第2話 街に潜む

 マネージャーは部屋に戻ると、大きな窓のカーテンを開けた。窓に跳ね返り映る自らの全身を見る。化粧をして、ピンクのワンピースで着飾っている。


 黒くて小さな机に置いたウイスキーの瓶を開けて、グラスに注いだ。一口飲み、再び机の上に置く。アメニティの一つ、日本橋の老舗の和菓子店のレモンキャンディーを口に含み、ゆっくりと転がして溶かす。まるで味がしない。


 浴室へと向かうと、無造作に服を脱いだ。黒で統一された、埃一つない綺麗な浴室。鏡に自らの裸体が映る。脱毛で産毛ひとつない肌。エステ通いによる整ったプロポーション。ジムで鍛えた引き締まった筋肉。そこに含まれる微かな本音が、年齢と共に浮き出てきてしまい、もはや言い訳が効かない。


 愛されたいと思うのはそんなに悪いことだろうか。


 なぜ、私には結婚どころか彼氏さえできないの?なぜそのことを既婚者の友人に相談すると、結婚する必要はないなんて言うの?


 友人の結婚式に何度も出席し、返ってくるかもわからないお祝儀を出した。スピーチで泣いても見せた。子供が生まれたら、自分の子供みたいに可愛い、なんて嘘をついた。その度に、惨めな気持ちになる。私の人生って何?キャリアのために諦めなくてはならないことがあるの?今は担当のグループが佳境だから?


 全部言い訳。みんなにとって当たり前のことが、自分にはできないという、どうしようもない劣等感。職場では輝いている自分が、負け組となってはならない。公立高校から塾にも行かず、大学の奨学金も一年で返した。今ではスイートルームに泊まれるほどの人間になった。ほら私は存在価値のある人間だ。


 一体、みんなどうやって孤独の埋め合わせをしているのだろう。マネージャーの脳裏にはバーのオレンジ色の照明に映えるエスの怪しい横顔が浮かぶ。


 シャワールームに入り、蛇口を捻った。水滴が心地よく肩を叩く。シャワールームの透明な仕切り板から、丸い浴槽が見える。1人で使うには、あまりに大きい。


 彼は来ない。わかっていながらも、どこかでエスなら、と期待をしてしまった。今も、部屋の鍵を開けたまま、少しばかり心の踊る自分がいる。そんな自分が気持ち悪い。


 マネージャーは浴室を出ると、バスローブを羽織った。髪も乾かさないまま、大きな窓から外を見る。雲ひとつない闇に、月明かりが怪しく差す。マネージャーはネオン輝く街を見下ろした。


 室内の様子がガラスに映った。キングサイズとも見紛うほどの大きなダブルベッドが背後に置いてある。


「あっ」


 窓に、エスの姿がうつったのがわかった。マネージャーは窓を見つめながら、ふっと息を吐き、震える唇を噛んだ。


 マネージャーは目をゆっくりと瞑る。


 エスは、無言のまま、後ろからマネージャーに抱きついた。体に他人の温もりがあることが、これほど存在を肯定された気持ちになるのか。エスは、そっとキスをした。2人の吐息が混じる。


-綺麗だ


 エスは囁く声で言った。


 エスはマネージャーの頭を支え、ゆっくりとベッドに押し倒した。エスは唇を離すと、自らのシャツを脱ぎ、マネージャーのバスローブをはだけさせた。その手際の良さは、経験の多さを彷彿とさせる。


 ブラジャーのホックに手がかかった時、マネージャーは一筋の涙を流した。エスは一旦手を止めた。マネージャーの手は震えていた。大丈夫続けて、とマネージャーは小声で言った。


 エスは、マネージャーの身につけているバスローブを取り払うと、首筋に口付けをした。


 次の瞬間、マネージャーはつぶやいた。


「……ょう」とマネージャー。


 エスは耳をそばだてた。自分の名前を読んでいるのだろうか。あるいは初めての感触に嬌声をあげたのだろうか。エスはマネージャーの乳房に触れようとした。


「りょう」とマネージャーは再びつぶやいた。


 エスは混乱した。りょう?確かにマネージャーはそう言ったのだ。間違いない。


「りょうって誰だよ」


 エスはそういうと、目をカッと見開いて、マネージャーの首を絞めた。


「誰だよ、りょうって」


「うっっ」とマネージャーはくぐもった声をあげ、足をバタバタとさせた。


「言え、誰だよ。りょうって、誰だ」


 エスはマネージャーの首をさらに強く絞めた。マネージャーは、ウッと苦しそうに再び声を上げ、そして、バタリと力がなくなり、体が硬直して全く動かなくなった。


 エスは急いで手を離した。まるで魔法が解けたかのように、エスは呼吸を乱してた。月だ。月のせいだ。月明かりが僕を、惑わすのだ。エスは激しく混乱し、脱いだ衣服を急いで着ると、その場から走って逃げ出した。


 廊下がとてつもなく長く感じる。エレベーターを見つけると、下り用のボタンを連打した。


-くそっ遅いな


 やっときたエレベーターに乗り込むと、一階まで降りた。


 ドアマンがいる。


 エスは高まる鼓動を抑えるように、ゆっくりと歩いた。ドアマンの視線が刺さる。バレているだろうか。こちらをちらりとみてきた気がする。


「お待ちを」とドアマン。


 エスはぴたりと歩みを止めた。


「落とされましたよ」


 ドアマンはエスに、携帯を渡した。あまりの気の動転に全く気がついていなかったようだ。


「ありがとう」


 エスは携帯を奪うように取ると、ホテルを出て行った。


 街に出ても、ネオンと月の光があまりにも明るく、エスの逃げ場はない。近くの公園に入ると、ベンチに座り込んだ。


 大変なことになってしまった。街中を走るパターカーの音が、まるで自分を追っているかのように聞こえる。


 エスは携帯を取り出した。飲みに行こう、とティーから連絡が来ている。


 エスはティーに急いで連絡をした。


-おまえんち、今から行っていい?


 ティーの既読はすぐついた。


-いつでもどうぞ


 ティーから地図が送られてくる。エスは携帯を握りしめた。

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