狭い道。賑やかで、くだらない日々。
悪くないと、素直に思えた。
美しい思い出を捨て去って、ちゃんと自分を認めよう。
そう思った。
でも、わかっていたはずだ。そういうときに限って、理想は目の前に現れる。
笹岡さんが、俺の名前を知っていた理由。それを無視していたことを、激しく後悔する。
「ひさしぶり」
これを呪いと呼ばすして、なんと呼べるだろうか。
こんなに綺麗なものを、どうして呪いなどと呼べるだろう。
街灯の下に、彼女は立っていた。ボブカット。インナーカラーに派手な赤。黒で統一したパーカーとズボン。
なにもかもが、あの頃とは違うはずなのに。
なにもかもが、あの頃のままみたいな顔をして。
雛森(ひなもり)凛音(りおん)は、立っていた。
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