吾輩は、シュレディンガーの猫である。

@moyashi-_-

吾輩は、シュレディンガーの猫である。

吾輩は、シュレディンガーの猫である。名前はまだつけられていない。

そして今、鉄の箱の中にいる。目の前には毒ガスが入った壺らしきものがある。

壺のそばには金槌があり、そのそばには大掛かりな装置があり、装置と金槌は

センサーで繋がれている。


吾輩が飼い主と出会ったのはいつだろうか。

吾輩は前の飼い主に捨てられ、段ボール箱に入れられ、道路沿いに捨てられていた。

そんな吾輩を拾ってくれたのが今の飼い主である。

彼の眼差しからは優しさを感じ、今回ばかりは大丈夫だと思った。


出会った初日、彼の研究所を案内してもらった。

広さは吾輩が走り回っても体力を持て余すほど広く、窓からの景色は高すぎて怖い。

実験室には様々なものが並んでいた。

大きな装置から小さな光る石まで、全て吾輩にはよくわからなかった。けれども、

隅から隅まで彼のやりたいことで詰まっているんだと思った。


前の飼い主とは違い、彼はよく吾輩に餌をくれる。それに、毛繕いもしてくれる。

吾輩を金稼ぎの見せ物として使った前の飼い主とは違い、一匹の生物として扱ってくれた。それだからだろうか、彼は吾輩に名前をつけなかった。


人間には案外、いいやつもいるんだなと少しだけ思った。

そんな彼のためになら、命の恩人である彼のためになら、できることはすべて尽くしてやってもいいと思った。

これが間違いだったのだろう。


彼がある日から、「りょうしりきがく」などという呪文を唱え出した。

多分、彼の研究分野なんだろう。しかし吾輩にはさっぱりわからなかった。


その日からだろうか、彼は寝る間も惜しんで研究と実験に没頭していた。

吾輩への興味はなくなったんだろうか。


少しづつ彼の顔が狂気に満ち溢れていった。

あの頃の優しさはなくなったんだろうか。


そして昨日、彼は泣き出した。

実験がうまくいかなくなったんだろうか。


今朝、吾輩は鉄の箱の中に入れられ、上から蓋を閉められた。

箱の中はあの頃の段ボールのように冷たく、吾輩の肉球も徐々に熱を奪われていく。

吾輩はもうすぐ、「実験」という名目で、飼い主に殺されるのだろう。


彼が吾輩を拾ったのは、この実験のため。

名前をつけなかったのは、あくまでも生物、あくまでも実験材料として。


人間を信じた吾輩が馬鹿だったのだろう。


装置が光りだした。多分、もうすぐ実験が開始されるのだろう。

耳を澄ますと、微かに彼の啜り泣く声が聞こえる。

やはり吾輩の存在は、他人を不幸にするのかもしれない。

吾輩が世界から消えれば、誰も不幸にならないのかもしれない。

あの世へ渡る心の準備をする。高いところは苦手だが、彼のためなら。

吾輩は静かに目を瞑った。


五分もしないうちにけたたましい音が装置から鳴り響き、急停止した。

ガサゴソといった音ののち、重たい蓋が上がり、光を目にした。

そこには彼の姿があった。彼は吾輩に向けて泣きじゃくりながら。

「ごめんよ。君の命をかけてまで実験をして。」と。

なんでも、彼は実験をしている最中、吾輩のことが惜しくなり、装置を緊急停止したそうだ。

吾輩は彼に抱かれ、鈍色の箱を出た。


吾輩の毛繕いをしている彼の姿を目にしながら、吾輩はもう一度考える。


「やはり吾輩の存在は、他人を不幸にするのかもしれない。」


あの世へ渡る準備はもうとっくにできている。高いところは苦手だが、

吾輩のためなら。彼らのためなら。


そう思い立った吾輩は窓の外から飛び出し、研究室という箱を出た。


ドンという鈍い音と共に、吾輩は背中から着地した。

少しずつ全身の熱が奪われていく。

意識が朦朧としてくる。感覚も薄れていく。


この数分後に、吾輩はこの世界という箱を出た。

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