第4話 愛とは

 エスは意識が朦朧とする中、ティーのニヤリと気色悪く笑う顔と不快か快感か判断のつかない感触だけが体中に残った。


 ティーは、キッチンに向かった。エスはぼんやりとティーの後ろ姿を見つめた。キッチンで何かを取り出す音がする。銀色に光る鋭利な色。物音ひとつしないのが、逆に怖さを倍増させる。


「殺せよ」とエスは静かに言った。


 ティーは手に持った包丁を置いた。「死にたい人間を殺したりなんかしないよ」


 ティーは、エスがソファの上で倒れ込むのを横目で見ていた。そういえば、あの日、愛も同じように、ソファの上で倒れてみせた。


 桐崎愛がグループの握手会に来たのは、デビューして半年ほど経った頃だった気がする。ティーは初め、愛だとは気づかなかった。


「あの日、私の家でクッキーを食べていた」という愛の一言で、ティーは、彼女を思い出した。小学校の頃の同級生。父親の仕事の関係で、あちこち転勤をしている子だった。左手の薬指を見ると、きらりと光る指輪がついていた。


 その後、愛からティーのスマホに連絡が入った。2人とも連絡先を変えていなかったのだ。愛はティーの家にやってきた。


「なんで連絡先を変えていないの」


 愛は言った。


「このメアドだけ変更を忘れていた」とティーは嘘をついた。本当は、いつか誰かが僕を思い出して、連絡をくれるかも、という打算だった。


「あなたがまさか人気アイドルになるなんて」と愛は震えた声で言った。


「そんな顔して言わないでくれよ。愛は、なんで僕だってわかった」


「見たら、わかる、私には」と愛。「達也、あなた、とても人気よ。銀行員の奥様会に、あなたのファンがたくさんいるの。本当は誇らしくいたいのに。あのね、りょうの、昔の同級生が、あなたのマネージャーなの」


「香里奈さん?」


「そう。優秀な人みたいよ。時折、その、香里奈さん、という方から、りょうに連絡が来るの。就活で会ったよね、とか」と愛は目線を落とした。


「りょうって誰?」


「ごめん、旦那。親から紹介されたの。将来必ず出世させてやるから結婚しろって」と愛。


「君はそれでいいの?」


「みんなそんなもんよ。それに、アイドルのあなたなら、よくわかるでしょう?」と愛は言うと時計をチラリとみた。「あまり遅くなるとりょうに叱られる。ねぇ、お願い。なんで私が、危険を承知でここに来たと思うの。お母さんを助けてあげて」愛は消えいるような声で言った。


「君が企んだことだ」


「そうね、私が偽証した。あの時、私たちは、小3だった。『あの日はうちに来て一緒にクッキーを食べていました』って警察に言ったから、あなたは罪を逃れた。あの時、私はあなたが好きだった……。好きという感情も、愛もよくわからず、あなたに執着していた。あなたのお母さんはね、あなたに会いたがっているの。このままでは、息子とその友人を殺した罪で死刑が執行されてしまう。情報が入ったの。もうすぐだって。お願い、もう逃げるのをやめて。私も一緒に行ってあげるから」


「おふくろが俺に会いたがってる?面会に行った俺を何度も拒んだのに?」


「お母様はなんで、あなたの身代わりになったと思うの。あなたが祖父母に引き取られた後も、お父様は何度も引っ越しをしたのよ」と愛は言った。


「おやじ?今、おやじは、どうしてる?」とティー。


「知らないわよ!」と愛は泣いた。「ねぇ、お願い。私はもうつらいの」


「僕がサイコパスの殺人鬼だって意味、君わかってる?」ティーは真顔で言った。「君をここで拘束したっていいんだ。君の願いを叶えたところで、君は僕に何をくれる?」


「見返りを求めることの虚しさなんて、あなたが一番わかっているくせに」と愛は言うと、ティーを引っ張り、自らソファの上に寝そべった。


 愛は、ティーの手の平を自らの胸にあてた。


「これ以上自分を傷つけないで。あなたは生きているのだから」

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