売れっ子歌手になった幼なじみと再会したら、初恋の続きが始まった

城野白

1章 新生活は幼なじみと共に

第1話 久瀬稔のバッドエンド

 思い出は、綺麗だ。


 ――みのるは、大きくなったらなにになるの?

 ――わからない。でも、たくさん勉強して、すごい人になりたい。りおんは?


 ――わたしはね、歌をたくさん歌いたい。

 ――じゃあ、歌手だね。りおんは歌がうまいから、日本で一番の歌手だ。


 ――うん。わたし、日本で一番の歌手になる!


 満天の星、群青の夜空、どこまでも続く青の湖、柔らかな草原。

 あのとき、この世界のすべてが俺たちのものだった。この世界のすべてに君がいた。


 十年の月日が経って、彼女は夢を叶えた。日本で一番の歌手。文字通りのスーパースター。

 対する俺は、なにも成し遂げられないまま高校生活を終えた。挫折だらけの三年間を経て、心は擦り切れてしまった。


 だから俺は、初恋を捨てた。


 車内放送が、東京への到着を告げる。




『えんじゅ荘』という名前を聞いたときに、真っ先に思ったのは「老人ホームみたいな名前だな」ということ。実物を見たときに、真っ先に思ったのは「絵に描いたようなぼろアパートだな」ということだ。


 年季が入ったという言葉が、ここまでしっくりくる建物も珍しい。壁の塗装ははげ、階段や手すりはさび付き、家の前にある畑は荒れ、敷地にはところ狭しと自転車が置かれている。昔の住人が放置していったものもあるだろう。台数と部屋の数が合わない。


 部屋に入る。古い家に特有の、木の匂いがする。家電の設置は済んでいるので、あとは段ボールから物を出すだけだ。


 一時間ほどで荷ほどきを済ませ、挨拶回りをすることにした。不安なことは先にやる。


 手土産のお菓子が入った袋を握りしめ、部屋から出た。ちょうどそのとき、家の前に一台の車が停まった。真っ赤な軽自動車。中から茶髪でパーマの男が出てくる。


 男がこっちに気がついた。サングラスを外して、手を振ってくる。


「君、もしかして新しい住人?」

「えっ、あ、はい。そうです。今日からよろしくお願いします」


 想像以上にフレンドリーな第一声に、声が詰まってしまった。

 男は車の鍵をしめると、階段を上ってくる。革ジャンにスキニーのジーンズ。爽やかな遊び人、という風体だ。


「どっか行くところだった?」

「いえ、ちょうど挨拶回りをしようと思っていたところです」


「そりゃよかった。俺は203号室の笹岡(ささおか)。工学部の三回生。立ち話もなんだし、上がっていきなよ」


 流れるように部屋に招かれ、流されるままに「お邪魔します」と頭を下げることになった。東京ってすごいところだ。


 笹岡さんの部屋は、ヴィンテージショップのような味のある香りがした。壁には海外のロックスターのポスターがあって、部屋の角にはエレキギター……いや、あれはベース、それから枠組みが木でできたステレオがある。


「音楽……好きなんですね」

「男のロマンってやつだよ。もっとも、集めて飾るばっかりだけどね」


 笹岡さんは俺をちらっと見ると、目尻をゆっくりと下げた。


「君は音楽が苦手らしい」

「苦手ってわけじゃないですけど。そうですね、あんまり聴かないです」


 昔からこうだったわけじゃない。遠ざかった時期は、明確にある。そしてその理由も、ひどく明瞭なものだ。


 笹岡さんは台所に行き、ポットでお湯を沸かし始めた。「ブラックは飲める?」コーヒーを淹れてくれるらしい。頷くと、笹岡さんはスプーンで粉をコップに入れる。それからポケットに手を入れて、呟くように言った。


「『人生の惨めさから逃れる方法は2つある。猫と音楽だ』」

「誰の言葉ですか?」


「そこまでは覚えてない。でも言葉は忘れない。真理だと思うよ。猫か音楽か、結局は二択なんだ。このアパートは猫が飼えないだろう。だから、音楽を選んでる」


 それから俺の方を見て、


「久瀬(くぜ)に必要なのは、猫を飼えるアパートなのかもな」


 冗談のようでいて、本気のような、どちらともとれるトーンで言った。

 そういえば、俺はまだこの人に名前も名乗っていない。……あれ?


「今、俺の名前言ってましたよね。久瀬って」

「久瀬(くぜ)稔(みのる)。君の名前だろ。訳あって知ってるよ」


 お湯が沸いて、コーヒーが完成する。焦げ茶色の液体から漂う湯気が、ヴィンテージの部屋と調和していく。


 首を傾げる俺に、笹岡さんは爽やかに言う。


「立たせたままだったな。そこのソファに座って、ゆっくりしてくれ」


 初対面の緊張もあって、詳しくは聞けなかった。おとなしく座ることにする。


 笹岡さんは机の横にある木の椅子に腰を下ろした。


「あの、笹岡さん」

「ん?」


「俺、洋楽は苦手じゃないんです」


 笹岡さんは破顔して、それから肩をすくめた。


「それはとてもいいことだ。おすすめを聴かせてあげよう」


 結論から言うと、笹岡さんの洋楽愛は俺の想像を遙かに超えていた。口を開けばドバドバ出てくる情報の濁流。耳から流れ込んでくる異国の情緒。全身を貫く刺激的なリズム。


 途中からは二人そろってトランス状態、ほぼ無意識の中でやりとりをしていた。


 ようやく正気を取り戻したのは、玄関ドアが何度もたたかれたからだ。


「ササオ! 音キメてないでさっさと出てきな! 新入りくんもそこにいるんでしょ!」

「……ああ、もうそんな時間か」


 ステレオの前で踊り狂う機械と化していた笹岡さんは、ぐったりした顔で入り口の方を見る。それから俺の方を見て、力のない笑みを浮かべる。


「……続きは、また今度」

「あっ、ハイ」


 本当は断りたかったのだが、圧に押されて頷いてしまった。自分の意思の弱さが憎い。

 ふらふらとした足取りで外に出る笹岡さん。その後に続いて、俺も廊下に出る。


 立っていたのは、長い黒髪の女性。スーツ姿で背筋をピンと伸ばして、俺を見ると真っ直ぐに握手を求めてくる。


「初めまして。私は松村(まつむら)梢(こずえ)。四回生です。よろしくね」

「久瀬(くぜ)稔(みのる)です。よろしくお願いします」


 松村さんからは、柔らかい香水の匂いがした。一つ一つの動きがやけにピシッとしていて、真面目な人だと一目でわかる。

 松村さんは笹岡さんを指さすと、口をへの字に曲げた。


「あんまりササオの言うこと聞いちゃだめよ。こいつ、人のこと誑かすのが得意なんだから」

「そういう委員長こそ、バイトと節約ばっかりで人生の楽しみを知らなすぎだと思うぜ」


 二人は目を合わせて、やれやれと首を横に振った。喧嘩が始まる気配はない。二人にとっては慣れたやりとりなのだろう。逆に仲がいいように見える。


「ついてきて。歓迎会の準備はできてるから」

「歓迎会?」


「――ササオ、伝えてなかったの?」


 松村さんが眉をひそめると、笹岡さんは気まずそうに目をそらす。


「悪い悪い。ついうっかりってやつだ」

「ごめんね久瀬くん。この後予定があるなら別の日にするんだけど、一緒にご飯食べられる?」


「予定ないです。いけます」

「よかった。ならいきましょう」


 会場は103号室。笹岡さんの下の部屋だ。鍵は開いていて、狭い玄関に靴を並べて上がる。内装はほとんど初期状態で、俺の部屋と大差ない。物が少ないのが印象的だ。


 松原さんが「おじゃまします」と中に向かって声をかける。ここは彼女の部屋ではないらしい。


 四角いちゃぶ台。ガスコンロに置かれた鍋から立ち上る湯気の向こうで、小さな人影がおたまを動かしている。

 そして響く、高い声。


「むむっ……このオーラ! さては新入りくん、ただ者ではないなっ!」


 足が止まってしまった。振り返った笹岡さんは、にやりと笑っている。


「今、やばいやつだと思ったろ。正解な」

「やばいとな。だがそれは、我にとっては褒め言葉である。天才とは常に、凡愚には理解できないものなのだから……」


 まずい。最後の最後にぼろアパートの化身みたいな人が出てきてしまった。最初の二人が比較的常識ありそうだったから、すっかり油断していた。

 いるよねこういうところに、思い込み強い人。


「さあ新入りくん、名乗りたまえ。そなたの御名を」

「久瀬(くぜ)稔(みのる)です」


「良き名だ。しかし、波乱に満ちた人生を送ることになるであろうな」

「はあ……」


 松村さんがつかつかと歩いていって、ぺしっと頭をたたく。高い声が「いてっ」とうめく。


「こら。久瀬くんを困らせない」

「そんなつもりはないのだ……毛頭、ないのだ」


「なくても困らせてるの。はい、ちゃんと謝って自己紹介」

「うぅ……。ごめんなさい。篠川(しのかわ)ユナです。よろしくお願いします。ユナって呼んでください」


 一転して、めちゃくちゃしおらしくなってしまった。ユナさんが小柄なこともあって、松村さんがお母さんに見える。

 ユナさんは俺たちをまじまじと見つめて、首を傾げる。


「もう一人のさまよえる子羊はいないのだな?」

「俺べつにさまよってないし人間ですよ」


「なんと。大学入りたてで既に道を見つけているとな。君は大物だ。さてはぬし、孔子の生まれ変わりだな。魂に刻んでおこう」


 ずいぶんと偽情報の多そうな魂である。

 ツッコむほど話が滞る気がしたので、本題に戻す。


「もう一人来るんですか?」


 笹岡さんが猛烈に首を横に振る。


「ああ、大丈夫。気にしなくていい。頭の外に出しておくのがいい。ほら、鍋が食べたくなってきただろう」

「……え、あ、はい」


 果てしなく嫌な予感がするけれど、気にしないことにした。こういうのはあれだ。流されるしかない。




 歓迎会は大いに盛り上がった。特に笹岡さんと松村さんが酒を飲み始めてからは、盛り上がり方はノンストップ。


 こんなふうに羽目をはずせることなんて、高校時代はなかった。ビバ大学生活。素晴らしい堕落の始まり。


「アイス食べたくなってきたわね」


 すっかり顔が赤くなった松村さんが、パタパタと服をあおぎながら言う。密室だから、部屋の気温も上がってしまった。ユナさんが窓を開けるのを見て、俺は立ち上がった。


 こういうときこそ、後輩の出番だ。


「買ってきます。欲しいものあったら、メッセージ送っといてください」

「みのるんは誠に素晴らしい下僕であるな」


「エグい縦社会?」


 ユナさんの戯れ言に返事をすると、からからと嬉しそうに声を上げる。言っていることに目をつむれば、可愛い先輩だ。みのるんって呼ぶのはやめてほしいけど。


「よーし、行ってこい久瀬! 忘れるなよ! 『人生の惨めさから逃れるためには』」

「猫か音楽、ですよね」


 笹岡さんはにんまりして、それから物憂げに目を伏せた。その意味は、俺にはわからなかった。アルコールのせいだろう、と気にしないことにした。


 靴を履いて外に出る。夜風がほてった肌に心地よい。

 東京の夜空に、星は数えるほどしかない。排気ガスの混じった空気の匂い。狭い道。賑やかで、くだらない日々。


 悪くないと、素直に思えた。

 美しい思い出を捨て去って、ちゃんと自分を認めよう。

 そう思った。


 でも、わかっていたはずだ。そういうときに限って、理想は目の前に現れる。


 笹岡さんが、俺の名前を知っていた理由。それを無視していたことを、激しく後悔する。



「ひさしぶり」



 これを呪いと呼ばすして、なんと呼べるだろうか。

 こんなに綺麗なものを、どうして呪いなどと呼べるだろう。


 街灯の下に、彼女は立っていた。ボブカット。インナーカラーに派手な赤。黒で統一したパーカーとズボン。


 なにもかもが、あの頃とは違うはずなのに。

 なにもかもが、あの頃のままみたいな顔をして。



 雛森(ひなもり)凛音(りおん)は、立っていた。

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